第14章

 光彦は温泉と和室のあるリゾートホテルを予約した。その方が旅情があり、りんが喜ぶだろうと思ったからだ。


「手を繋いでもいいかい?」

「はい、もちろんです」

鎌倉に着くとすぐに、光彦は誰に憚ることなくりんと手を繋いで歩いた。

 だが、すれ違う人の視線はやはり気になる。

 自分達は他人からはどう見られているのだろうか?歳の離れた夫婦だろうか?手を繋いでいるので父娘には思わないだろう。やはりパパと愛人と思うのだろうか?

 

 鶴岡八幡宮、鎌倉大仏、紫陽花寺や他の寺院を見学した後、ホテルに入った。

 案の定、和室にりんは喜んだ。

「わあ、嬉しいー!こういう旅館みたいな部屋に泊まるのは初めて。やっぱり旅行は和室がいいよね。なんか風情があって」  

 温泉から出ると、りんは浴衣を着て、珍しく薄く化粧をした。

 普段はすっぴんしか見たことがなかったので、浴衣姿と化粧が相まって、彼女の姿にはこれまでに見たことのない色香が溢れんばかりに漂っていた。


 夕食の時刻になり、浴衣と丹前姿のままホテル内のレストランに行った。

 食前酒を飲み、和食を食べながら、今日の観光の話をし、明日は江ノ電で、江ノ島に行き、水族館に行ってから、江ノ島神社の参道の商店街でタコ煎餅やしらす丼を食べようとか相談した。

 りんは普段から快活でよく喋るのだが、今日は特に饒舌で、目を細めて微笑みながら、「楽しかった」とか「嬉しい」とか「幸せ」とか会話の中で何度も何度も言った。

 そう言われる度に満足感の雫が光彦の心に滴り落ちた。こうして来て良かったという思いが増していく。

 

 部屋に戻ると布団が敷いていた。二つの布団が引っ付いて敷かれているのが何だか嬉しい。

 光彦が旅行を誘ったのにはいくつかの理由がある。

 もちろん、一番はりんに対するお礼で、彼女を喜ばせたかったことだったが、他にもりんと堂々とデートをしたかったこと。そして、もう一つは環境を変えることで夜の行為が上手くいくのではないかという期待もあった。

 日頃のストレスが軽減され、心は幸福感に溢れていた。

 いつにも増して美しいりんの姿に欲情を抑えきれずに、光彦はすぐに彼女を寝かせて浴衣の前をはだけた。そして、激しく彼女を愛した。

 これまでになかった熱いものが彼の内側にこみ上げてきて、今夜こそ上手くいきそうだ、そう思った。

 ……が、駄目だった。……すぐに駄目になってしまった。

 光彦は絶望感に打ちのめされた。

 身体を離し、放心したように上向きに寝転んだ。

 りんは光彦の顔を優しく撫でながら、「そんなにがっかりしないで」と言った。

「でも、今までで一番凄かったです。大仏様の御利益かな?ねえ、今度は奈良の大仏を見に行きましょう。そしたらきっともっと凄くなりますよ」

 りんは慰めたつもりなのだろうが、そんな軽口が余計に堪える。光彦は何も考えられずにぼうっと天井を見つめた。


 しばらくの沈黙の後、りんは自分の中でとても大切にしている話があるので、聞いて欲しいと言った。

「前にお腹の傷痕はタトゥーを消した後だと言ったでしょ。それは例の暴力ホストと若気の至りで入れたものだけど、右の蝶々のタトゥーは自分が入れたくて彫ってもらったものなの。……蝶の海渡りという言葉を聞いたことがありますか?」

「いや、聞いたことない」

「私ね。すごく貧しかったの。雑魚というのだけど、漁師さんから売り物にならない魚を安く売って貰って、お母さんはそれを干物にして売っていたのね。そんなの大したお金にならないのよ。いつも売れ残った干物や干物に出来ないほど小さい魚をカリカリに焼いてそれを食べていた。お腹が空いた時は水を飲んで我慢した。

 おいしいものなど食べたことがなかった。母子家庭だったので、支援があってなんとか給食費は賄えたのね。学校の給食が一番の御馳走だったわ。

 私、小さな公園に行くことが好きでしょ。

 実は思い出があってね。小学校から家に帰る途中に小さな公園があってね。

 ある時、そこで絵を描いている若い男の人がいたの。

 私の住んでいたところは温暖な気候なので、別荘などもあり、お兄さんはなんかの病気の療養のために近くの家を借りていると言ってたけど、ボサボサの髪でガリガリに痩せていてね。

 天気の良い日には絵を描きに公園に来ていたの。

 学校の帰りにそのお兄さんのところに行くと、いつもキャンディやキャラメルやチョコレートをくれたの。今から思うと安いお菓子だったけど、その時の私にはすごい宝物だったわ。妹と分けたりして、大事に大事に食べたの。

 そのお兄さんは物静かな人だったけど、物知りで色々な話をしてくれたの。たぶん、あのお兄さんは私にとって初恋の人だったと思う。

 そのお兄さんがある日蝶々の絵を描いていたの。

 一番下の蝶は地上にいて、一番上の蝶ははるか空高くにいて、その間を夥しい数の色とりどりの蝶々がアーチを描いて、一列になって、青い空を背景に飛んでいる絵だったの。幻想的でとっても素敵な絵だった。

 それをじっと見つめていたら、お兄さんが蝶の海渡りの話をしてくれたの。中国の話だったかな?数十年に一度、無数の蝶々が一斉に大河を飛んで渡って行く現象が起こることがある。それを蝶の海渡りというのだと教えてくれた。

 その話がずっと頭に残っていて、もしかしたら、私が中学を出て、大阪に行ったのも、瀬戸内海を渡って飛び立ちたかったのかもしれない。それに今、こういう風に全国を旅しているのもその話が私の潜在意識の中にあるのかもしれない」

「その男の人はどうなったの?」

「わかんない。ある時いなくなって。……毎日公園を覗いたのだけど、もう二度と戻ってこなかった。病気だと言っていたので、子供心に入院したのだと思った。

 今ならめちゃめちゃ探したと思う。しかし、子供の頃っていうのはなんか諦めるというか、運命を素直に受け入れるところがあると思いませんか?」

「確かに。自分の無力を知っているせいかな。深く考えることなく自分の境遇を受け入れるな」

「あとね、金沢にいた時、寮のアパートのドアのところに蝶々が止まっていたの。それを捕まえて、部屋の中で放ったけれど、なんか面白くなくて。

 その時、この蝶々に蛍光塗料を塗って、暗闇の中を飛ばしたら、お兄さんの話とは違うけど、幻想的な情景になるのではないかと思いついたの。それで、蛍光塗料を買いに行って、蝶をその中に浸けたの。そしたら、蝶々は動かなくなって……死んでしまったの。可哀想なことをしたわ。

 ……ねえ、私、いずれはこのタトゥーも消そうと思っているの。

 こういう日陰の暮らしでなく、日の当たる生活を始めるためには、いつかこのタトゥーも消さなければならないと思っているの。でも、なかなか踏ん切りがつかなくて。

……お金がないのもあるし、黄色の入れ墨を消すのは凄く痛いというので、それもあるかな」

 そう言って、リンは弱々しく笑った。光彦は彼女を強く抱きしめた。彼女が愛おしくて堪らなかった。

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