第20話 温泉に沈む

 ようやく顔を上げた透子は、目も鼻も真っ赤だった。本当に泣いてたなんてびっくりだ。


「透子ちゃん、好きとか嫌いとかじゃなくて、香坂くんは男子だから、ご飯の時だけ一緒ってだけで、お風呂も寝起きも別のところだよ」


「……そうなのかね?」


「そうだよ。俺も敷地内に住んでるけど、別の場所」


 俺の返答を確認した透子の視線は再び本城さんに。


「あ、私は透子ちゃんにそう思ってもらえるの嬉しいんだけど、寮生になっても私と一緒の寮になるとは限らないよ?」


「なぬ!?」


 ただでさえ大きい透子の目がさらに大きく見開かれる。そのまま二歩下がり、カタカタと震えだした。本城さんはお手本のような苦笑いで、指を三本立てる。


「三つの寮にランダムに振られちゃうから。だからなんと、一緒になれる確率は三分の一……かな?」


「ガーン! うあ、なかなかに、道は、険しいのだな。うう。タマタマと、一緒に。お風呂、入ってみたいぞなもし」


 ガーンとか言う人、テレビ以外で初めて見た。


 この世のことわりを知った透子はその場に崩れ落ちた。眼鏡の下に手を入れ顔を覆いすすり泣く姿は、たった今大切な人でも亡くしてきたみたいで、とても痛ましい。


 でも、その理由は『本城さんや俺と一緒に風呂入って一緒に寝たいけど、一緒の寮に入れるとは限らないから』である。


 透子よ、俺のことは諦めるんだ。この場で証拠をお見せするわけにはいかないが、正真正銘の男なんだから。女の子と一緒にお風呂になんて入っていいわけがないだろう。


 俺の足元ですすり泣く透子を、膝をつき慰める本城さん。完全に俺が余計なことを言って泣かせた、といった絵面で、教室にいるほとんどの人がこちらに注目している。なんとも居心地が悪い。


 単に俺のことを異性としてまっっったく意識していないだけなのか、それともその辺の知識がまるっと全て抜けているのか、そのどちらもなのか。


 首席入学してきたくせに、知識の偏りというのかなんというのか。ほんと、頭の中はどうなってるんだ。


 一方、透子のかたわらにいた本城さんが小さく声を上げた。


「そうだ。学校に慣れてきたら、温泉のあるとこ行かない?」


「「温泉?」」


 透子の高音と俺の低音が綺麗に重なる。


「うん。二駅先にあるって同室の子が教えてくれたんだ。お風呂だけじゃなくて、漫画読み放題で、昔のテレビゲームとか、卓球とか、ダーツとか、カラオケもあるって。飲み物は飲み放題だし、ご飯食べるところもあるから、朝から晩まで、ずっといても楽しいって」


 本城さんが流暢に語るのを聞きながら、要するに日帰り温泉ってやつかな。と見当をつけた俺。そんなところに高校生だけで行くとはさすが都会は違う、進んでいるんだなと腕を組む。


 俺が物心ついた時から一昨日の朝まで住んでいたところは、銭湯すらない所。


 カラオケができるところならかろうじてあったが、中高生が行くところではないというイメージを持っている。


 温泉には興味あるにはあるが、まあ、そこに男が混じるのはちょっと。


「なんだそれは! よくわからないが、非常に楽しそうにではないか! よし共に行こうぞ! タマタマ!」


 意識を前向きに切り替えたらしい透子が、鼻息荒く迫ってきた。


 ほら、こうやってタマタマとか言って、俺を頭数に入れるなんてやっぱりなんにも分かってない。男の俺が、そんな……女子と一緒に温泉なんて行ってはいけないに決まってるのに無茶なことを。


 しかしここで両手を上げて喜び、のこのことついていくほど無神経な俺ではない。この学校でそんな隙を見せてしまえば、残りの就学期間を針のむしろに座って過ごさなければならないことになってしまう。


 先ほども下心のようなものをちらつかせてしまう失敗をしてしまったし、今度こそはうまくやらなければ。


「ええ!? 俺も!? 駄目だろ! なあ、本城さん」


 自らの無害さをアピールするためにあえてオーバーめに言う。


「どうして? 香坂くんも一緒に行こうよ」


 本城さんの返事に凍りついた。外の小鳥の鳴き声が妙にクリアに聞こえてくる気がした。栗色の目は不思議そうにぱちぱちと瞬きを繰り返している。


 ちょっと待ってくれ。一緒に行ったりなんかしたら、その、み、見られちゃうんだぞ、俺に。全部。


 それでもいいのか? 本城さんの横でガクガクと頷く透子は、やっぱり何もわかってなさそうだけど、どうして本城さんまで?


 俺はその時、頭の中にはっきりと石造りの湯船を思い浮かべてしまった。正体をよく知らないカポーンという音、お湯が湯船に注ぐ音。湯気の向こうからは女の子たちのはしゃぐ声。


 ああ、と言うことはなんだ? 一糸まとわぬ姿の本城さんが、この湯けむりの向こう側にいるっていうことかよ。


 ああ、誰か、俺にこの妄想を消す魔術を教えてくれ。今すぐに。今度は俺が崩れ落ちるように机に突っ伏し、頭を抱える。


 幸いなことに想像力の欠如というかなんというかで肝心なところまでは見えてこないが、顔は容赦なく熱くなってきて、頭がクラクラしてきた。


 ……そうだな。湯当たりって、こんな感じなのかもしれない。


 まるで時が止まってしまったかのように誰も、何も言わない。俺の脳みそはもはや正常に働いていないが、必死に次の一手を考えた。


 ここまでわかりやすい態度をとってしまえば、変態扱いはもはや不可避だろう。


 己の名を汚さないためには、温泉への同行だけは断固拒否しなければならない。すっかりのぼせ上がった顔を手で隠し、必死で言葉を紡いだ。


「まって、だって、俺は、男だし、昨日会ったばっかだし、つっ、付き合ってるわけでもないのに一緒になんて無理だろ」


「え、だって。一緒に遊びに行くだけじゃない。あ、もしかして、香坂くんなんか勘違いしてる? 別にお風呂まで一緒ってわけじゃないよ?」


「え?」


 風呂が一緒じゃないのに、一緒に行って一緒に遊ぶ? 男女で? 風呂はどこ行った? うん? あれ? 何がどうなってるんだ?


「あの、何を想像したのか知らないけど、お風呂は男女別なんだけど。外では服とか浴衣はちゃんと着るわよ。ちょっと、なんでそんなに真っ赤なの」


「ふぁ!?」


 刺客が一人増えた。黒髪の子だ。名前はさっきやっと聞けた。


 森戸 淑乃もりと よしのさん。彼女もまた雪寮で暮らす寮生。


 長い黒髪を上半分だけまとめていて、意志の強そうなキリッとした目をしている。背は高くないが手足がすらりと長く、まるで女優かモデルのよう。綺麗だけど、冷たくて、近寄りがたい、とさえ感じてしまう雰囲気の持ち主。


 森戸さんはつかつかと歩いてきて俺の机の前に立ち、じろっと見おろしてきた。朝食の時に和解したはずだが、どうしても昨日の出来事が脳裏をよぎる。


 その突き刺してくるような眼差しは、とてつもない冷気を持っている。まるで氷の海にぶちこまれたみたいに、俺の身体は再び芯まで冷え切ってしまった。

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