第13章

 ある日、いつものように、ベットで仰向けに並んで寝ながら、りんは「奥さんとはこういうことはしないの?」と聞いてきた。

「しないね。ずっとしていない。実を言うと、夫婦関係はもうとっくに破綻している。君と初めて会った日も盆休みで、名古屋の家からここに戻って来た時だったけど、帰省したのは家族に会うためよりも墓参りと親戚の集まりに出るためだったんだよ」

「確か娘さんがいたのですよね?」

「そう、家内と娘の三人家族なんだけど、なんかもう家には居場所がなくてね。家内も娘も距離があってぎごちなく、家にいても息が詰まるばかりで。逆にこっちに戻ってきて、気が楽になったりして」

そう言って、光彦は自嘲気味に笑った。

「結婚した時はお互いに愛し合っていたのでしょ?」

「もちろん。恋愛結婚だったから。でも、なんといったらいいのかな……。色々なことが重なって、亀裂が段々と大きくなって」

「何かあったのですか?」

「そう言われて、すぐにこれと思い浮かぶほどの大きな出来事はないけど。……昔のことでは、いくつかあるかな。

 僕の母親は10数年前に亡くなったのだけど、母がまだ元気な頃、親戚の集まりで家内が小さな失敗をして、母が家内ことをからかったそうだ。その時に僕がかばわなかったと今でもよく責められるよ。僕はあんまり覚えていないのだけどね」

「お父様はいなかったのですか?」

「親父は僕がまだ高校の時に死んだんだよ。母は相当我儘で感情の起伏の大きい人だったんだよ。そんな母の味方をいつもしていたと家内は言うんだよ。母に怒ったら、すぐに泣き出すから、そんなのはうんざりなので、あまり叱らなかったのはあるかもしれない。親父が生きていたら母を抑えていたので、また違っていたかもしれないけど。

 あと、母が死ぬ前に病院で世話したのは主に自分なのに、僕の親戚達は感謝を示さなかったとか言われる。僕から見たら感謝していたと思うんだけど、家内にはそう思えなかったみたい。でも、兄弟達に、家内にお礼を言えとは言えなかったしね。

 家内にはすごく感謝していたんだよ。しかし、それがどうも上手く伝わらなかったらしい」

「奥さん、たぶん一生懸命尽くしたのだと思います」

「うん。泊まりで付き添ったわけではないし、下の世話などは病院の人がしてくれたので、みんなそれほど大したことはないという気持ちもどこかにあったのかもしれない。だけど、家内にしたら幼い娘を実家に預けてまで、母の世話をみたのにという気持ちで、ギャップがあったのだと思う。

 その辺りをもっと考えて、もっと労っていたら、少なくとも僕だけは精一杯の感謝を示していたらよかったなと今になっては思うよ」

「そうですよ。奥さんに毎日感謝の言葉を言うべきだったと思います」

「でも、毎日はなかなか言えないよ」

「女の人は言って貰いたいものなのよ」

「それにね、話の脈絡とは関係なく、突然昔のことをほじくり返して、あの時はこうこうだったとか怒り出すんだよ。こっちはあんまり覚えていないので、抗弁出来ないし」

「女の人は昔あったことは忘れないですからね」

「あと、小さなことでは、僕が洗面所をよくびしょびしょにするのが我慢ならないとか、食べたものをよくこぼすとか、使ったものを元に戻さないとか、トイレットペーパーを使い過ぎるとか、小言はしょっちゅう言われるよ。「私はあなたの召使いではありません」とも言われたことがあるよ。 

 些細なことだけど、注意される度にトゲが刺さるように言葉が次々と心に突き刺さって、それがある限度を越えたら、若い時は我慢出来なくなって、僕もキレて罵り合いになったことはある。

 でも、そんなことも後になってから、あの時はこんなひどいことを言われたと責められるんだよ。それに、もう喧嘩するエネルギーもないので、最近は言い返すことなく、げんなりした気持ちになって、さっさと逃げ出すようにしているよ」

 光彦はまた自嘲するように笑った。

「娘さんはお父さんと離れて暮らしていて、寂しがってはいないの?」

「ああ、今高校2年だけど、むしろ帰って来るなという感じだよ。中学に入る頃になると、家内から「私が言っても聞かないから、注意してくれ」とか言われて、その通りにしたら、「たまにしか会わないくせに。私のことを何も知らないくせに。偉そうに説教ばかりする」と思ったんじゃないかな。その頃から、段々距離を置かれるようになってしまい、喋ることも当たり障りのない世間話だけになってしまった。

 そうそう思い出したけど、ピアノの発表会に行けなかったこともあったな。急に仕事が入ってね。父親参観にも行けない時もあったな。

 でも、一生懸命に仕事をしてるのも、家族に綺麗な服やバッグを買ったり、習い事をさせたり、贅沢で快適な生活をさせようという一心からだよ。しかも、昭和の親父のようにまったく家族を顧みないということもなかった。十分家族サービスをしてきたと自分では思っているのだけどね。

 でも、そもそも家族サービスという考えからして間違えていたのかもしれない。

 今の若い人を見ていたら、夫婦が協力し家事や育児を分担するのが普通みたいだからね。それからすると、亭主失格だったのかもしれない」

「別れようと思ったことはないのですか?」

「何回もあるよ。言い争いになった時なんか、もう無理だ、離婚しようと何度も思ったよ。ただ、現実に離婚するとなると、財産分与や養育費など色々揉めて途方もないエネルギーが入りそうだし、世間体もあるし。それに実質的には今も離婚しているのようなものだから、別に改めて正式に離婚しなくてもいいし」

「夫婦って、難しいものですね」

「うん。他人が一つになるということだからね。……手を握っていいかい?」

「はい、もちろんです」

光彦はりんの手を優しく握り、りんも握り返した。

「おじいさんとおばあさんがこういう風に手を繋いで歩いているのを見かける時があるけど、どういう風に過ごしたら、あのようになれるのか不思議に思うことがよくあるよ。

 ああいう風に一人の人をいつまでも愛し続ける関係が理想の姿なのかもしれない。

 しかし、どこでどう間違えたのか、残念ながら僕と家内はああはなれなかったな」

「そうなんですか。なんか切ないですね」

「あと、男と女の考え方の相違も大きいよね。昔、雑誌で読んだアメリカの話なんだけど、恋人達がドライブをしていてね。助手席に乗っていた彼女が運転している彼氏に「喉が渇かない?」と聞いたら、彼は「いや、別に」と言ってそのまま運転を続けたところ、彼女が凄く不機嫌になってしまったという筋なんだよ。

 そういう時は、女の人は自分が喉が渇いたと言うことを暗に言っているのだから、「君は?」と訊くかとか、「じゃあ、何か飲もうか?」と言うのが正解だったという話なんだけど。

 それを読んだ時、なるほどねと感心した記憶がある。そして、男女の関係は世界共通なんだとも思った」

「あら、そうかしら。私なら、喉が渇いたから何か飲みましょうって、はっきり言うけど」

「確かにね。君なら言いそうだね」

 光彦は笑った。

「私、考え方が男っぽいのかな?」

確かにそうかもしれない。恋愛偏差値が低く、女心が分からない自分でも、りんといると気を遣わない。それで自然体で楽にいられるのかもしれない。

「変な話をしたね。こんな美女ともの凄い偶然でこういう関係になれたのにね。野暮なことを言ってしまった」

 普段は自分の思ったことをストレートに口に出せない質の光彦だったが、感謝を言う話をしていたせいか、この時は思っていたことが素直に口をついた。

 りんは笑いながら、頭を振った。

「あら、珍しい。お世辞を言う時もあるんですね」

 そう言って、手の指を絡ませて来た。それから、思いついたように尋ねた。

「最後に奥さんとしたのはいつですか?」

「もう10年近く前になるかな。娘と三人でハワイ旅行に行ったんだよ。ワイキキって知ってるでしょ?そこが有名な場所なんだけど、そこから少し外れたホテルに泊まったんだよ。それでプライベートビーチがあってね。そこに行くと、金髪美女が2人トップレスでいてね。思わず欲情してしまった」

 光彦は照れ笑いをしながら言ったが、りんは別のことを連想したようで、

「家族旅行でハワイかあ。いいなあ。憧れるなあ。そんな生活、私も一度はしてみたいなあ」

 少女のように目を輝かせながら、そんなことを言った。

 光彦はりんの献身的な働きに対して何かお礼をしたいとずっと思っていた。

「旅行は好きなの?」

「うーん、分かんないです。全国を転々として旅行みたいな生活をしているけど、温泉に行くとか、泊まりでどこかに観光をしに行くとかは一度もしたことがないのです」

「じゃあ、今度の三連休に旅行に行こう。ハワイは無理だけど、近場なら大丈夫。一泊二日で旅行に行こうか?」

 りんは飛び起きて、彼の方を向いた。

「えっ、本当にいいの?」

「うん、どこがいい?」

「えーとね。では、江ノ島はどうですか?江ノ島って水族館があるんでしょ?昔、テレビで、そこの水族館でクラゲの飼育をしている人と風俗嬢との恋愛ドラマがあったの。物語のラストは、夜、クラゲの水槽の前で二人が抱き合うシーンで、とってもロマンチックで素敵だったわ。それ以来、実際に水槽の中を漂っているクラゲを見てみたいなとずっと思っていたの」

「分かった。では、僕も大仏をみたいので、鎌倉で観光して、ホテルに泊まって、翌日は江ノ島に行こう」

「ええ?そんなのいいんですか?やったー!」

りんは万歳をして、それから彼に抱きついてきた。

「本当にいいんですか?嬉しい!一杯楽しんで、一杯いちゃいちゃしましょうね」

 

 

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