第33話 束の間の平和

 聖女は王宮にやってくると、日々を忙しく過ごした。

 国王や王太子の公務に同行し、その地に病や怪我を負った貴族たちがいれば、治癒術で彼らを治した。

 聖女の可憐さと聖術は瞬く間に人々の話題になり、レイア国中に広まっていく。

 国中の注目を浴びたのは、聖女の持つ能力の類い稀さだけではない。

 並んで公務に努める王太子と聖女は、その美貌だけでも十分目立った。

 もともと王太子の妃は四大貴族から選ばれることが、多い。やがて人々は口々に言うようになった。


「聖女アイリス様は将来、王太子妃になるのだろう」と。


 王宮では聖女の派閥ができあがり、多くの貴族たちがその一員になった。ちなみにそのほとんどが、男だった。

 朝になれば取り巻きの彼らが聖女の住まいである黄金離宮に向かい、彼女を迎えに行く。そうして王宮の広い廊下を、まるで聖女の護衛のように付き従って、三十人ほどの集団で歩くのだ。

 廊下いっぱいに広がって、邪魔くさいったらありゃしない。


(この光景は、前回とほとんど同じだわ)


 ただ、一つ全く違うのは、その派閥の中にギディオンがいないことだった。



 ギディオンと私は仕事中に顔を合わせることはほとんどなかったが、勤務終了後にたびたび会うようになった。

 私の勤務時間は王太子の公務に合わせているので、毎日バラバラだったが、ギディオンは寮の隣にある寂れた中庭で、週末は必ず私が仕事から上がるのを待ってくれていた。

 こうして私たちは週の終わりに仕事の愚痴や、日々のつたないあれこれを話す友人になっていた。


 秋も深まると、日当たりの悪い中庭は寒い。

 仕事が終わってすっかり暗くなった帰り道を、私はいつも急いだ。

 王宮の奥にある私の寮の建物には、既にポツポツと明かりがつき、冷たい風が吹いていた。

 寮とその周りの建物に囲まれた中庭は、小さな花壇とベンチが置かれている簡素なもので、高い建物のすっかり影になって寒々しい。

 ギディオンはベンチに座り、私の帰りを待っていた。


「遅くなってごめんなさい。寒かったでしょう?」


 慌てて駆けつけると、ギディオンは顔を上げて微笑んだ。


「来たばかりだよ。――リーセルこそ、遅くまで大変だね」


 ベンチの隣に腰掛けると、手を伸ばしてギディオンの手に触れる。彼の手は氷のようにすっかり冷たくなっていた。


「来たばかりなんて、嘘でしょ。手が冷え切ってるわ」


 指摘するとギディオンは両腕を広げて私を抱きしめた。彼のローブの中にすっぽりと収まる。彼の服から、清潔な石鹸の香りがした。


「こうすれば暖かいよ」


 暖かいけれど、恥ずかしい。こんなところを帰宅する他の寮生に見られでもしたら。

 ギディオンは私に顔を寄せて囁いた。


「お帰り、リーセル」


 ギディオンの顔が私に近づき、その唇がこめかみにそっと触れる。

 心臓がどうしようもなく暴れ、平静を装うのが精一杯だ。

 こめかみから離れた唇は、今度は反対側のこめかみに触れた。その柔らかさに、たまらず目を閉じてしまう。

 どきどきと心臓が早鐘を打ち、その音が至近距離にいるギディオンの耳にも、届いてしまいそうだ。

 すると今度はギディオンは私の瞼にキスをした。


「……ちょっと、ギディオン……」


 抱きしめられているので、距離が取れない。今度はまた額に、キスをされてしまう。

 ドキドキと心臓が暴れ、顔が真っ赤になるのが自分でもわかる。

 顔じゅうが、猛烈に熱い。


「キスしすぎよ、ギディオン。挨拶のキスっていうのは、出会い頭にほっぺたにするものでしょ」

「それは知らなかったな」

「じ、じゃあ、知っておいて」


 知らないはず、ないでしょう。


「頰になら、怒らない?」


 そういうと、彼は私の頰に長いキスをした。

 頭の後ろに彼の手が回り、動きが制限されているので、キスが終わるのをじっと待つ。


(な、長い。長いよ、ギディオン! こんなに長いキスをする友達なんて、絶対いないでしょ!)


 猛烈に恥ずかしいけれど、抵抗する気は実はない。頭の中では大騒ぎをしてしまうけど。

 本当のところ、ちっとも嫌じゃない……。

 胸がドキドキしているのに、徐々に頭の中はとろけそうにうっとりとしてくる。

 何も考えられない。

 ギディオンはやっと唇を離すと、私を見下ろした。


「リーセルは、今はもう私のことをライバルだとは思っていない?」

「そうね、思ってないわ。あなたは――大事な友達よ」 

「……友達、か」

「あのね、ギディオン。友達は抱き合っておしゃべりをしないと思うの…」


 背中に回された腕をぎこちなく払おうとすると、逆に力を込められる。


「私たちは、する。それでいいじゃないか」


 ベンチの上で彼の腕の中に引き寄せられ、一層頭の中がふわふわとして、本当に何も考えられなくなる。

 ギディオンはふと思い出したかのように言った。


「そういえば、一昨日マックに会ったよ」


 ギディオンによれば、マックは就職してから随分友好的になったのだという。


「王都警備隊の黒と銀の制服が、似合っていたよ。あと、警備隊の中で鍛えているからか、すっかり体格が変わっていたな」

「マックはもともと体を動かすのが大好きだもんね」


 私はギディオンと体を寄せ合って、彼の話を聞いていた。

 私は彼の話に相槌を打ちながら、一つのことをずっと考えていた。


(あなたは、もしかしてあのユリシーズなの? 本当はギディオンの中に、今いるの?)


「ユリシーズ」と呼びかけてみたい。でも、そんなことをしたら頭がおかしいと思われてしまうかもしれない。


 でももし『発動者』のユリシーズが今のギディオンの中にいるのなら、古魔術集通りに行ったなら今も全てを覚えているはず。


(どんな気持ちで、私と今ここにいるの? ――あんなに冷たくして、私を嫌いにならなかった?)


 ギディオンは私に記憶があると思っていない。呼びかけてしまえば、私が彼に剣で刺されて死んだのを覚えている、と教えないといけなくなってしまう。

 そんなことは、とてもできない。

 何より今のギディオンと私が、十三歳から築き上げてきた関係が、全部壊れてしまう気がする。そんなことは、怖くてできない。口にしてしまえば、修復不可能な亀裂ができてしまう。

 私たちは、ただのリーセルとギディオンのままで、いい。

 今はこの二人の関係でいたかった。


(私たちは、バラル州で初めて出会って、国立魔術学院で共に学んだ二人でいたい)


 二度目の私たちは、以前とあまりに違った。

 学院でもいつも皆を助けてくれたギディオン。

 大貴族の出なのに、私に一貫して優しかったギディオン。

 このリーセルは、彼の強さと人柄に、惹かれているのだ。


 この気持ちがどうしようもなく抑えきれない。でも、好きになるのがどうしようもなく、怖い。

 ギディオンはハーフアップにしている私の髪に触れ、肩まわりに流れ落ちる髪に指を絡ませた。彼の指が私の髪先に触れるだけで、心が溶けそうになる。

 燃えそうな気持ちを持て余し、彼の胸にもたれかかって頬を押し付ける。

 するとギディオンは小さく笑った。


「リーセルは、友達にこんなに甘えるの?」

「――そうよ。いけない?」

「そんなにくっつかれると、またキスをしたくなるよ」

「我慢して!」


 これ以上、先に進むのも戻るのも怖いのだ。

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