違う空の下
目が覚めた、と言ってもまぶたは鉛のように重い。いつもより気合を入れたが、それでも半分ほどしか持ち上がらない。無理矢理体を起こした。
薄暗い部屋。わずかなカーテンの隙間から青い光が見える。
ゆっくりと立ち上がりカーテンを引くと、外は目が眩む明るさだった。予想した通りの良い天気で、一面に見覚えのない街並みが広がっている。思い切って掃き出し窓の鍵を開け、ベランダに出てみる。
途端に、熱い空気に圧された。セミもやかましく鳴いているので、季節は、元いたところと同じ真夏のようだ。そしてここは確かに見覚えのない街だが、異世界どころか外国の景色にすら見えない。
ここは三階か、もしくは四階か? 手すりから身を乗り出し、上下左右を確認すると、壁に沿って吹きおろす強風が目に染みる。来た時はわからなかったが、ここはいわゆるマンションと呼ばれる建物の中のようだ。
再びベランダの中に身を収め、前方に視線を戻す。向こうのほうに電車が走るのも見え、そこらの看板に綴られた文字も、馴染みのある言葉と全く同じだ。窓の鍵だって、つまみを回して開ける馴染みの形のもの。今いるところに関しての謎が、逆に深まる。
聞き覚えのある鳥の鳴き声が耳に転がり込んでくる。再び身を乗り出すとスズメが数羽、目の前を横切っていった。
……あれ?
ここまで確認して、部屋にもう一度入った。目に入るのは確かに知らない部屋……男子寮の自分の部屋より広い洋室。家具は隅に寄せるように置かれた机と椅子だけで、がらんとしている。机の上と横に本が数冊ずつ積まれ、中央には自分がさっきまで寝ていた布団が。
えっと、そもそも何をどうしたんだっけか……。
夏の光を浴びてもなお、覚めきらない目をこする。身体はなぜか重だるく、記憶もどこか曖昧になっていて、頭の芯がじんわりと痛む。布団の上に座り込んだ。痛みを逃そうと、深く息をつく。
そうだ、俺は、こちらに来ることを選んだんだった。
◆
あの黒の封筒の中身は、ある細工が施されたカードだった。便箋に書いてある通りにカードの図形を指でなぞった瞬間、父親が仕掛けた魔術が発動し、俺は
落ちていくような、飛び上がっていくような、不気味な感覚。
やがて放り出された場所は、異世界へ通ずる道として想像していた、星が瞬く宇宙のような空間でも色鮮やかな空間でもなく、音も温度もない深い闇だった。
目を開いているはずなのに、自分の姿すら見えないことに気がつくと意識すらも遠くなった。このまま闇に溶けて消えてしまいそうになる恐怖と戦いながら、泳ぐように前へ進んだ。
突然、地面が現れた。ひやりとした感触はすぐにぬるいものに変わる。おそらくフローリングの上に横たわっている……俺は、どこかの部屋にたどり着いたようだ。暗いので、周りの様子はよくわからない。
身体は一応動かせるし、意識もちゃんとある。しかし手足は異常なほど痺れており、とても立ち上がれそうにない。それでも吐き気とめまいをこらえ身を起こすと、父親がいるのに気がついた。
「よく来たな」
その声とともに、ほのかな明かりが灯された。魔術かと思ったが、ベッドサイドの明かりをつけただけのようだ。
こちらもおそらく真夜中。目の前に突然息子が現れたと言うのに、父親はひとつも驚いていない。あの懐中時計を取り出して確認すると、俺の傍に膝をついた。
「……思ったより時間がかかったな。とりあえず今は身体をしっかり休めたほうがいい」
ちゃんと成功した安心感から、俺はそのまま意識を失い、今に至るというわけだ。
◆
この重だるさは、大きな魔術の反動だろう。壁掛け時計があることに気がつき……そういえば、これにも違和感はない。一から十二までの数字が並び、針が三本ついた見慣れた形の時計。
「え。もう十時だったんだな」
日が高い気がしたのは気のせいではなかった。初めて来た部屋で、八時間たっぷり寝てしまうとは……俺もなかなか肝が据わっているらしい。しかし、勝手の分からない場所で次にどう出るべきか迷っていると、ドアがガチャリと音を立てた。
「おう、起きてたのか。おはよう、
「……あ、えっと、おはよう」
呼ばれたのは本来のものではあるが、馴染みのない名前。自分のことだとは思えず、反応が遅れる。
「歩けるか? 朝飯作ってやるからリビングに来い。まあ、適当なので悪いけど」
「ああ、うん」
ゆっくりと立ち上がってみると、立つことはできた。歩くこともできそうだ。足を引きながら歩く父親の後について、隣の部屋へ。広いリビングは、コーヒーの匂いで満たされていた。
目に入ったのはソファーに大型テレビ。キッチンに、少し大きめのダイニングテーブル。椅子は四脚。作り付けだと思われる本棚は八割ほどが本で埋まっている。家具も家電も何もかも洒落てはいるが、普通だ。
そういえば、俺が飛んできた部屋は父親の寝室のようだった。さっき寝かされていた部屋も含め、少なくとも三部屋もある家に一人で暮らしているのだろうか? 椅子は四脚あるんだし、今は留守にしているだけで、他に家族の人がいるのかもしれないな。複雑な思いを抱いていると、キッチンから声をかけられた。
「焼くだけだから、そこに座ってちょっと待ってろ」
「う、うん」
促されるままにダイニングテーブルにつくと、部屋の隅でつきっぱなしになっているテレビに目が向いた。やはり言葉は同じだ……しかし、ニュースに登場する地名や国名は、知っているものとは微妙に違うことに気がつく。
やっぱりここは、違う空の下なのか……食い入るように映像を見た。今は、ある動物園で生まれた双子のパンダの話題で出演者たちが盛り上がっている。さっきはセミやスズメもいたが、パンダもちゃんといるらしい。
「ほら、できたぞ」
厚めのトーストに目玉焼き、ウインナーと茹でたブロッコリー……変わったところなど何もない、シンプルな朝食が並べられた。
「い、いただきます」
「おう」
目の前に置かれたトーストに用意されていたバターを塗ってから、おそるおそるかじる。味にも食感にもなんの違和感もない。表面はさっくり、中はふんわりしていて噛むたびに小麦の香りが鼻に抜ける。
いつもはトーストにはジャムが欲しくなるが、バターの塩気がほどよいこともあり、このままでもとても美味しい。黙ってトーストを味わっていると、目の前に湯気立つコーヒーカップが置かれる。これも、よく知っている香り。
「環? どうしたんだ、難しい顔して。口に合わなかったか? それ、俺のお気に入りのパン屋のやつなんだけども……」
「いや、違うんだ。異世界って言うから、ドラゴンとかモンスターがいるのかと思ったのに違ったから。パンは……すごく美味しいと思う」
そう、地元にいたときに、友達から異世界を舞台にした漫画を借りて読んだことがある。アニメ化もされたこの作品は、主人公が人に仇なすドラゴンを魔術でバッタバッタと倒して、最終的には主人公は人類最強にまでのし上がる痛快ファンタジー。俺の中では異世界といえばはこれのことで、当然ドラゴンがいると思い込んでいたのだ。
ちなみにそいつはその漫画に傾倒していたので、魔術学校に行った俺にもそういう活躍を期待していたらしいが……残念ながら現実の魔術はそんなんじゃない。それに最強どころか、劣等生だったしな。
「あはは、突然何を言い出すのかと思ったら。そんなもんここでもゲームとかアニメの話だ。ああ、でもいるところにはいるぞ。
「え?」
どうやらドラゴンやモンスター的なものと一戦交えた経験があるらしい父親は、『やばかった』と言いながらも軽妙に笑う。半袖のシャツから出ている腕は枯れ枝とまではいかずとも、か細く頼りなく見えるのに、急に歴戦の戦士のようにも見えてくる。
「だから言っただろ、ほぼ同じだって……ん、コーヒー飲まないのか? もしかしてダメだったか?」
「……いや、飲める。砂糖と牛乳があったら欲しい……かな」
「ああ、ごめんごめん。なるほどな」
手をポンと叩いた父親は、戸棚を開け、冷蔵庫を開け。パック入り牛乳と角砂糖の入った丸いガラス容器を取り出し、カップの前に置いた。反射的にパックに書いてある文字を確認するが、違和感はなし。本当に『同じ』らしい。
「……あ、ありがとう」
「すっかりでっかくなってるけど、まだ十五だもんな。気が利かなくて悪かった」
父親はふふっと笑いながら、なだめるように背中をさすってくる。まるで小さな子供のような扱いに、ばつが悪くなった。ブラックが飲めるようになっていればよかった……そんなことを思いながら、喫茶店でしか見ないような洒落た形の容器を黙ってたぐり寄せて蓋を開け、コーヒーに角砂糖を二つ落とした。
すかさず差し出されたスプーンで混ぜ、砂糖が溶けたようなので牛乳を入れる。黒の中を白い
父親は向かいの椅子に腰を下ろし、目尻を下げ俺をじっと見ていた。俺のことを『大きくなった』と言うが、父親だって記憶にある姿とはずいぶんかけ離れていた。髪は真っ白になってしまって、分厚い眼鏡をかけている。しかもその奥をよく見ると、瞳は白っぽく濁っている。
母親と同い年ということはまだ四十歳のはずだが、そうは見えない。向こうの水が合わないせいで身体を壊しただとか言っていたが……そういえば、俺はこれを食べても良かったのか??
「着替えも用意しといたから。俺の服だけど……まあ、サイズは見た感じ一緒だからいけるだろ。今から俺の
急に不安になってきた俺をよそに、父親の声は遊びに行く前の子供のように弾んでいた。何かを思いついたように再びキッチンに立つと、ヤカンに水を入れて火にかけ、棚からカップとポットを取り出した。
今から訪ねてくるという友達のためのものだろう。コーヒーを飲みながらじっと観察していた。缶から茶葉をすくう手が少し震えて見える。やはり、体調が悪いのかも……たまらず立ち上がった。
「て、手伝おうか? もしかして、具合悪いんじゃないのか?」
「ああ、大丈夫だ。今日はむしろ調子が良すぎるくらいだ。お前は気にせずゆっくり食ってろ」
パタパタと手を振りながらそう言われては。大人しく席につき、皿に残っていた目玉焼きをフォークでつつく。塩胡椒で味つけされ、黄身が固まりきっていない焼き加減、どうして俺の好みを知っているのだろうか。
ああ、違うな。昔、父親が焼いてくれたこの目玉焼きが大好きだったからだ。忘れていたことをまたひとつ思い出した。
「お前はもう十五だから巣立ちはあっという間だろうけど、今まで何にもしてやれなかったから、せめて、な」
父親は、心底嬉しそうな顔をしていた。
◆
「わあ。この子が息子くんか。お前にそっくりだな」
突然父親ではない声。口の中のものを急いで飲み込み、顔をドアの方に向けると、目の前には白衣姿の小柄な男性が立っていた。
インターホンも鳴らなかったのに。いや、もしかしてこの世界にはないのか? ああ、この人が父親の友人で主治医だって人か……椅子から立ち上がり、頭を下げた。
「初めまして。ち、父がいつもお世話になってます」
父親の友人は、俺の言葉に凍りついたように動かなくなった。かと思えば目を皿のように開き、わなわなとわかりやすく震えだす。何か失言をしただろうかとうろたえた俺に、持っていた鞄を放り出し、わっと飛びついてきた。肩をしたたかに掴まれ、腰が引けてしまう。
「ちょっとおお!? これ本当にお前の息子か!? どっかで拾ってきたわけじゃないよな!?」
男性にしては少し高い声が、耳の中にわんわんと反響する。ポット片手の父親はうんざりといった顔で俺たちを見ていた。
「そうだよ、正真正銘俺の……って。なあ、何が言いたいんだよこのヤブ医者が」
「うるせえヤブ言うな馬鹿。要らん注射を打つぞ」
「やれるもんならやってみろ。出るとこ出てやる」
二人は友達なんだよな? 俺を挟んで交わされるやや物騒なやりとりにおろおろしていると、謎の白衣さんは父親の言葉を無視し俺に向き直った。
「ああ、お父さんと同じ顔なのに、君はなんてお利口さんなんだ。おじさんは感動した。絶対にお父さんみたいになっちゃダメだぞ。あ、俺は
捲し立てられるように自己紹介を受けると、ぐいと引き寄せられた。抱きしめられるかと思いきや、まるで犬でも可愛がるように、背中や頭をぐしゃぐしゃと撫でられる。小さい頃、父親にもよくこうされていたことを思い出し、胸の中に温かいものが流れ込んでくる。
「おい、だからどういう意味だよ。それに息子はお前のオモチャじゃないんだぞ。しかも自分のことを天才って、お前やっぱりヤブだな」
父親の刺々しい声が飛んでくるが、高月さんはそれに大笑いを返し、特に意に介する様子もなかった。
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