76、盾と剣
「ミュリエル嬢も宮廷にいる。謹慎扱いだけど待遇は悪くない」
「謹慎?」
「『聖なる者』を騙ったからね」
ああ、そうか、と私は思い出す。随分前のことのように思うけど、お兄様の卒業パーティでミュリエルを『聖なる者』としてお父様が紹介したのだ。でも。私は思わず言い添えた。
「でもイリル、あれはきっとお父様の考えよ。ミュリエルが言い出したことではないわ」
『魔』と契約するほど強欲な父だ。事の重大さも知らずに、ミュリエルは丸め込まれたのだろう。イリルも頷く。
「その可能性は大きいね。もちろん、ミュリエル嬢からもちゃんと話を聞くよ」
「よかった」
「ドゥリスコル伯爵に関わった人たちのことも調べ直すつもりだ。ギャラハー伯爵夫人も意識が戻ればいろいろと聞きたいな」
私はドゥリスコル伯爵にべったりと寄り添って幸せそうだったギャラハー伯爵夫人を思い出した。イリルは慰めるように呟いた。
「夫人はきっと元気になるよ」
「そうよね」
切に願いながら、私はずっと気になっていたことをイリルに聞いた。
「ねえ、イリル、どうしてあのとき屋敷ににいたの? 宮殿にいたんじゃなかった?」
屋根から現れたときのことだ。イリルはあっさりと答えた。
「クリスティナのことが心配だったから様子を見に行ったんだ」
「それだけ?」
「他に何がある?」
ドーンフォルトに不穏な動きがある今、イリルが宮廷を離れるのは難しいはずだ。なのにイリルは当たり前のように言う。
「公爵家へに寄越した遣いが戻って来たと思ったら、王笏がわずかながら光ってね。気付けば駆けていた」
その王笏は今私が横になっている寝台の横に、守り石とともに置かれている。屋敷からイリルが持ってきてくれたのだろう。
「大変なときにごめんなさい」
「そんなことはいいんだ。とにかく間に合ってよかった」
「イリル、本当にいろいろありがとう」
それしか言えないのがもどかしい。イリルは私を包み込むように見つめて笑った。
「知ってる?」
「何が?」
「今、クリスティナがここにいるのが、僕にとってなによりのご褒美だってこと。さあ、とにかく眠って」
え? え?
感情が忙しくて思考が追い付かない。イリルはそんな私を楽しそうに見つめている。仕方なく眠ろうとする私だが、その前にもうひとつだけ気になっていることを口にする。
「ねえ、起きたらミュリエルと話せるかしら?」
イリルは肩をすくめた。
「調整する。だけど今日じゃなく、もう1日くらい後にしよう」
「どうして?」
当たり前じゃないか、とイリルは私の寝具を肩までかける。顔と顔が近付いて、こんなときなのに私は死ぬほど緊張した。イリルは私の緊張など寄せ付けないほど真剣な口調で言う。
「これ以上君に何かあったら僕が病気になる。頼むから、今は安静にしてくれ」
「……わかりました」
「ルシーンを呼ぼうか?」
「嫌」
自分でも驚くくらい素直な言葉が出た。イリルが驚いたように聞き返す。
「嫌なの?」
「眠るから、それまでここにいて欲しいの……できればでいいから、少しだけ」
寝具に潜り込みながら、私は蚊の鳴くような声で訴えた。見えなくてもイリルが笑ったのがわかる。
「眠るまでここにいるよ。その代わりちゃんと顔を出して」
「うん……」
イリルの前で寝顔を見せるのは恥ずかしいと思いながらも、私は枕の上に頭を乗せた。すぐに抗えない眠気がやってきて、私の瞼は重くなる。遠のく意識の中で私はぼんやり考えた。
最初の卒業パーティのときといい、ペルラの修道院の手前で伯爵と対峙したときといい、今回といい、守り石は私とイリルがいるときだけ動き出す。それにはどんな意味があるのかしら……イリルにも聞いて……調べて……ペルラの……
クリスティナの寝息が規則正しく、深いものになったのを確認したイリルは、ルシーンたちを呼びに部屋を出ようとした。
が、最後にもう一度、振り返る。
クリスティナがそこにいるのを確認したかったのだ。
クリスティナは変わらず気持ちよさそうに眠っている。イリルは安堵を噛み締めた。
大事な人はここにいる。それがどれほど幸せなことか。
不意に、リュドミーヤの言葉がよみがえる。
--聖なる者は人々を救う。しかし、聖なる者を救うのは、殿下、あなたです。
自分は彼女を救えたのだろうか?
その問いは自分では答えられない。イリルはもうひとつの言葉を思い返した。
ーーその者からもらったものが盾となり、与えたいと思うものが剣になるでしょう。
クリスティナからもらったものを盾として、クリスティナに与えたいものが剣になる。
彼女を傷つけようとしたという理由で彼女の父親を躊躇いなく斬りつけた自分は、彼女を害なす者から彼女を守れた。安堵と同時に自分を誇る気持ちがある。
だからこそ気を付けなくてはいけない、とイリルは思う。常に自分に問いかけなくてはいけない。
ーー自分が今、何を盾として、何を剣にして戦っているか。
ときにその剣は、彼女を守っているつもりで彼女を傷つけるかもしれない。そんな可能性だってある。
深呼吸して、イリルは扉を開けた。
廊下には、彼女を心配する人たちが待っていた。イリルは一番手前にいたルシーンに声をかけた。
「眠ったみたいだ。後はお願いできるかな」
「はい」
そして自分は第二王子としての職務に戻る。
巡り巡って、それも彼女を守る盾のひとつとなる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます