6月〈1〉呪いは解けていく・4

「本城さーん、起きてる? そろそろお風呂の時間なんじゃない?」


「あ、ありがと」


 三井さんの声で目が覚めた。ゆっくりと起き上がって、しっかりと開き切らない目をこする。


 寝るつもりはなかったけど、目を閉じて考え事をしているうちに、いつのまにか眠っていたようだった。時計が指している時刻は午後八時すぎ。ほんとだ、そろそろ準備をして向かわないと。


 ……そういえば、久しぶりにすごく嫌な夢を見た気がする。あくびをして酸素を取り込んで、座ったままで体を伸ばす。力を抜いてからしばらく考えたけれど、夢の内容は思い出せそうにない。


 まあいいか。ずっと抱きしめていたうさっちをベッドの端に置いた。頭をひと撫でしてから、立ち上がる。


 この子が来てくれた日から、ずっと苦しんでいた悪夢をほとんど見なくなった。『また同じ目の子に出会えたら、呪いが解ける』と信じていたからなのか、それとも。


「お昼はごめんね」


 物入れを開けてお風呂セットを準備していると、三井さんが顔の前で手を合わせてから頭を下げてきた。お昼? と思ったけど、すぐにお昼ご飯の前に起こった、ちょっとビリついた出来事のことだと気がついた。


「ジュースを冷蔵庫で冷やしてるから、森戸さんと二人でお風呂上がりに飲んで! 今日のお詫び!」


「別に気にしなくてもいいのに」


「ううん、よくよく考えたらわたし、なんかずっと態度悪かったし。部屋にいづらかったよね、ごめん! あと、香坂くんにも、何かお礼を渡したいんだけど、何が良いと思う!?」


 三井さんが握りしめている携帯電話には、大振りなニワトリのマスコットがゆらゆらと揺れていた。さっそくつけたんだね。


「香坂くんは甘いもの好きみたいだから、お菓子をあげたら喜んでくれるんじゃないかなあ」


「え、いかにも男子って感じなのに、意外だな。ここはお昼にカツ丼大盛りだってお姉ちゃんと話してたのに。人は見た目によらないねえ。わかった。ありがと」


 お昼に香坂くんが何を食べているか思い出す。私たちはあまり食堂には行かないから、彼はいつもパンを食べているイメージ。さらに記憶を辿ると、カツサンドを選んでいることも多いかも。お肉好きだし、お腹にたまるからって言ってたかな?


「もしかしたらカツ丼好きかもってかんじだけど、聞いてみたらいいと思うよ」


「ほんと!? わかった! 聞いてみる……って足止めしてごめん」


「そうだ、私はお風呂だったね」


 三井さんに見送られ部屋を出た。いつものように、淑乃ちゃんを誘いに行くために彼女の部屋に向かう。廊下を歩きながら、私は昼間のことを思い出した。



 ◆



 淑乃ちゃんと三井さんがぶつかって、仲直りした後。食堂にお昼ご飯を食べに行った私たち三人は、食堂の入り口のところで香坂くんと……えっと、なんて名前だっけ? ああ、そう、紺野先生を見かけた。


 香坂くんがこちらに気づいて手を振ってくれたので、淑乃ちゃんと二人で振り返す。大好きな笑顔が返ってきたことが嬉しくて、顔が勝手にほころんだ。


 学校のお昼休みは私と香坂くん、淑乃ちゃんの三人でご飯を食べるけど、寮での食事の時は先生がいるから別々に食べる。だから、いつもはお互いに手を振って、それで終わり。今日もそのつもりでそのまま食堂に入ろうとした。


 寮生カードを準備しようとして、ポケットに手を入れた時、私の前に三井さんが出た。突然のことに焦っていると、三井さんは集まっている他の子たちをきれいによけながら、ズンズンと前に進んで行く。


 その先にいた香坂くんが彼女に気づいたのか一歩引いたのが見えて、私は慌てて後を追った。ケンカになっちゃうかもと思ったからだけど、淑乃ちゃんも同じ考えだったのか、すぐに私の横に並ぶ。


 予想通り、三井さんは香坂くんの目の前に立った。突然のことに明らかにうろたえている香坂くんは、三井さんを見つつも私たちに何かを訴えるように、こちらに視線を投げてくる。どうしよう!


「わたし! 一年三組の三井 千秋みつい ちあきって言います! 本城さんのルームメイトなんだけど……と、とりあえず、今日は挨拶だけ。別に、話しかけてもらっても大丈夫だから」


「え!? ああ、どうも。初めまして、だよな? 四組の、香坂環です。まあ、見ての通りの田舎者だけど……よ、よろしく」


「あ、ありがとう。って、え? 君もたまきって言うの!?」


「あ、ああ。そうか。本城さんとは字が違うけど。俺は、環境の『環』でたまき」


 ……嫌な予感は、杞憂に終わった。『一度、彼と話してみればいい』さっき淑乃ちゃんから言われたことを、さっそく実行しただけのようだ。二人並んでホッと息をついた。


 結局、私たち三人と、ついでに後から合流してきた三井さんのお姉さん。香坂くんは先生と。隣同士のテーブルでお昼ご飯を食べることになった。お互いに初めて話す人がいたわけだけど、そんなことは気にならないくらいに盛り上がった。


 やっぱり試験明けだったからか、『試験の結果が怖い』という話がメインだった。自信を持っている一年生なんか誰一人いなかったということかな。私も……その……。ここには、ギリギリ引っ掛かった感じので。お察しください。


 暗い顔でポツポツと不安を語る学生四人に、すました顔のお姉さんと、ニコニコ笑う先生一人。側から見たらちょっと面白い光景だったかもしれない。


 そのあと何かの流れでユルすみの話題になった。香坂くんが『キーホルダーが余っているけど、欲しい?』と言い出したことをきっかけに、二つのテーブルは大いに盛り上がった。みんなが好きなキャラを順に上げて行く。


 女の子は全員バラバラ。香坂くんにはまだ特にこれと言って好きなキャラはいないらしい。先生は……淑乃ちゃんと一緒。淑乃ちゃんはそれを聞いたあと、ときどき先生をチラチラと見ていたのがちょっと気になった。


「ああ、そうだ、忘れちゃいけないからメモしとくか」


 香坂くんは笑いながら、空になった食器の乗ったトレイを少し前に押して、スペースを作る。


 ポケットからいつものメモ帳を取り出して広げ、何かを書き始めた。そう言えば、香坂くんってどんな字を書くんだろう。気になって、思いっきり背筋を伸ばした。ようやく見えたその中には、綺麗な字でみんなの名前とキャラの名前が書き込まれていた。


 ほんの少し前まで『ウサギ』とか『トカゲみたいなの』と言っていた気がするのに、ちゃんと覚えたんだ……すごいな。私がじろじろ見ていることになんか、ちっとも気付いていない様子の香坂くんが、メモ帳のページを一つ戻す。そこに書いてあったことに、私は胸がきゅっとした。


「よし、たぶん全部あったとは思う。じゃあ夕飯の時をお楽しみに」


 香坂くんはメモ帳をまたポケットに入れると、にっと歯を見せた。


「さあ。楽しかったけど、そろそろ解散しようか」


 先生のその言葉を合図に私たちは立ち上がった。話が弾んだせいか、食堂に残っている人は既にまばらになっている。外を見ると雨脚もだいぶ弱まっていて、この分だと夕方くらいには雨が上がるかもしれない。明日には久々の青空が見られるだろうか。


「ごめんなさい、お手洗いに行ってくるわ」


「じゃあ、階段のところで待ってるね」


 食器を返した淑乃ちゃんが小走りで食堂を出た。スタッフの人があちこちを拭き掃除しているのが見える。私も食器を返すと、出口に足を向けた。


「本城さん、ちょっと」


 香坂くんに呼び止められた。周りを気にしながら、私に近づいてくる。鼓動がどんどん早くなる。体はギリギリ触れ合わない……でも、すごく近い。心臓の音を聞かれてしまいそう。


「ごめん、少しだけ我慢してほしい。えっと、掃除の人の邪魔になるから、あっちにしよう」


 食堂の入り口の横、自動販売機が並んだスペースを指さした。一体どうしたんだろう。彼が奥で、私が入り口側。袋小路みたいになってるところで、向かい合った。


 香坂くんは私をじっと見つめている。いったいどうしたのかな……心臓が飛び出してしまんないように、唇にギュッと力を込めた。


「あの。本城さんは、もしかしてうさっち以外にも好きなキャラいる?」


 自販機の音にかき消されてしまいそうなくらいの小さな声。私もつられて小声で答える。


「え? みんな好きだけど、やっぱりうさっちがいい。もしかして、私にも? ぬいぐるみをもらったから、もう気を使わなくていいよ」


「いや、ちゃんと取ってあるから、ほら」


 香坂くんはポケットから取り出したものを、私の手のひらに乗せた。彼の体温に温められて、ポカポカになってる小さなうさっち。はっとなって、あわてて握りしめた。


「……ありがとう」


「ぬいぐるみと一緒に渡そうとしてたんだけど、すっかり忘れてて。それからずっと持って歩いてたのに、なかなかタイミングがっていうか。でも、やっと渡せた。呼び止めてごめん」


 早口でこそっと言い残して、香坂くんは急ぎ足で去っていった。私はゆっくりとその背中を追うように歩く。ぜんぜん鼓動がおさまらなかったし、しばらくの間、握った手のひらを開けなかった。


 部屋に戻った私は、小さなうさっちを、学生証と寮生カードを入れているカードケースに取り付けた。誰かに預けたりすることもなく、いつでもほぼ肌身離さず持ち歩くものはと考えたら、これしかないなと思った。


 こんなふうに彼のそばにいられたら。そんな願いが頭に浮かんだけど、すぐに消した。


 彼は、とても大切な人。彼は私の世界を変えてくれた。魔術は人を傷つけるだけではないんだと教えてくれた人。手を差し伸べてくれた。味方になってくれると言ってくれた。呪いを解いてもらえた。


 もうじゅうぶん。今だって、胸がいっぱいになって溢れそうなくらい、彼からはたくさんの幸せをもらっている。


 これ以上は身に余る。彼にとっての『たったひとり』になりたいとは思わない。なれるとも思わない。私は……それを望むには抱えているものがあまりにも重くて、黒くて、汚れている。


 秘密と偽りの塊は、あの綺麗な光を持つ人にはふさわしくないことを、ちゃんとわかっている。


 …………それに、私は彼に何も返すことができない。だから、芽生えたばかりの気持ちにそっと蓋をした。


 今のままでもじゅうぶんに幸せだから、それでいいんだ。






 二階の一番端にある、目的の部屋の前に着く。私はドアをノックして、呼びかけた。


「淑乃ちゃんー、いっしょにお風呂に行こう」


 外開きのドアにぶつからないようにすかさず一歩下がる。待ってくれていたのか、ドアはすぐに開いた。


「おまたせー! 行きましょうか!」


「うん、急ごう」


「洗い場空いてたらいいわねー。裸のまま待ちぼうけはむなしいわ」


「……微妙に数が足りないもんね。ほんとに微妙だけど」


「絶対に負けたくない戦いよ」


 淑乃ちゃんが鼻息を荒くしたのに思わず噴き出す。


「なによお」


「ごめんね、私も負けたくないかな」


 お互いに頷くと、頑張って歩くスピードを限界まで上げた。走ると役員の先輩に叱られちゃうからね。


 誰かとこんなたわいもない話をして、笑いあえる幸せ。あたたかい居場所。大好きと言ってくれる人。ずっと欲しかったものを、私は手に入れた。


 淑乃ちゃんも、私の大切な人。それに透子ちゃんも……三井さんも。無価値だと言われ続けた私に、寄り添ってくれる人が現れるなんて思っていなかった。それも、二つしかない手では取り切れないほど。


 ……私にも誰かを助けられるなんてことは思わないけれど。


 でもせめて、ここにいられる間だけでも。大切な人たちを何があっても手放さずに生きていこう。この人たちに救い出してもらえたこの心だけは、あの闇の中に再び沈むことのないように。

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