歩いた道、目指す場所・1
突然だが、僕は病院にいる。別に体調を崩したというわけではない。そうは見えないとよく言われるけど、僕は身体は丈夫なんだ。まあ、十五で生まれて初めて風邪を引いたという環くんほどではないけれど。
「生まれたての赤ちゃんというものを、間近で見たのは初めてだけど、本当に小さいものなんだねえ」
「ねえ。私もびっくりしちゃった。まあ、出てくるのがちょっと早かったから、小さめなんだって」
そう、今日は見舞いに……三番目の姉のところに子供が産まれたという知らせを受けやってきた。聞いていた予定日より少し早めの初産。心配していたけれど、母子ともに健康とのこと。
「ともくん、抱っこしてみる?」
「いや、小さすぎて怖いから、もう少し大きくなってからにしようかな」
遠方で暮らす二番目の姉のところにも姪が三人いるけれど、さすがにこんな生まれたての頃は知らない。まだ我が子もいない身としては、首も座らない赤ちゃんを抱っこするのは血が繋がっているとしても躊躇してしまう。
そんな叔父の気持ちを知ってか知らずか、目の前の小さな命は水色の布団に包まれて、少しぼんやりとした表情。生まれ出てもなお、母親の胎内で
代わりに小さな手に触れると、指をぎゅっと握り締められた。思っていたより痩せた指に生えた爪は、かなり長くなっていた。この子はまだ生まれたばかりだけど、確かに時を重ねていたわけだ。なんともいえない不思議な気持ちになる。
「でも、まさか、男の子なんてねえ……女の子だって、母さんやかがり姉さんに聞いていたけども」
「だって、女の子だって言われてたもの。それに、うちは
「……言われなくとも。さて、長居するのも悪いから、今日のところはお暇しようかな。ゆっくり休んで、姉さん」
「ともくん、忙しいのにありがとうね。会えて嬉しかった」
甥と姉に手を振ってから病室を出て、僕はそのまま実家に向かった。こっちはもともと予定していたことだ。真夏の空の下、逃げ水を追いかけるように車を走らせ花屋に寄る。予約していたものを受け取ってから、また少し走った。
実家に到着すると両親への挨拶もそこそこに、リビングの隅に設えられた祭壇に向き合うと、写真立ての中の人は今日も優しく笑っていた。その横にひまわりの花を供えてから、静かに手を合わせる。この家の末っ子の僕も、先日
……姉さんで終わりにしたい。それが、今の道に進んだ理由。今はまだ道半ばだけど、少しずつでも前に進まなければ。僕の時計は、止まらずに動いているんだから。
◆
曽祖母、祖母、母はいずれも高名な魔術師。将来有望と言われる四人の姉や従姉妹たち。いわゆる魔術の名門家と呼ばれることもある一族に、僕は何十年ぶりかの男児として生を受けた。不思議なことに、こういう家は男の子が産まれにくいと言われている。うちも例に漏れず、身の回りにいる男性は、父と、祖父くらいだった。
自然と魔術を使って人を助ける母の姿に憧れて、僕も同じところに立ちたいと思うようになっていた。まだ幼かった僕は、いつか自分もそこに立てるとなんの疑いもなく信じていて。
『大きくなったらお母さんみたいな魔術師さんになる』
通っていた幼稚園の参観日で『大きくなったら何になるか』とひとりひとり聞かれるお決まりのイベントがあった。そこで僕は胸を張ってこう言ったわけだ。見ていた大人たちからは小さく笑い声が起こった。その意味は、家に帰ってから知ることになるんだけど。
「
母の一言に目の前が真っ暗になった。男の子は魔術師にはなれない。僕はその時、そんな当たり前のことを生まれて初めて知ったんだ。でも僕は、当時からとても諦めが悪くて……まだ小さい頭でじっと考えて、ある結論を出したわけだ。
「僕、実は女の子なんだ」
数日後。幼い僕の『告白』を聞いた両親は顔を見合わせて、目をまん丸にして驚いていたけれど、なんと素直に信じた。ちなみに、四人の姉たちも同じ反応だったね。
もともとかわいいものが好きで、姉の服や持ち物を勝手に拝借したりしていたし、当時は三番目の姉の長い髪に憧れて髪を伸ばしていた。そのうえ、あまり活発ではない性格。普段から物静かな女の子に混じって遊んだり、ひとりで本を読んでいることが多かった。
だから、もしかしたら
その日から僕は『女の子』になった。伸ばした髪を毎日リボンで結って、スカートを履いて。小学校に上がってからは、可愛い色の通学鞄を選んで、制服も女の子のものを着ていたんだ。自分で言うのも変だけど、結構可愛かったんだよ。
しかし、努めて女の子として振る舞ってはいたけど、心の中は内気とはいえ男の子。でもそれは秘密にしていた。誰にも本当のことを言わなければ、いつか魔術師になれると信じていたんだ。
◆
「ともちゃんの名前、『あかり』とも読めるよね。そっちの方が、より女の子って感じ?」
大きな窓辺に置かれた椅子。そこに腰掛けた僕の髪を梳かしながら、そう言ったのは一番上の
「うーん、『あかり』かあ。それって、かがりちゃんと紛らわしいって話じゃなかったっけ? ともちゃんでも可愛いと思うよ。あ、ほたる姉。私の髪もついでにやって」
「はいはい、順番ね。ほのちゃんはいつまでも甘えんぼうさんなんだから」
「はい! 紺野ほのかは永遠に姉に甘えますぞ!」
「もうー……いい加減しっかりしなさいね」
まだ自分の名前の字が持つ意味もよくわからない頃に、大好きな長姉が付けてくれた女の子の名前。夢を叶える呪文のように聞こえて、心が弾んだな。今でも時々そう読み間違われると、この時のことを思い出すんだ。
さて。当たり前だけれど、僕の願いが叶うことはなかった。
急に背が伸び声変わりの予感がした時、全てを諦めて本当のことを家族に告げた。長いあいだ大きな嘘をついて迷惑をかけていたのに、驚きはされても誰も僕を責めなかったことが、逆に悲しかったかもしれないね。
それから男子校への進学を決め、小学校の卒業と同時に長い髪を切って久しぶりに男の服を着た。鏡を見ると、中にはどこからどう見ても『少年』になった僕がいた。この姿に悲しみを感じるものだとばかり思っていたけど、安心感の方が大きかったかな。もう、叶わない願いのために自分を偽らなくてもいい。これからは、本当の姿で生きられるんだと。
僕は、実家から離れた全寮制の中学に進学した。知り合いが誰もいない場所。その上、長いあいだ女の子として生きてきたからか、周りが男子ばかりなのになかなか馴染めなかった。最初の方は誰とも話さず、一人でずっと本を読んで過ごしていた……要するに『暗いヤツ』だったわけだね。とはいえ、勇気を出して話してみればみんないいやつだった。次第に新しい暮らしにも慣れ、気の合う友人もできて、それなりに楽しくはなってきたんだ。
夏休みを間近に控えたある暑い日のこと。授業中の教室に血相を変えた先生が飛び込んできて、僕一人を呼び出し廊下に連れ出した。何かやらかしただろうか、漫画本を寮で回し読みしたのがバレたか、なんて思いながら手にかいた汗を拭いていると、先生は思いもよらぬことを口にした。
「紺野、落ち着いて聞いてくれ、さっきご実家から連絡があった。一番上のお姉さんが亡くなったそうだ。ご家族が迎えに来られるから、今すぐ帰る準備を……大丈夫か!?」
そこからしばらくの記憶は抜け落ちている。気がついたら、夏休みも中頃。真夏だというのに、家の中には冷え切った空気が満ちていた。姉さんが三人とも家にいたけど、いつもの楽しそうな笑い声は聞こえてこない。
あの日のように窓辺の椅子に腰掛けたけれど、後ろにほたる姉さんは来ない。もう二度と、話せることも、髪に触れられることもないのだと。顔を上げれば悲しいほど澄んだ夏空が広がっていた。僕は、大声をあげて泣いた。
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