煙草
あべせい
煙草
「もう8年よ。恋して恋して、それはもうタイヘンだったンだから、当時は。それが、いまでは、おまえ、いびきがひどい、ですって! 自分のことを棚にあげてよ。だから、こうなったのも、あの男のせいなの」
親しい大学時代の友人3人が、以前から知っている居酒屋に集まった。2年ぶりの再会だ。
大学時代の同じ独文科のクラスメイトだが、いまだに会っているのは、この日の3人だけ。
亜麻(あま)、安芸(あき)、末味(まつみ)。年齢は、一浪して入学した末味だけが一つ上で、あとの亜麻、安芸は34才だ。3人はいずれも結婚していて、安芸を除いてそれぞれこどももいるが、幸福度はかなり異なるようだ。
「ねェ、ここの酎ハイ、味が落ちたと思わない?」
駅前商店街から少し外れた路地にある小さな居酒屋だ。厨房を囲むカウンター席が7席に、テーブルは4人掛けと2人掛けの2卓だけ。
3人は、開店時刻から30分ほど過ぎていたが、その4人掛けに座ることができた。というのも、地元では味で評判の店のため、早く行かないとテーブル席には滅多に腰掛けることが出来ない。
で、この日は、幹事役の末味が開店と同時に飛び込み、4人掛けを確保した。
「味が落ちたって、焼酎を減らしているの?」
と、3人のなかでは学生時代、男子に最ももてた安芸が、声をひそめて言った。
「そうじゃなくて、焼酎を変えた、ってこと。いままではなかなか手に入れにくかった沖縄の古酒を使っていたけど、これは鹿児島産。これも、値段は安くはないけれど、沖縄の古酒に比べたら、味は落ちる。亜麻はわかるでしょ」
末味は煙草を吸いながらそう言い、3人のなかでは、いちばんの呑み助で、口数が少ない亜麻に目を向けた。
亜麻も煙草を吸っている。このテーブルで吸わないのは、安芸だけだ。
「こんど、もっといい店を探してくるよ。ここは、もう卒業だな」
亜麻はそう言い、2杯目の酎ハイを空にすると、
「お代わり!」
と、厨房に立っている店主に告げた。
「でも、この店の焼き鳥の味は捨てがたいわ。そう思わない?」
安芸は串だけになった焼き鳥の串を皿に戻して言った。
そのとき、
「遅くなりました」
と、若い男性が3人のテーブルの前に立った。
「9分遅刻か。まァ、いいか」
末味は、腕時計を見て言う。
亜麻と安芸は、末味と男性を交互に見て、一気に緊張した。
男性は、3人とほぼ同じ年恰好だが、第一マスクがいい。ガシッとした体格に、整った顔立ち、刈り上げた髪が清潔そうだ。
末味は、いぶかる亜麻と安芸に、
「紹介するわね。私のいまの職場の同僚で、長谷宍道(はせしんじ)さん。わたしの隣に座って」
末味はそう言い、空席になっている隣の椅子を宍道に示した。
亜麻と安芸の2人は、この店に入ったとき、末味が、2人に対して末味の向かいの席に並んで腰掛けるように言った意味を、ようやく理解した。
「末味、どうして、もっと早く言ってくれなかったの。こんないい男、いいえ男性が来られるのだったら、美容院に行って来るンだったわ」
亜麻が火のついている煙草をもみ消して、言った。
「末味、おつきあいしているの、この方と?」
安芸は、恐る恐る尋ねる。
3人は人妻だ。長谷が独身なら、末味は不倫、妻帯者ならダブル不倫になる。
「いいえ、とんでもない。ぼくは、きょう仕事で……」
と、宍道。
「仕事?」
安芸は、目の前に腰かけた宍道をまぶしそうに見て言った。
「そうじゃなくて。シンちゃんは、あなたたちの体をミにきてくれたの」
末味が横から口を出す。
「体をミる、って。いやだわ」
亜麻は豊かな胸を手の平で覆い隠しながら、お道化るように言った。
安芸は、宍道の真意を探るべく、彼の眼の奥をジッと見つめている。
「いやだな。だから……。末味さん、お話しておいてくださらなかったのですか」
「そう、くださらなかったのよ」
末味はそう言ってから、宍道のために同じ酎ハイを注文した。
末味は、宍道の存在にもかまわず、煙草を吸っている。宍道は煙草を吸わないようだ。
「ぼくは、末味さんと同じ病院で働いている理学療法士です。きょうは、末味さんからお話があって……」
末味は隣町の総合病院で保険事務をしているが、宍道は最近同じ医療法人が経営する他の病院から移ってきたばかり。
「亜麻は、肩が痛い、って言っていたでしょ。安芸は、すぐに腰が痛くなる、ってこぼしていたじゃない。だから、シンちゃんに話したら、同僚のよしみで診てあげる、って……」
「末味さんには、いろいろお世話になっていますから……」
「お世話だ、なンて。ときどき、お昼のお弁当を作ってあげているだけじゃない」
亜麻と安芸は、末味の甘えるような言葉を聞いて目を丸めると、「よくやるわね」と言いたげに、顔を見合わす。
「それに明日は休日なので、末味さんのおともだちとご一緒するのも悪くないなァと思って。ご迷惑を顧みず、お邪魔しました」
感じのいい男だ、と安芸は思う。しかし、30を過ぎた男も女も、一皮むけば、何を隠しているのか、わかったものじゃない。安芸自身がそうだから……。
そこへ宍道の酎ハイがきて、
「改めて、カンパーイ!」
4人は声を揃えて気勢をあげた。
「長谷さんは、独身?」
安芸が小声で、探るように尋ねる。
すると、宍道は、即座に、
「はい」
と答えた。その目には一点の曇りもない。
「独身……そォ」
安芸は、なぜか肩透かしを食ったような気分になった。そして、悪いことが起きるような予感を抱いた。
「彼が独身だったら、末味、いよいよその気になるのか」
亜麻が、不安そうにつぶやいた。
「わたしはその気でも、シンちゃんは女に興味がないの。だから、だから、わたし……」
末味は、現在夫と別居中だ。幸い実家が近かったため、二人の娘とともに両親のもとで厄介になっている。
「長谷さんは、末味のことをどう思っているンですか」
安芸が、珍しくストレートに尋ねた。
「好きです。大好きです」
「まァ、そんなこと言っていいの。末味は人妻よ。別居しているといっても、まだ、旦那さんがいるのよ」
亜麻が、腹を立てたように、口を尖らせる。
「いけませんか。好きだから、こうして、彼女の依頼でやって来たのです。でも、好きだと思っているだけで、それ以上のことを求めているわけではありません」
末味は、それまで項垂れていた顔を上げると、
「もう、やめようよ。こンな話をしていると、お酒がまずくなる。せっかく楽しく飲むつもりでやって来たンだから」
「そうですよね。じゃ、これから、亜麻さんと安芸さんのために、肩と腰の痛みを抑える簡単な自己治療の方法をお話します」
宍道は、そう言って、話題を変えた。
4人はそれから2時間近く、飲み、食べ、そして疲労回復などを話題にして、おしゃべりをした。
「さァ、お開きにしようか。シンちゃんは、どうするの?」
末味が、意味ありげな視線を送りながら言った。
「帰るだけ。マンションに帰って、寝るだけです……」
宍道はアルコールに弱いのか、かなり酔っている風だ。
「シンちゃん、電車に乗れる? 一度乗り換えるンだった、わね」
末味は期待するのをあきらめ、心配そうに言った。
「じゃ、わたしが途中までついていってあげる。安芸も同じルートだから、2人いれば、大丈夫でしょ」
と、亜麻。
「そうね。わたしだけ、反対方向だから、お願いするか」
と、末味はつまらなそうに言った。
相談がまとまり、4人は外に出た。徒歩で3分余りの私鉄の駅に行き、末味だけ、郊外に向かうホームに、安芸、亜麻、宍道の3人は、都心方向の電車に乗った。
3ヵ月後。
安芸が入院した。末味が勤務する病院の心療内科で受診した結果、強度の鬱病と診断され、そのまま入院が決定したのだ。
安芸は結婚5年目、こどもは夫との話し合いで、これまで作ってこなかった。
彼女の夫はもうそろそろいいだろう、この1、2年以内に作らないと機会をなくしてしまうと焦りだしたが、役所勤めの安芸は仕事が面白く、まだ早いと思っている。
しかし、安芸の病気で、夫の願いはさらに遠のきそうだ。
末味の勤務する総合病院は、安芸の自宅からは電車で一度乗り換え、徒歩を含めると、約1時間かかる。そのためか、入院当初は、隔日の勤務帰りに姿を見せていた夫は、一週間たつと、2日置き、3日置きと、徐々に間遠になり、3週間が過ぎると、週に1度来るか、来ないかという状態になった。
しかし、安芸は哀しい表情を見せない。病気の性質もあるのだろうが、無気力な元気のない表情で、いつもベッドの上でぼんやりしている。
ところが、その安芸の表情に、わずかづつだが、変化が生じてきた。毎日末味が病室を訪れるほかに、理学療法士の宍道も仕事の合間を縫って、顔を見せるようになったためだ。
そして宍道は、日を追うごとに、末味に負けないくらい、安芸を見舞う回数がふえた。そのことが幸いしたのか、安芸の病状は、確実に快方に向かっていった。
安芸が入院した月の翌々月、亜麻が安芸の病室に現れた。亜麻が安芸を見舞うのはこれが3度目だが、前は2度とも病室に入るとまもなく亜麻の携帯に電話がかかり、彼女は見舞いの生花を置くと、申し訳なさそうな顔をしてそそくさと帰っていった。亜麻は専業主婦で、小学6年の娘がひとりいる。
しかし、この日は違った。なぜか、晴れやかな顔をしていて、機嫌がいい。
「きょうは電話がないようね」
安芸がからかうように言うと、亜麻は、
「娘が落ち着いたから。しばらくは安心なの」
「学校に行けるようになったのね」
亜麻は、安芸のことばに頷く。
安芸は、亜麻のひとり娘が不登校で、2ヵ月学校に行っていないと前回聞かされていた。
「宍道さんのおかげみたい。あのひと、だれにでも親切でしょ。娘に会ってくれて、いろいろ話をしてくれたの。そうしたら、うちの娘、とっても明るくなって……」
「エッ、宍道さん、て。長谷さんが……」
安芸の顔が、急に曇った。
と、そこへ当の宍道が顔を出した。彼の後ろから、末味がついてきている。
「亜麻さん、お久しぶりです」
宍道が如才なく、亜麻に声をかける。末味も後ろから、
「麻美ちゃん、元気になったそうね」
麻美は、亜麻の娘だ。
「宍道さんのおかげです。ありがとうございます」
亜麻は、酒を飲んでいるときとは大違いの、堅苦しい態度で、深々とお辞儀をした。
「シンちゃんは、なんでも出来るの。これからも、困ったことがあったら、いつでも言ってきて……」
「亜麻さん、なんでもなンて。ぼくに出来ることは、閉じたこどもの心を開くだけです。ぼく自身がそうだったから……」
安芸は、ベッドの中から、亜麻、宍道、末味のそんなやりとりを見ていて、不思議な気持ちがしてきた。
宍道という男は、どういう気持ちで末味とつきあっているのだろう。恋愛感情はないと言ったが、末味のほうにはある。それでいて、娘の麻美を通じて、亜麻とも会っている。そして、わたしには、あんなことをして……。
安芸は、あの夜のことを思い出す。
安芸たち3人が2年ぶりに再会したあの日の帰り道、電車のルートの関係で、途中亜麻と別れ、安芸は宍道と2人きりになった。
次の駅で安芸が降りるというとき、宍道が言った。
「安芸さん、少しお話がしたい。ご一緒していいですか?」
宍道の自宅最寄駅は、まだ2駅先だった。
安芸は、宍道と同じく、アルコールは余り強くない。少しの焼酎で、いい気持ちになっていた。しかし、宍道は酔っていると言う割には、顔色に余り変化はない。
安芸は躊躇することなく、
「いいわよ。わたしも、苦―いコーヒーが飲みたくなった」
2人は、安芸の自宅最寄駅で下車すると、駅前の喫茶店に入った。
テーブルにつくと、コーヒーを待つ間、宍道は何気なく煙草の箱を取り出し、一本を口にくわえた。その仕草がとても自然だった。ジッポのライターで火をつけ、うまそうに吸った。
「宍道さんは、煙草をお吸いになるのですか?」
「気分がいいときだけです。いま、その気分になったから。こういうときの煙草は実にうまい。安芸さんは?」
安芸は、煙草をやめている。
「昔、吸っていましたが、結婚と同時にやめました」
「そォ、煙草は体によくないから……そのほうがいいです。ぼくも自宅では吸いません」
安芸も煙草が吸いたい気分になってきた。しかし、まだ早い。一度吸うと、やめるのがたいへんなことは経験からわかっている。
「一本だけ、吸ってみようかな……」
「エッ、いいですよ」
宍道はケースから一本を抜き取り、差し出す。
「ごめんなさい。やっぱり、やめておきます。わたし、まだその気分じゃないから」
安芸はこんど煙草を吸うときは、すべてを投げだしたいときだと思った。
その後は、宍道のたわいもない話が続いた。扱っている患者のユニークな癖とか、職場の人間関係についてだったが、話し方がおもしろく、安芸を飽きさせなかった。
安芸は、ただ聞いているだけで気分がよかった。
喫茶店を出ようというときになって、宍道が言った。
「安芸さん。あなたと知りあえたことが、きょうのぼくの、いちばんの収穫です。機会があれば、もう一度、会っていただけますか?」
安芸は深く考えずに頷き、連絡先を交換し合った。そして、席を立つとき、宍道は手を伸ばし、安芸の手をしっかり握った。
外に出ると、宍道は振り返りもせず、駅の改札を通り抜けていった。安芸はその後ろ姿を見送りながら、心の中に、もやもやしたものが生まれてくるのを感じた。
その1ヵ月半後。
安芸は、宍道からのメールを受け、勤務後役所から徒歩で10数分のところにあるシティホテルに出かけ、ロビー横の喫茶室で彼を待った。宍道は、当初、そのホテルのラウンジで会いたいと言ったが、安芸は喫茶室にして欲しいと言った。アルコールが入るとよくないことが起きそうな予感があったからだ。
その日は金曜の夜のためか、アバンチュールを期待するカップルの姿が、そちこちに見える。
しかし、安芸の気分は落ち込んでいた。宍道の顔を見ていても、気持ちが落ち着かない。それは、安芸の夫の言動が原因だった。
安芸の夫、啓市(けいいち)は、キャリア組であることから、35才の若さで警視庁管内の所轄署で署長をしている。
その勤務先の啓市に、
「奥さまが駅前の喫茶店で、すてきな男性と話しこんでおられました。最後には、手を握りあって。ご注意ください」
と、記した匿名の封書が届いた。
啓市は、署に出入りしている興信所の丹野に、こっそり妻の素行調査を依頼した。丹野は以前、ネット通販で、ありもしないクレームを付け、大金を脅し盗ろうとする詐欺未遂事件を起こし、啓市に助けてもらった負い目があった。
丹野の調査結果から、安芸と親しくしている男がいることが明らかになった。しかし、丹野はその男が宍道であることは隠した。なぜなら、啓市自身、署内の若い美形の女と肉体関係があることを知っていたからだ。丹野は、安芸に深く同情し、
「男の陰はありますが、深い関係ではありません」
と、啓市に報告した。
しかし、啓市は、丹野の調査を信用せず、妻を責めた。
「おまえ、男がいるンだろう。すべてバレているンだ。離婚しても、慰謝料なンか払わンからな。そう思え!」
安芸が喫茶店で宍道と初めて話してから、20日後のことだ。
しかし、安芸は、夫から責められる3日前、末味に会うことを口実に、彼女の病院を訪れた。そして、その屋上で宍道と会っていた。
2人はその日のために、前もって、メールで打ち合わせをしている。丹野はその日、別件があり、安芸が病院に入ったところで、尾行を打ち切っていた。
安芸は、2人きりの屋上で、宍道からキスを求められた。しかし、安芸は、拒んだ。まだ、宍道とそこまでの関係になるほど、啓市との関係は壊れていないという気持ちがあったからだ。
しかし、その夜、啓市から、離婚という言葉が初めて出てから、安芸の葛藤が始まった。そして、それが徐々に欝へと進行した。
無気力になり、何をするのも億劫になった。職場でもぼんやりとして、力のない応対をするようになった。上司が心配して、病院で診てもらうように、と薦めた。
病院と聞いて、安芸は宍道のいる病院を、まず思い浮かべた。
病気なら、大っぴらに、宍道の近くに行ける。末味にも会える。宍道と末味の関係は気になるが、宍道に結婚の意志がない以上、宍道と話しても問題はないだろう。宍道は、唇を求めてくるほどなのだから、わたしに好意以上のものを感じているはずだ、と。
安芸はシティホテルの喫茶室で宍道と会ったとき、病気のことを伝え、診察を受けたいと話した。宍道も賛成した。シティホテルではそんな話をしただけで別れた。探偵の尾行がついているのではという不安が強かったからだ。
こうして安芸は宍道の病院で診察を受け、入院を決めた。
安芸は病室のベッドのなかから、宍道、末未、亜麻を見ていて、宍道という男がわからなくなった。
彼はわたしにキスを求めた。しかし、拒否すると、彼はそれ以上には求めなかった。紳士だから? わたしの魅力がそれまでだった、からなのか。
「末味、安芸の退院はいつ頃になるの?」
と、亜麻が尋ねる。
安芸はまだ聞かされていない。入院して、すでに2ヵ月がたっている。
「先生の話だと、もう退院しても問題ないンだって。ただ……」
「ただ?」
安芸には、末味が何を言いたいのかが、わかっていた。
「これ以上は、患者さんのプライバシーになるから、わたしたちの間でも、よくないでしょう」
亜麻は納得したようだ。安芸が、昨日の昼、宍道と病棟の屋上で会ったとき、宍道は安芸が家に戻ることを拒否しているようだ、と担当医から聞いたことを安芸に伝えた。
夫はこの1ヵ月、1度も、安芸の見舞いに訪れていない。カップルでは珍しいことだ。
安芸は担当医に事情を話した。夫のモラルハラスメントに苦しんでいる、と。
「みなさん、お揃いで。何事かしら?」
安芸の病室を担当している看護師が検温に訪れた。安芸の病室は個室だが、四畳半ほどしかなく、ベッド以外に大人が3人もいると、身動きができなくなる。
「じゃ、ぼくは仕事に戻ります。安芸さん、また……」
宍道が手を伸ばし、安芸の手を握った。安芸はハッとして、手の平の中の物を布団の下に隠した。
この病院では、原則、携帯やスマホの使用を禁止している。2人の連絡は、メモ書きしかない。
宍道が病室を出て行くとき、看護師が安芸の腕を取りながら、
「安芸さん、もうそろそろ退院してもいいって、先生が。後は患者さんの気持ち次第ですって……」
その声は、廊下に出た宍道の耳にも届いた。
「よかったじゃない。わたしも事務所に戻るわね」
と、末味。
「安芸、おめでとう。退院したら、一緒にわたしの実家に遊びに行こうよ。この季節、桃は終わったけれど、ぶどう、梨、栗、無花果、おいしいものがいっぱいあるから。退屈しないわよ」
亜麻はそう言うと、
「じゃ、こんどは外で会おうね」
と言って、帰っていった。
「安芸さんはいいおともだちがいて、幸せね」
看護師が、検温した数字を書きとめながら話す。
「そうです。学生時代からのともだちですが、いまも続いているのは、いまの2人だけ……」
安芸はそう言ってから、これは大切にすべきことなのだと改めて思った。
夕食後、安芸は病室を出て屋上に行った。
宍道が安芸の手にこっそり握らせたメモには、「午後7時、いつものところでお待ちしています」とあった。
安芸はパジャマの上にガウンを羽織り、夜空を見上げながら、屋上出入り口に最も近いベンチに腰掛けた。
空はこの日、雲一つない晴天だったせいか、星がきらめき、半月が美しい。
約束の時刻には、まだ10数分ある。
安芸が夜空に浮かぶ月を眺めていると、廊下でときどき見かける男性患者が現れた。彼は、安芸にチラッと会釈をしてから、屋上の鉄柵に体を預けて、煙草を吸い出した。
屋上での喫煙は禁止されている。安芸も若い頃、煙草を吸っていたことがある。いまはやめたが……。そんなことより、もっともっと大切なことがある。
安芸は、いま自分の置かれた状況を考えた。
宍道とこうした交際を続けて行くと、いつの日か、間違いが起きる。そのとき、わたしは、どんな行動に出るのか。どう決断するのか。宍道という男性はまだよくわからない。いま、そこで煙草を吸っている男性と比べても、宍道についてよく知っているわけではない。
では、宍道を愛しているのか。いや、好意は抱いているが、決して恋愛感情ではない。そう断言できるのは、いまこのとき、気持ちがワクワクしていないことでもわかる。亜麻や末味と会うときと余り変わらない。この気持ちは、これ以上深まるだろうか。そんなことはありえない。
そうだ。いまの夫とつきあっているときも、わたしはこんな気持ちでいた。デートの日、夫を待っている間、楽しみでドキドキしたことがなかった。それなのに、求婚されると承諾した。どうして? 結婚してもおかしくない年齢だったからなのか。しかし、それだけの理由で結婚したとは思いたくない。そして、夫の社会的スタンスや姿形に、不満はなかった。
それでも、いまの夫とは、もう同居できない、したくないと思っている。わたしは、異性に対して、考え方があまい。もっともっと、厳しくあるべきなのだ。
安芸はそう思うと、ツッと起ちあがり、煙草を吸っている男性のそばに近寄った。
彼は40前後に見える。奥さんらしきひとと一緒にいるところを見かけた事がない。
男性が安芸の足音に気がついたのか、安芸のほうを振り向いた。怪訝な顔をしている。
すると、安芸の口から思いがけないことばが出た。全く、考えてもいなかったことだ。
「お煙草、一本、いただけませんか?」
「は、はい、どうぞ」
男性は、合点したという風に頷くと、手慣れた動作で、煙草を一本差しだす。
「ありがとう。よく廊下でお会いしていますよね」
「はァ……」
安芸は、優しい微笑みを浮かべて、煙草を口にくわえる。男性はライターで火をつけてくれる。
と、そのとき、屋上出入り口のほうから、足音が聞えた。しかし、安芸は振り返らなかった。宍道とわかるから。
宍道は、この光景を見て、どうするだろうか。どんな気持ちになるだろうか。
「おいしい」
安芸は夜空に向かって、吸い込んだ紫煙を一筋にして吐き出した。
「おいしい、ですか?」
男性がそう言い、安芸を不思議そうに見つめる。
「ええ、何年ぶりかしら。煙草を吸うのは……」
安芸は夜空を見あげている。いつまでもこうしていたい気分になった。
「奥さん……」
男性が呼びかけるが、安芸は振り向きもせず、返事もしない。
数分がたった。安芸は、屋上の出入り口を振り返った。そこに、宍道の姿はなかった。彼はそういうひとだ。そして、2人の関係もその程度だったのだ。
安芸は、すべてが終わったと感じた。もう、気持ちの入らない生活はやめよう。
「ご馳走さま。おやすみなさい」
安芸はそう言って、男性のそばを離れた。
「奥さん……」
安芸は、男性の残念そうな声を聞きながら、明日退院しようと堅く心に誓った。
(了)
煙草 あべせい @abesei
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