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なあんだ、結局何も起きなかったじゃん。元紀は心の中で安堵と緊張が入り混じった感情を抱いた。こうも正反対の感情が同居するとは、滅多にない体験をしたものだ。
この感情、なんて表現すればいいんだろう。まるで、両手と両足を持たれて、体をピンと張られた感覚に近い。自分は生きてるという安堵感と、両手両足を少しでも引っ張れば体が裂けるかも知れない緊張感。
いや、ちょっと違うな。
元紀は手帳に書き込んだ文字をグシャグシャと塗り潰した。何もない事を確認した一行は音楽室を出て、技術室に向かった。技術室は体育館連絡通路を出て左手、校舎の南側にある。その奥には南階段があって、技術室を見終わった後はこの階段を使って二階の図書室に行く事になっていた。
技術室は津江中学校の教室の中では一際大きい方だった。教室が二つくらい入るほどの大きさに、電動ノコギリやハンダゴテ、手洗い場などがあり、腰ほどの高さの棚の上には誰だか分からない胸像が所狭しと並べられていた。だが、その胸像は全員髭の生えた顔の濃い男ばかりで、彼らに気づく者は一握りだったに違いない。
技術室の扉も難なく開いた。先ほどの音楽室と同様、本来なら閉まっててもおかしくないはずなのになぜ開いたのか、元紀は自分を納得できる考えを持ち合わせていなかった。
そして技術室をある程度物色した五人は自ずと先生が作業する机に集まっていた。机の隣には木材を粉々にする破砕機が置かれていて、掃除し切れていない木の粉がそこら中に付着していた。
先ほどの音楽室とは別に怪異と呼べるものは起こっていない。「津江中学校の七不思議」にあるはずのピエロの悲鳴と足音も全く聞こえなかった。
「ここもハズレかぁ」
ラムジーは少し残念そうに肩を落とした。そんな彼の様子を見て元紀と綾子は微笑を浮かべた。一瞬、二人の目があった気がしたが、気がしただけだった。
「誰だ!」
突如ジェノサイダーはそう叫ぶと、目を鋭くして後ろを振り返った。しかし、その先には誰もいない。いや、いていいはずがないのだが。
これを見て四人は思わず笑みを浮かべてしまった。ジェノサイダーは先ほどから見えない敵と戦っているようで、時々こうして自分に注意を向かせるのだった。今回もそれだと思っていた。
しかし、ひたと足音が聞こえた気がして、元紀は笑みを引っ込めた。それを稗島を除く他の者もやっていたので、顔がこわばった。まるで自分達が平和だと思っていた世界がどこかで崩れていく気がしたのだ。再びひた、と足音がした。
ひた、ひた、ひた、ひた。
近づいているのか、遠ざかっているのか、はたまたどこにいるかすらも分からない。しかし、明らかにこの教室のどこかに「何か」がいるのは確かだった。
足音は続く。ひた、ひた、ひた、ひた。裸足で歩いてるかのように、フローリングからその音は絶え間なく聞こえて来る。元紀はこの時みんながどんな表情をしていたかは見えていない。ただ、みんなが押し黙ってその音に耳をすましている事だけは分かった。
ヒヒッと引きつるような音が聞こえた。それは、足音でも生活雑音でもない人が発する声だった。
元紀はとっさにしゃがみ込んだ。なんでしゃがみ込んだのか分からない。けど、このまま机より上に体を出していたら、間違いなく蜂の巣かそれ以上の悲劇に遭うような気がしたのだ。元紀の咄嗟の行動に驚いて、みんなもしゃがみ込む。視界には木製の机と椅子だけ。そして——
次の瞬間、耳が裂けるほどの悲鳴が教室を満たした。まるで空間も揺るがしてしまうかのようなその叫びに、五人は両手で耳を塞いでじっと耐えた。机の上に溜まった木の粉がパラパラと五人の体に降り積もる。
これがどれくらい続いたか分からない。十秒、二十秒、もしかしたら数分続いたかもしれない。その狂気がふんだんに詰め込まれた咆哮に時間感覚さえ掴めなくなってしまった。
ようやく悲鳴が収まり、五人は耳を手からどけた。すると、聞こえてきたのはあたりをジタバタと走り回る足音だった。
僕らを探し回ってる? 頭にそんな疑問が浮かんだ。元紀は必死に考えた。あいつに見つかって……、捕まれば? どうなるか分からないが、この教室を今すぐ出なければならない事は明明白白であった。
その時、元紀の目に一つの影が映った。モジャモジャしたアフロに、壁のシミなのか分からない裂けた口とまん丸な鼻。それは、元紀たちと同じくらいの身長をしたピエロの影だった。
彼を見た瞬間、元紀の意は決した。興奮で全身の血が勢いよく流れていくのを感じる。
元紀は四人の顔を見た。ラムジーと綾子と悠里はすぐに彼の意図を察して頷いた。ジェノサイダーだけが元紀と顔を反らせていたので、悠里が頭を引っ叩く。
「今だ、走れ!」
ラムジーの合図とともに、五人の男女は駆け出した。技術室の扉は鍵がかかる事なく自然に開いた。途端に後ろから先ほどの悲鳴が聞こえてくる。窓ガラスがバリバリと揺れ、机の上にうっすらと積もったホコリが振動した。
それでも五人は走り続けた。本来のルートならいくべき南階段を使わず、反対側の玄関に向かって走り出した。なぜなのかは先頭を走る元紀でも分からなかった。
ただ、今はひたすらに走りたい思いがしたのだ。まさか怪奇現象と遭遇するとは思わなかったが、命さえあればどんなこともスリルに思えてしまう。
命さえあれば。
だから今は走りたかった。走って走って、走り続けて、少しでも長く
四人も元紀の後を追いかけてくる。そして玄関を通り過ぎ、北階段に向かって走り続けた。この時まで少年は青春小説だと思っていた。ちょっとゾクッとすることもある甘酸っぱい青春の一ページになる感動ものだと思っていた。全ての冒険が終わり、僕はこの体験を元にした小説を書き上げて、鮮烈に作家デビューするんだ!
頬に液が滴る。きっと汗だろう。これはスリルを謳歌してる時に流すいい汗だ。走って、走って、走り続けて、元紀は北階段の前に辿り着き、間髪入れずに上り始めた。後続も階段を上り始める。鉄筋造りの北階段は深夜では不似合いな大きな音を立てた。
二階まで上がったところで元紀はようやく足を止めた。ピエロの噂は技術室から一階の廊下まで。もし、二階まで上がって来ようものなら話は別だが、一先ずはここまで来れば大丈夫だろう。彼の後に続いてみんなが駆け上がって来る。下からは相変わらず悲鳴が聞こえていた。
「みんな、大丈夫か?」
ラムジーは三人を見回した。あれ、三人? あと一人足りない。元紀は薄暗いなか、一人一人のシルエットを確かめる。ラムジーに本庄さんに……
「ひっ」
ラムジーは今まで出したこともない甲高い声を出した。目の前にいる悠里の悲惨な姿が目に映ったからだ。彼はとっさに携帯電話の明かりをつける。急に照らされた悠里は顔を手で遮ったが、彼女の顔を見ずともその凄惨な姿は見て取れた。
悠里の手や髪、顔、そしてジャージには真っ赤な液体がべったりとついていたのだ。その液体が血である事は誰しもが見た瞬間に分かった。
独特な粘性も然りだが、鼻をツンとつく絵の具の臭いよりも、生温かい鉄分を含んだ臭いだったからだ。元紀は頬に滴った液体を拭ってみた。それは鮮やかな紅色をしていた。
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