第57話 月明かりの森で

『嘆きの森』とタイトルがつけられたCエリア。森とは言うが、実習林と呼ばれる場所である。


 

ここは行方がわからない人を探すための探査魔術や、特殊な地形において、移動を補助する魔術を学ぶための場所だ。そのため木が茂っているだけではなく、人工的に崖や斜面が作られ、地形は変化に富んでいる。


 本来なら一年生が立ち入るような場所ではない。しかし初めての体育の授業で、ここに迷い込んだ森戸さんを追った結果、二人で崖から落ちてしまった。そして俺が飛行魔術のようなものを使い、空高くかっ飛んでしまった思い出の……ああもう。あの後は大変だった。まあ、体育倉庫掃除のおかげで伊鈴先生と仲良くなれたのはよかったが。


「なんにもないな」


「真っ暗だね」


 門を開けて中に入り、暗い中を二人で歩いた。本当に明かりも何もなく、月明かりだけが頼りの状態。本城さんは平気かと振り返ると、俺のシャツの裾を握りしめて、注意深く左右を観察している。


 ……しかし、まずいな。あの崖は入り口を入ってまっすぐ行ったところ、割とすぐにあったはずだ。まさか何の対策もされていないとは思えないが、ここまで何もないと間違って落ちてしまうのでは? と思ったその時。


 踏み出した先に、地面が、なかった。


「わあっ!!」


「香坂くん!」


 恐怖と暗闇のせいで距離感がよくわからなかった。踏ん張りはしたが、容赦なく足を取られる。本城さんがとっさに両手でシャツを引いたようだが、女の子の力ではどうにもなるまい。万事休すか!


「本城さん、離せ! 落ちるぞ!!」


 また二人で落ちたとしても、俺はもうあの時のように空を飛ぶのは無理だ。そのための方法は、尻餅をついた拍子に忘れてしまっている。


 本城さんが何かの呪文を紡いだのが聞こえた。授業で少しだけ聞いたことがある、古い魔術の呪文に似ている響き。一体何なのかと考えるよりも早く、俺の身体はまるで鳥の羽のようにふわふわと下に降り、着地した。


「私もそっちに行くよ!」


 呼びかけられたので、崖上を見上げる。本城さんが崖から何の躊躇もなく飛ぶのが見えギョッとした次の瞬間、背中に大きな光の翼が生えたことで、さらに度肝を抜かれた。


 俺も飛んだことはあるが、あんなものは出なかったように思う。まるで天使のように薄紫色に光る翼を広げ、ゆっくりと舞い降りてくる。


 光のかけらが雪のように降り注いでくる光景は、今まで見た中で一番綺麗だった。彼女は少し離れたところにふわりと着地し、その瞬間、翼はシャボン玉が弾けるようにパチンと消えた。


「大丈夫!? 怪我してない!?」


「うん……大丈夫だけど、え、本城さん、今のは?」


「あっ! え、えっと。あのね……む、昔ちょっとだけ」


「そうか」


 あまり深く追及しなかったことに、本城さんは胸を撫で下ろしているようだった。魔術学校に入る前に魔術を教わることは違法行為らしいが……おそらく、彼女には何か事情があるんだと思う。こちらもおかげで助かったから、それでいいのだ。無理に聞きだすつもりはない。


 前はすぐに空に打ち上がってしまったために気がつかなかったが、すぐそこに小川が流れているようで、水の音がサラサラと聞こえてきた。


「へえ、小川があるんだね。あ! そうだ!」


 本城さんが駆け出した。川べりに膝をついて、川を覗いたり、あたりをキョロキョロと見回しているようだ。


「何か探しものか?」


「あ、蛍、いないかなと思って」


 蛍か、でももう七月だしな。そう思いながら一歩踏み出した時、足元に何かが落ちていることに気がついて、拾い上げた。


 何だろう、丸くて平べったい。手のひらにすっぽり収まるほどの大きさ。裏にも表にも綺麗な模様が彫られていて、月明かりに輝いている。折り畳みの手鏡だろうか。いかにも女の子が持ち歩いていそうだから、実習の時にでも誰かが落としたのかもしれない。


 前にどこかで見たことがあるような気がしたが、しばらく考えても思い出せないので、後で先生に届けるためにポケットに押し込んだ。


「もう蛍の時期じゃないぞ。ここら辺だと……せいぜい六月くらいまでじゃないか?」


「え、そうなんだ。真夏に出てくるものだとばかり」


 本城さんは残念そうに呟く。女の子でも跨いでいけそうなくらいの本当に小さい川。天然のものなのか、人工的に作られたものなのか。水面が月明かりを吸い込み、ゆらゆらと光っている。


「さて。どうやってここを出ようかな」


 崖から落ちてしまったし、コースアウトしてしまったことはまず間違いない。外に出る道はあるはずなのだが、それを探して下手に動き回るのは逆に危険な気がする。しかし、助けを呼びたくても連絡手段がない。スマホは寮に置いてあるし、他人と通信ができるような魔術もまだ使い方を知らない。


 腕を組んで、崖上を見た。誰かが通りがからないかなとも思ったが……叫び声どころか人の声が全く聞こえてこない。それにここに入ってから、誰にも会わなかった気がする。


 あれ?何かがおかしいな。


「あ、香坂くん。さっきの魔術、すごく大きい反応が出るようにしたんだ。すぐに先生たちがたどって来ると思うよ」


 おそらくさっきの光の翼のことを言っているのだろう。あっけに取られていると、本城さんはえへへと笑いながら、手のひらに丸く灯りをともらせて風船のように俺たちの頭上に飛ばした。大きさは両手のひらに乗るくらいの、さっきの翼と同じ薄紫色の光。これがなんだろう。


 お互いの顔が難なく見える明るさになったが、あれ? 待てよ?


「……光、出せたのか?」


「……うん。騙したみたいでごめんね。この学校で習うようなことは……実はその、もう結構できちゃうんだけど、あんまり目立つことすると、その、ややこしくて」


「……なら、こんなことしたら」


「ううん。だって香坂くんもそうしてくれたから。でも、みんなには秘密にしてくれると助かるかな……」


そう言って、いつものようにえへへと笑う。俺も彼女の横に腰を下ろし、二人並んで小川がさらさらと流れているのを見つめた。水面で月明かりと彼女の魂の明かりが混ざる。


「わかった、約束する。あーあ、それならあの時は、本当に助けなんかいらなかったってことだな。」


 彼女の腕前を目の当たりにした今、カッコつけて出しゃばってしまったことが恥ずかしくなり、頭をかく。本城さんは首を振った。


「ううん。前にも言ったけど、あの時、香坂くんに救われたんだよ。あれからだって救われてて。だからね、一緒にいると胸があたたかいの」


「え」


「出会えてよかった。今は、すごく、大切な人だと思ってるの」


 思いもよらぬ言葉。心臓が跳ね上がったのを抑えるように唾を飲みくだす。目を合わせられない。また都合のいい夢を見ているに違いないと、腿をつねるが特に何も起こらない。


 胸を高鳴らせたままで目を合わせれば、細められた丸い目がまっすぐこちらに向いていた。それは夢の中で抱きしめた彼女と重なって、あの時、伝えたかった言葉が喉元まで上がってくる。


「俺は、あの……その」


 もしかしたら、気持ちを受け入れてもらえるかもと思った。でも『大切』と言うのはあまりにも漠然としている気もして、あと一歩の勇気が出ず、言いよどむ。盛大に目が泳いでいるであろう俺を見た本城さんが、首を傾げた。


「香坂くん……? あ、誰か来たみたいだね」


 確かに、じゃり、じゃりと足音が近づいてくる。誰か探しに来てくれたのか。よりによってこのタイミングで……天の神様に止められたのかもなと息をつき、立ち上がって、居場所を知らせるため声をあげた。


「あっ! こっちです! すみません」


 丸い月、水の音、そして、近づいて来る足音……あれ? 前にどこかで。胸がざわめきだす。







「見つけた」


 女性のものでない低い声。やってきたのは男性らしい。警備の人……いや、警備員の制服を着ていない。


 さらに近づいてきた男の姿を見て驚いた。杖をついていて髪は真っ白。長袖の上着を着て、襟巻きまでしている。今は真夏にもかかわらずだ。男は俺をまっすぐ見据えると、ゆっくりと左手を上げた。


「あっ!! だめ!! 環く」


 鬼気迫る声。俺を庇うように前に出た本城さんの体が大きく傾ぎ、地面に倒れ込んだ。本城さんが光らせていた灯りが消え、あたりは一気に暗くなる。


「本城さん!? 本城さん!! どうしたんだ!!」


 横たわる本城さんに呼びかけても動かない。顔を近づけて呼吸を確かめようとした時、男がさらに歩み寄ってきていることに気がついた。


「その子、随分な手練れじゃないか。でも通用するかもな……ああ、少し眠ってもらっただけだ。じきに目を覚ますよ」


 どうしてか、まるで身内の子に話しかけるようで妙に馴れ馴れしい。眠ってもらっただけと言うが、この人は男性なのに、直接触れもせずにどうやって。


 本城さんが息をしていることを確認して、ひとまず安心した。目の前に警戒しながら、上に羽織っていたシャツを脱いで適当に畳み、彼女の頭の下に差し込んだ。今日は俺が彼女の盾になると決めたのに、大切な人だと言ってくれたのに、彼女に二度も守られるなんて。情けなさに歯を噛み、男を睨みつけた。


 なぜか男はこちらに手を出してくることもなく、無言でたたずんでいた。風が吹き、木々がザワザワと音を立て、男の白い髪も揺らしている。どう出るべきか思案した。


「なあ、どうしたんだ。俺のこと、忘れたのか?」


「えっ?」


 虚を突かれた。どこかで会ったことがあっただろうか。待てよ。この声、どこかで。風が止んで、辺りは再び静寂に包まれる。


「……じゃあ、これでどうだ?」


 おもむろにそう言った男は、持っていた杖を足に立てかけた。胸の前でまるで祈るように伸ばした指を組み、こうべを垂れる。俺はその姿を見て、息をのんだ。


 ほどなくして、何もないところに突然小さな灯りが現れる。それはひとつ、ふたつと増え、気がつけばあたり一面に、蒼白い光の粒が無数に漂っていた。男は笑う。


「どうだ? 季節外れの蛍は。懐かしいだろ」




 まるいつき、みずのおと、あおいほたる。


 このひとは、ぼくの。




「めぐる」




 その名前で呼ばれた次の瞬間、頭の芯を突き刺されたかのような痛みが走った。


「うわああああああああああああっ!!!!」


 頭を抱えた。耐えがたい頭痛のせいでまともな思考ができず、吐き気まで襲ってくる。たしかに呼吸をしているのに、ひたすらに苦しい。しゃがんでいることすらつらくなり、その場にうずくまった。


 少しかすれてはいるが、確かに聞き覚えのある声。でも、を、絶対に思い出してはいけない。頭の中で、母親の声がする。


『あなたは、たまき。こうさか、たまき』


 隣にいたはずの人がいない。母親と二人、抱きしめ合った朝。


『おかあさんは、ずっとずっと、たまきといっしょにいるからね』


 押さえ込まれていた記憶が漏れ出してくる。だめだ。これ以上は………………




「…………ぼくは、たまきだ、めぐるじゃない」




 頭痛はおさまらない。苦痛にあえぎながらようやく口をついて出てきた言葉は、いったい誰のものなのか、自分でもわからない。なぜか涙が止まらない。おかあさんはここにいない。ぼくは、ひとりぼっちだ。俺は、ぼくは、本当は誰?


「やっぱりそうだったのか……誰の仕業か知らないが、解いてやらないと」


 涙が止まらなくなってしまったぼく……俺のところに、男が片足を引き、歩み寄って来た。


『解く』とはどういうことなのだろうか。ふと、いつか抱いた疑念のことを頭の隅の隅で思い出し、『俺』はもうここで消えて無くなるんだということを悟った。あれだけ消えたくないと思っていたのに、なぜか抵抗ができない。眼鏡の向こうの目は微笑んでいる。伸びてきた大きな手に優しく頭を撫でられた。


「いい子だな」


 男……が、俺の頭を撫でながら何かを唱え始めると、不思議なことに頭痛が徐々に引いていく。低く穏やかな声で紡がれる呪文は、デタラメなのに懐かしくて心地いい。いつか聞いた子守唄みたいだと、目を閉じ、男に全てを委ねようとした時だった。



香坂環こうさかたまきーーーーー!!!!」


 闇をつんざく声で、はっと目が覚める。声のする方……上を見た次の瞬間、空に浮かんでいたはずの丸い月が消えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る