第38話 蛍火

 ……頭痛がおさまると、なぜか寒さに身が震えた。今は四月のはずなのに、まるで初冬のような空気の冷たさだ。


 何が起こったんだ? 震えを抑えるように奥歯を噛み締めてから、目を開きぐるりとあたりを見回す。後ろにいたはずの本城さんが、なぜかいなくなっていた。


 風はない。葉を落とした木々の間から丸い月が見え、耳をすませば、水が流れる音が聞こえる。あたりを照らすものは月明かりだけ。


 いったい、ここはどこだ? 突然のことに立ちすくんでいると、じゃり、じゃり、と後ろから足音が近づいてきた。振り返ると、小さい子が大人と手を繋いで歩いてくる。顔はよく見えない。


 その子供と目が合った気がした。すると、子供と重なり合ったかのように目線が低くなり、右手が大きな手に包まれていることに気がついた。妙な感覚に襲われたが、それはすぐに消えてなくなった。


 こうやって、夜になるとよく一緒に野山を散歩したんだっけか。誰、だっけ? 母さん、だよな?


「ほたる、いないねえ」


「ああ、今は冬だからなあ。蛍、見たいのか?」


「うん」


「そうか、ちょっと面白いことをしてあげようか」


 低くて響く声は明らかに男性のもので、母親のものではなかった。しらないひと? いや、確かに聞き覚えがある。大好きだった人の声だ。でも、誰だ?


「おもしろいこと?」


 俺が言うと、隣にいる誰かが、小さく笑ってから繋いでいた手を離した。そしてそのまま胸の前で、まるで祈るように伸ばした指を組み、こうべを垂れる。小さい俺はその姿を、わくわくしながら、見ていた。


 ほどなくして、何もないところに突然小さな灯りが現れる。それはひとつ、ふたつと増え、気がつけばあたり一面に、蒼白い光の粒が無数に漂っていた。


「ほたるだ!」


 小さい俺はそう言って喜んだが、蛍、じゃない。まず色が違う。それにその種類や、生息地域でその間隔は変わるらしいが、蛍の光なら明滅するはず。それには冬だ、だから蛍なわけがない。


 この光はどちらかというと、作り物。イルミネーションみたいだった。電球の明かりのようにはっきりと明るいわけではないし、空中をふわふわと漂っているので、違うのはわかるのだが。なんだこれ。


「そう見えるだけの簡単な魔術だよ。にもすぐできるようになる。家に帰ったら教えてあげよう」


「ぼくにもできるの!? やった! はやくかえろう!」


 …………え、魔術? でも、これ男の人だよな?


 それに、誰だこの子。名前が違うから俺じゃない……じゃあ、これは誰の『記憶』だ?


 次の瞬間、まるで幽体離脱でもしたみたいに目線の位置が変わり、目の前の景色が一瞬で元に戻った。水の流れる音はもう聞こえてこない。肌に感じる温度も、春の夜のそれだ。


 なんだったんだ今のは? 必死で思い出そうとしたが、水の泡のように消えてなくなってしまった。なぜか暖かな感覚が残っている、右の手のひらを見る。でもそれがどうしてなのか、もうわからない、思い出せない。そして、それも消え……


 ……代わりに俺の頭には、ある魔術の使い方が浮かんでいた。これで彼女を照らしてあげられる。暗いところに、ひとり置いて行かずに済む。


 振り返って、一歩だけ前に出る。ガサッと草が鳴る音がして、本城さんの震える息づかいが聞こえてきた。俺の存在で彼女を怖がらせているのはわかっている。でもせめて、それでもできることを。俺は勇気を出して声をかけた。


「驚かせてごめん、これ以上は近寄らないから、ちょっとだけ」


 俺は、、胸の前で指を組み、こうべを垂れた。目を閉じて、息を整え、思い描く。眩しくない、優しい灯りを。無数の光の粒を。はっきりと固まったイメージを、外に押し出すように、


「えっ? なに、これ?」


 本城さんの声で目を開ければ、蛍に似た、青白い無数の光の粒があたりに漂っていた。成功したことにほっとする。これは別に編んだわけじゃないから、大丈夫だろう。ん? まあいいか。


 ひとつひとつは大したことはない光だが、ふわふわとあたり一面を漂う光の粒が、本城さんの表情をほのかに浮かび上がらせる。涙で濡れた顔を見ると、心が痛んだ。そして、丸く開かれた目は光の粒を追いかけるように動き回っていた。


「これ、蛍みたいだけど、もしかして、魔術?」


「そう、単に蛍っぽく見えるってだけの魔術。ちょっとは明るくなったかな? じゃあ、俺、人を呼んでくるから。待ってて」


 本城さんが何かを言いかけた気もしたが、構わずにその場を立ち去った。一刻も早く、助けてあげて欲しかった。



 ◆



 こっちに歩けば道に出るはず、ひたすら草をかき分け進む。しばらく歩くと、思っていたよりは早く茂みを抜けることができた。緩やかな斜面を滑るように降り、道に出た。左右を確認してみると、学校から少し坂を下った場所。本城さん、よくここまで歩いたよなとつくづく感心した。道を挟んだ向こう側の外灯の下に、紺野先生が立っているのを見つけた。


「紺野先生っ! すみません」


 俺の呼びかけに反応した紺野先生は、こちらを見て目を丸くして、道を渡って駆け寄ってきた。


「香坂くん!? 君! こんなところで何をしているんだ。外に出てはいけないと言っただろう! いいか、とっくに門限は過ぎているんだ! それにどうやって正門を!? まさか!!」


 紺野先生の声に身がすくんでしまう。初めてこの先生のことを怖いと思った。いつも優しげな瞳は、今は怒りに燃えている、といった感じだ。言いつけを、寮の規則を破ったのだから、当然のことだが。


「すみません。あとでちゃんと謝ります。あと、今日は、。本城さん見つけました。女の先生か、寮の役員の人呼んでもらっていいですか」


 本城さんを助けたい。だからそのために俺にできることをやる。見返りは、なくてもいい。とにかく早く連れて帰ってあげてほしい。そのために、ちゃんと伝えて託さなければ。


「え、見つけたって!? 確かなのか!? どこで!? 彼女は無事だったのか!?」


 紺野先生に強く両肩を掴まれる。話し方がいつもと少し違う気がするが、落ち着いて状況を伝えた。


「確かです。足をくじいちゃって痛むっぽいんですけど、無事です。バスに乗り遅れたから歩いて帰ろうとしたって。あと、訳ありみたいで、迎えにいくのは女の人にしてほしいんです。俺が連れてこようとしたんですが……」


「……? まあいいか、わかったよ。女性の先生を呼ぼう。君はまだここにいなさい。居場所を教えてもらわないといけないからね」


 ため息まじりでうなずいた紺野先生は、ポケットからスマホを取り出した。しばらく話した後に切り、どこからか無線機も取り出して、それにも話しかけている。


 急に力が抜けてしまった俺は、その場にしゃがみ込んでしばらく空を眺めていた。外灯が明るくて星は見えないが、丸い月がぽっかりと浮かんでいた。まためまいがしそうになって、拳で頭を打ってごまかした。


「紺野先生!」


 学校の方から声がした。そちらを向くと、紺野先生が呼んでくれたのであろう女の人たちが走って来るのが見えた。反対の方からは他の先生と、警備員が何人かずつバラバラと歩いてくる。


「香坂くん、後に引き継いだら帰ろう。君には何かしらの処分は覚悟してもらわないといけないな」


「分かってます。申し訳ありません」


 紺野先生からはいつもの優しげな笑みが完全に消えている。立ち上がって、頭を下げた。顔を上げたら元のように笑ってくれていないかなと思ったが、険しい顔のままだった。考えが甘かった。


「あ、佐々木先生。どうもすみません」


「紺野先生、彼女はどこです!?」


「それは、そこの彼が」


 紺野先生に呼ばれてやってきた、佐々木先生と呼ばれた女の先生。紺野先生に示されて、俺の目の前に立った。


 女性の割にはかなりの長身……俺と背の高さがほぼ変わらないので、ギラギラと光る鋭い瞳がすぐ目の前に迫る。思わず背筋に力が入った。


「香坂環! 彼女をどこで見つけた!?」


 まるで闇夜を切り裂くかのような、よく通る声。ご丁寧にフルネームを呼ばれた俺の背筋は、とうとう限界まで伸びた。ついでに耳を塞ぎかけて、さすがに不謹慎かと思いとどまる。


 ええと、なんと言うのだろう。女性ばかりの歌劇団で、男役をやってる人のよう……とでも例えたらしっくりくるだろうか。背後に何人かの女性を従えている姿がとても凛々しく見える。


 いや、そんなことは今はどうでもいい。余計な考えを消すために、頭をぶるっと振ってから、状況を伝えた。


「こ、ここの茂みを入ってまっすぐ行ったところです。そんな遠くないです。あ、蛍、みたいなやつ、飛ばしてるので。目印にしてください」


「……蛍ぅ?」


 その場にいた全員がそう声を揃えた。

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