6月〈1〉呪いは解けていく・2

 コツンコツンとドアをノックする音がしたので、目を開ける。三井さんなら勝手に入ってくるはずだから、きっと違う。誰だろうとドアの方を見た。


「珠希さーん、いる?」


 この寮にいる唯一の友達の声。私は勢いをつけて起き上がって、ぬいぐるみを抱いたままドアを開けに行く。ドアをそっと開け、部屋に招き入れた。


「淑乃ちゃん、実家に帰るんじゃなかったの? あれ? 朝ごはんの時いたっけ?」


「今日は大雨だって聞いて、昨日の夜のうちにやめたの。ご飯は二度寝したせいで食べそびれちゃっただけ。だから今、叱られてきたところなの」


 淑乃ちゃんは髪を耳に引っ掛けると苦笑いをした。それからいつものように、私の椅子をベッドの前まで運ぶとストンと座ると、私が抱いているぬいぐるみの足を優しく触って目を細めた。淑乃ちゃんもユルすみが好きなんだと、このまえ教えてもらった。


「やっぱり、うさっちは可愛いわね。それに目がキラキラしてる子って、懐かしいわ」


「えへへ」


「ねえ。この目のぬいぐるみってね、今はクレーンゲームでしか手に入らないんですって。私も欲しいから香坂くんにお願いしてみようかしら」


「そうだったんだ。頼めば取ってくれるかな? 淑乃ちゃんはどの子が好きなの?」


一択よ」


 ぴっと人差し指を立てた淑乃ちゃんが好きだと言ったのは、紫色の猫のキャラ。つんとすましているけれど、根は優しくておしゃれが大好きな子だ。彼女のイメージにぴったりで、自然と笑いが漏れてしまう。


「へへ、ぽいね。それっぽい。そうかなって思った」


「そーお? ああでも、珠希さんは確かにうさっちって感じよね。柔らかくて可愛くて心優しいって感じね」


「……あのね、私は全然可愛くないってば」


 いつものセリフが出てきたことに膨れてみせたけど、淑乃ちゃんはニコニコしたままだ。彼女からはやたら可愛いと言われるけど、私はあまり納得していない。自分でもそんなことは思わないし、これまで他人からも一度も言われたことがなかったからだ。


「いいえ、可愛いのよ!! そう思っているのは私だけじゃない。この世には少なくともあと一人、珠希さんのことをものすごく可愛いと思ってる人がいるわ」


 両手をぐっと握り、勢いよく立ち上がった淑乃ちゃんは、私の目を見て力強く宣言した。あと一人? 首を傾げながら、転んでしまった椅子をすかさず起こす。


「も、もしかして透子ちゃん?」


「ああっそうね、きっと透子さんもね。じゃあ、もう一人!」


「えっ誰!?」


 淑乃ちゃんは芸人さんみたいにずっこけてしまった。足が当たったのか、椅子がまた転ぶ。心当たりが全くないので反応に困っていると、淑乃ちゃんはううっと言う声を漏らし、乱れてしまった長い黒髪を手で後ろにまとめて流して頭を上げる。


「大丈夫?」


「いや、なんでもないのよ。はあ、早くどうにかなってほしいわね」


 何でもないとは言いながら、ちょっと息が荒い気がする。それに、言っていることの意味がさっぱりわからなかった。


「えっ? どうにかって?」


「いいえ、なんでもないわ! こっちの話!」


 ……こっちの話って、どっちの話なんだろう。淑乃ちゃんは赤い顔をして、ふらふらと目を泳がせてる。そう言えば、香坂くんがこのぬいぐるみをくれた時もなんかちょっと様子が変だったっけ? ちょうど、こんな感じだった気がする。


 自分もこのぬいぐるみが欲しいってさっき言っていたし、もしかして二人とも。私の頭の中にある考えが浮かんで、身体がすうっと冷えていく。ぬいぐるみを抱きしめても温まらなくて、胸の中にぐるぐると複雑な色をした感情がうずを巻く。


 淑乃ちゃんも、香坂くんに危ないところを助けてもらったことがあると言うから、私だけが特別なわけじゃないのはわかっていた。


 二人の間には最初は色々あったけど、今はすごく仲良し。最近は、付き合ってるんじゃないかって噂をされることもあるくらいだ。お互いに遠慮がない感じで、香坂くんも淑乃ちゃんと接してる時は、肩の力が抜けて気楽そうに見える。


 淑乃ちゃんは、まるで女優さんみたいに綺麗な人。私の目には、頭のてっぺんからつま先までキラキラして見える。それで、すごく優しくて。私みたいな人間のことでもいつも笑顔で褒めてくれて。曲がったことが嫌いで、まっすぐな子。


 冴えない私じゃなくて、こんな子に好きって言われたら、男の子香坂くんはきっと嬉しいんだろうな。


 胸がずきんと刺されたみたいに痛む。涙をこぼしそうになった私の顔を、淑乃ちゃんが不思議そうな顔で覗き込んでいた。


「どうしたの?」


「……なんでもないよ」


「なんだかすごく悲しそうに見えるわ。珠希さんは時々、そう言う顔をするわよね」


 ドキッとした。私の髪を柔らかく撫でた淑乃ちゃんは、転んでしまった椅子を起こすと、ベッドに座る私の隣に座った。細い腕がこちらに伸びてくる。


 抱き寄せられるままに淑乃ちゃんの身体にもたれかかった。柔らかくていい匂いで、あたたかくて、心地いい。もしかして、優しいお母さんってこんな感じなのかなと、私にはないものに想いを馳せた。友達に対して変かもしれないけど、抱きしめられたことに自分でも驚くくらい安心している。


 ……ずっと欲しかったもの。


「私はね、珠希さんが大好きだから。大失敗した私とも友達になってくれたもの。『大丈夫、元気出して』って言ってくれたとき、本当に嬉しかったのよ。だから私も、あなたの力になりたいわ」


 淑乃ちゃんはきっとこういう風にお母さんに愛されて、抱きしめられて、優しい言葉をかけてもらっていたんだろう。家族の話をする淑乃ちゃんはとても幸せそうだから。


 優しくされて嬉しいという気持ちもあるけれど、自分にないものをたくさん持っていることが、うらやましかった。胸の中にまた複雑なものが芽を出して、涙がこぼれそうになる。それを必死にこらえながら、心地いいささやきに耳を傾けた。


「私だけじゃないわよ。きっと透子さんも、香坂くんも。優しいあなたが大好きよ」


 意図しない名前が出てきたことに、心臓が跳ねた。体が熱くなってきたことを知られたくなくて、淑乃ちゃんの体を押し返す。


「香坂くんは絶対に違うよ。だって」


「違わない。じゃなきゃ、その子をくれたりしないし、あんなことも言わないわよ」


 淑乃ちゃんは私の手を取った。すこしひんやりとしていて、私よりも小さな手が、優しく握りしめてくる。思わず握り返す。すると、何もかも見透かされたみたいににっこりと笑われて、私は焦ってしまった。


「すっ、好きなわけないよ。私のことなんか。これだって、私があまりにも物欲しそうにしてたから仕方なくくれただけかも」


「……まあ、それは彼にしかわからないけど。でも、香坂くんは、あなたが嬉しそうにしてたのを、すごく幸せそうな顔して見てたのよ」


 そこまで言って淑乃ちゃんはふうと息をついた。あの時は、涙が止まらなかったことが恥ずかしくて、香坂くんの顔をまともに見られなかった。そんなはずはない。きっと気のせいだよ。そう言おうとした時、ガチャリと部屋のドアが開いた。


「あれ? お客さん? えっと、確かあなたは……ああ、わたしは三組の三井千秋」


「四組の森戸淑乃よ」


「ああ、そうだった。この前は


 淑乃ちゃんの名乗りに、薄笑いで返した三井さんは、ベッドの向かいに置いたままだった私の椅子にストンと腰をおろして、こちらに向かって少し身を乗り出してくる。それを見た淑乃ちゃんがぴっと身構えたのがわかった。


「ねえ、森戸さんって、あの男子と付き合ってるって本当なの? やめたほうがよくない? ここに女の子目当てで来たようなやつでしょ? 本城さんにもこんなもの渡していい顔するし、きっとそう。二股かけるようなやつって最低だって」


 たぶん、ずっとそのことを淑乃ちゃんに言いたかったんだろう。単なる興味からなのか、忠告のつもりなのか。早口でまくしたてた三井さんに、淑乃ちゃんは明らかな怒りの表情を向けた。


「彼と私はそういう関係じゃないわ。それに、よく知りもしない人に、のことを悪く言われるのは、我慢ならないわね」


 ……淑乃ちゃんは低い声でピシャリと言い放つと、三井さんの方を睨むように見つめ腕を組んだ。私も思わず背筋が伸びる。


 三井さんは淑乃ちゃんの迫力に呆気にとられたようになっていたけど、その顔は徐々にばつの悪そうな表情に変わっていった。そのまま二人は、黙って見つめ合う。


 その間、激しく窓に叩きつける雨の音だけが部屋に響いていた。今の状況はまるで部屋の中にまで暑い雨雲が入り込んできたみたいで、ただでさえ湿気で重い空気が、さらに重苦しく感じる。


 淑乃ちゃんが目を閉じて大きく長く息をついた。まるで肩の力を抜いたように見えたけど、再び開かれた漆黒の瞳には一等星のように強い光が宿っていて、とても綺麗だった。


「一度、彼と話してみればいいじゃない。そうしたら、あなたが思ってるような浮ついた気持ちからじゃなくて、ちゃんと考えてここに来たって、わかると思うわよ……まあ、私も最初はあなたと同じ考えだったから、あまり偉そうなことは言えないけれど」


 ふたりの間には最初は色々あった。そのことについて、淑乃ちゃんは反省しているとずっと言っていたように思う。三井さんは、膝の上で両手を握ってしばらく何かを考えているように見えた。


「……わかった、ごめん。言い訳みたいだけど、もしかしたら遊ばれてるんじゃないかって、心配した気持ちもあったというか」


 三井さんがポツリと呟いたそのとき、昼食の時間を告げるチャイムが鳴った。この学校の伝統らしい、コロンコロンと言う独特の音。それを合図に、止まっていた時が動き出して、張り詰めていた空気がやっと緩んだ。


「あーあ、朝ごはん抜きだからさすがにお腹すいたわ。ほんと、二度寝なんかするものじゃないわね。さ、二人ともご飯食べにいきましょ」


 淑乃ちゃんはすくっと立ち上がると私たちを順番に見て、いつものようにニコッと笑った。

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