番外編
【番外編】雪の弾丸は撃ち砕けない [前編]
スオミの大地は古来より大きな女神の姿としてカルヤラの民に語り継がれてきた。それがスオミ・ネイトである。
大地として静かに眠るその女神の加護の元で、スオミに住む人々は雪に覆われた豊かな大地と、多くの自然と共に長い年月を過ごしてきた。
カルヤラ地峡——。
西はバルト海へと続くスオミ湾、東は巨大なラドガの湖。
太古の昔に氷河によって削られた渓谷と、大小様々にその数七百近くもある湖と沼地。そしてアカマツやシラカバで覆われた森林に囲まれ、少し近代文明より外れたその生活様式をカルヤラの民は営んでいた。
「スロ、起きなさい。今日はお父さん達とヘラジカ狩りに行くんでしょう」
「……あれっ、ごめんなさい。今何時?」
「もう十時前よ。アナタったら、また夜遅くまで星を見ていたの?」
「だって、とても綺麗だったから」
「仕方ないわねぇ。ほら、ソリならもうお父さんが準備しているから。早く行きなさい、プオルッカジャムのサンドイッチを用意しているから行きながら食べるといいわ」
「うん……ありがとう」
ベッドから起きた先のチェストの上には、所狭しと射撃大会のトロフィーやメダルが並べられている。スロはそれをまだ眠気の残る目でチラと見た後、いそいそと着替え準備をした。
今年11歳になるスロ・ハユハは、このカルヤラ地峡に点在する小さな村の一つに住まう猟師の家の子だ。幼い頃から父に連れられ、ヘラジカやイノシシ狩に参加したり、ケワタガモ猟を生活の一部として過ごしてきた。
学校に通ったことはない。故に本を見ることはできるが文字を書くことはほとんどできず。生きるために必要な知恵は全て両親や村の人から教わってきた。
物心ついた頃から猟銃に触れ狩りをしてきた彼の射撃センスは類稀なるものがあり、村を代表して出場させられた数多の射撃大会で賞を総ナメすることになる。大会に出るときだけ触れられる外の世界や都会の街並みは、好奇心旺盛なスロにはとても輝いて見えた。
それに何より、ほんの少しだが優勝すれば賞金ももらえる。
小さい頃から思ったことを言葉や表情に出すのは苦手だ。それでもやはり、両親が喜ぶ顔を見るのは嬉しい。そう思ったスロは今まで以上に一生懸命、射撃の練習に励むことになる。
食も細く小柄な彼は、狩りに出た先で皆が休憩をとる間にも少しの木の実とパンをかじると、ひたすら射撃の練習をし続けた。
ケワタガモ猟はヘラジカやイノシシと違って身の危険も少ないため、幼いスロはよくそちらを任されていた。ケワタガモはスオミの地、またこのカルヤラ地峡に多く生息するカモの仲間で、良質な羽毛が取れるためカルヤラの民の厳しい冬の生活を支える重要な獲物の一つである。
羽毛を採取するため、なるべく身体に傷をつけず、その小さな頭を正確に撃ち抜くことが良いとされてきた猟だが、それを幼い頃から身体に染み付くまで行ってきたスロにとってそれは至極普通の事。彼の撃ったケワタガモは高値で売られ、評判も良かった。
だけど。スロにはもう一つ。
両親しか知らない一面があった。
夜空の星を眺めるのが大好き。
そこは広くて広くて、どこまでも高く澄んでいて。
その中に光る星々。その瞬きはいつまで見ても飽きない。
(僕は小さな村の猟師。空を飛ぶケワタガモを撃ち落とすことはできても、自分自身がその星空を飛びたいだなんて夢のまた夢だ)
小さく心に灯った夢の光は、雪のように真っ白な彼の心の中でやがて溶けて見えなくなった。
「おはよう、お父さん」
「スロ、準備はできたのか?」
「うん。荷物は昨日のうちにまとめておいたから」
言いながら、犬ぞりを引く四頭のハスキー達の頭を撫でていく。
「みんなおはよう。今日もよろしくね」
ヘラジカ狩りは基本的にチームで行なう。
一方は犬でヘラジカを追い込む係、もう一方はポイントまで追い込まれたヘラジカを仕留める係だ。この日のスロと父エドヴァルドの担当はポイントで待機してヘラジカを撃つ側となっていた。
しっかり防寒着を着込み、双眼鏡と小銃を再度確認する。
皮もツノも内臓も、もちろん肉も全て余すところなく使えるヘラジカも、この冬の厳しいスオミの辺境では重宝されていた。その日の暮らしに感謝し、自然より命を頂き、時にその自然の猛威に耐える。そうやって共存していくのがこのカルヤラの民のルールであった。
いつもと変わらない、十一月の朝。
何も変わらない、出発前の風景。
ぼーっとしがちなスロにプオルッカのジャムサンドを慌てて渡しに来る母の姿。
そう、この時までは当たり前のように今日が、明日が、変わらない日々が続いていくと思っていた。
***
「変だな……」
隣で双眼鏡を使い、追い込みチームの動向を探っていたエドヴァルドが呟いた。
ポイントで別れてからはや二時間、いつもならそろそろ合図の音や追い込む犬達の声が聴こえてきてもいい頃合いだ。
「変? ヘラジカも慎重なんじゃない? 今の季節はツノもないし」
「いや……無線からも、二時間経った時点で何も連絡がないのはちょっとおかしい」
言いながらエドヴァルドが双眼鏡を覗いたまま立ち上がる。
瞬間、丘の向こうから数発の銃声が響いた。ダァーンッという抜けのいい音が終わるのを待ったかのように、それを追うかのような銃声が何度も聞こえて来る。
「どうした!」
無線に向かって叫ぶ。
がががが……とノイズ音が数度混じった後、仲間の声が途切れ途切れに聞こえてきた。
『撃たれたっ! ……ど……も、誤射と……違っ』
「大丈夫か!? 誤射じゃないとはどういう」
犬ぞりで全速力で走っているのか、聞こえる音声はやはり途切れがちだ。
『誤射じゃない』その言葉に一気にエドヴァルドの顔が険しくなる。獲物と間違っての誤射なら銃声は確かに一発で済むはずだ。しかもヘラジカ狩りで誤射など、近隣の村の猟師がやる可能性はかなり低い。
突然の緊迫した出来事に、スロは動けず固まったまま無線機を見つめていた。
『連……うだ! れ……邦の兵だ、奴ら……ぐあぁあああああっ』
ダァーンッ!!!! と、銃声が一つ響いた。あとはガサガサ…ザァザァというノイズ音が無線から流れてくるばかりだ。
「れんぽ……う? 連邦だと? 不可侵条約はどうなって…」
エドヴァルドの言葉は銃声に阻まれる。
「うっ……」
「スロ! スロ大丈夫か!」
ずんっという衝撃を感じ、スロは後ろへ倒れこむ。銃弾はスロの胴体を掠めていた。
「スロっ!!」
防寒着を着込んでいたおかげで、幸いスロの細い身体に致命傷となるものはつかなかったものの、傷は決して浅くはなく、"撃たれた"という恐怖が彼の足を竦ませるには十分だった。
ガタガタ震えて言葉を出すこともできない息子の小さな身体を抱え、エドヴァルドは雪の中を走る。咄嗟に息子を助けようと背を向けて走り出したこの判断が、彼の運命を決定づけてしまう事になった。
ダァーンッ! ダァァアーンッ!!
二発銃声がすると、スロの身体は雪の中に投げ出された。
「おとう……さんっ!」
「スロ、怪我は……ない、か?」
「おとうさんっ! 足、足が!!」
真っ白な雪が、みるみるうちに紅に染まり滲んでいく。
左足の膝近く、大腿部を撃ち抜かれた父がそこに倒れ込んでいた。
恐怖で足が立たないスロは、エドヴァルドの元へ必死に這っていく。
「おとうさん、早く、早くお医者さんに診せないとっ!」
「ぐぅうっ」
出血が酷い。流石に狩りをしている身だ、嫌でもわかる。この血の量は動脈を傷つけた量だ……。どうしよう、どうしようとスロは震えることしかできず、しかしそれでも必死に父に寄り添い叫び続ける。
震える手と必死に口から息を吐き出し、犬ぞりを呼ぶ。
足をロープで縛って、毛皮で体が冷えないように包んで、それと……それから……、とにかく村まで父を運ばなければ。お願い、立て、立てよ!と自分の身体に力を入れれば、腹部から血が溢れ出るのを感じた。
雪を殴りつけるスロの手をエドヴァルドが覆う。
血の赤が標的となったのか、続いて二発、銃弾が二人のすぐそばを掠めた。スロの頰に一筋の真っ赤な傷が生まれる。
「スロ、みんなに早く伝えるんだ。村のみんなに、逃げるようにと。街の警察や軍に、一刻も早く」
言い聞かせるようにスロの目をしっかり見つめて言うと、エドヴァルドは右脚と両の腕でその身体を持ち上げた。
「おとう、さん? おとうさん何を!」
「スロ、愛してるよ」
小さな身体を犬ぞりに投げ入れるように乗せ、出立の合図を告げる指笛をエドヴァルドは高らかに鳴らした。
「おとうさん!」
優しい目で微笑んだ父は振り返ると銃をとった。
遠くなっていくその背中、応酬する銃声、堪らずブレーキのスパイクを降ろそうとして、それが外されているのに気づいた。スロはもう一度父に叫ぶ。
ケワタガモ猟をしていた自分をこんなに恨んだことはない。
スコープなしで飛ぶ鳥を落とせるスロは、目も勘も優れている猟師の中でもそれが抜きん出ていて。
数発の銃弾の応酬の後、父の身体はどうっと倒れた。
顔面を撃ち抜いたであろうその軌道に、自分を育ててくれた愛する父親の頭部が吹き飛んだのがその目にはっきりと映る。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!!」
涙と、血と、絶叫がその喉から迸る。
震える手を遥か後方に伸ばすと、もう一度銃声が聴こえ、スロの意識は真っ暗な闇の中へと落ちていった。
この日、国境付近でのカルヤラの民からの銃撃を理由に、連邦はスオミとの不可侵条約の破棄を通告した。
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