第37話 トレードマークは眼鏡

 ユニオットはルゥドの地下牢獄でうずくまっていた。


 何日経っただろうか。

 日の光も当たらない部屋では、今が昼なのか夜なのかも分からなかった。まともな食事は提供されず、唯一口にしたものは水道から出る塩素カルキ臭い水だけ。だが例え食事を出されたとしても、口にはしなかっただろう。


 眠らされた少女―――レインは双子にどこかに連れていかれた。その安否さえも知る術はない。

「僕の失態ミスだ……」虚ろな瞳を壁に向けたまま、擦れた声で云った。

 でも―――このまま此処に居れば、僕はようやくされるかもしれない。これは僕が受けるべき罰なのかもしれない―――


「おい」

 唐突に声がした。

 見上げると、目の前に知らない男が立っていた。

「え……」

 男の背後に施錠されていた扉はいつのまにか開かれていた。そして音を立てることなく、手の一振りでユニオットの両足のかせった。

 素早すぎて見えなかったが、手の中にきらりと光る短刀が見えた気がした。

「立てるか?」と訊いてきた。だがろくな食事もしていない様子を確認したのか、ユニオットは答える間もなく担がれた。

「⁉」

 抵抗しようとするも体に力が入らず、ぐったりとしてしまう。

「体力は温存しておけ」漆黒の髪をした男は小さな体を背中に乗せ、そのまま廊下へと駆け出した。


✧ ✧ ✧ ✧ ✧ 


「ほう……その手があったか」

 ルゥドのボスは淹れたての紅茶を片手に、目の前のチェス盤に驚きの表情を浮かべた。

「攻めている時ほど隙が生まれるものです」

 ふっと微笑んだのは騎士のような服装を身にまとった上に黒いマントを羽織り、片目を布で覆った隻眼の青年だった。

「ふむ。今後の参考にしよう」

 ボスは紅茶を一口含むと、ふぅと一息つく。

「やはり先日錫蘭スリランカから仕入れた紅茶は格別だ。君も飲んでみたかね?」

 青年はその様子を少し困ったような面持ちで眺めた後、決意したように云った。

「あの、ボス……」

「なんだね」

「チェスのお相手をさせていただき、大変光栄なのですが……先刻ここに侵入者がいるとの報告を受けたばかりです。何もしなくて大丈夫でしょうか」

「ああ、放っておいて問題ないよ」

「そうですか」少し不思議そうに青年は応える。

「緘人君の考えていることは大体想像がつく。彼に任せておいて心配ない」

「随分と信頼していらっしゃるようで」

「イチ君。緘人君は少々自由奔放過ぎるときもあるが―――」

 ボスは笑いながら、ゆっくりと自分の駒に手を伸ばした。「彼の作る隙というものはすべて意図的に仕組まれたものなのだよ。僕に似てね」

 イチと呼ばれた青年は不意を突かれたような表情でボスの鋭く光る瞳を見た。

 ボスは予想通りの反応とでもいうように、にっこりと微笑む。

「チェックメイト」


✧ ✧ ✧ ✧ ✧ 


「ああ、成功した。あとはここを脱出するだけだ」

 インカム越しに夏目はそう云うと、後ろに抱える少年に目をやった。寝てしまったらしい。牢獄に居る間は緊張状態で十分な睡眠も取れていなかったのだろう。

「年はリリスくらいか」

 こんな少年にルゥドは何を求めていたのだろうか。

 ―――もっとも、異能者は子供といえど油断ならない。それは夏目自身も分かっているつもりだ。


 ルゥド商事本社ビルの最地下層。滅多に人が立ち入ることのないその薄暗い廊下を夏目は駆けていく。

 妙だな……見張りがひとりもいない。

 ここへ来るときも見張りは入口に一人いるだけだった。しかし、闇社会の支配者であるルゥドがこんな容易く侵入を許すものだろうか?


 疑念を抱いたその瞬間。夏目の頭上から床が崩れるような音と共に、廊下の奥に鉄の檻が落とされた。

「やはり罠か」

 夏目は懐から短刀を抜き、目前の檻を切り裁く。

 紙を切るように滑らかに真っ二つに分断された檻は、初めて重力に気付いたかのように一瞬で床に崩れ落ちた。

 速度を緩めることなく奥の暗闇に進んでいく。潜入する際に壁に印をつけておいたため、同じ道を引き返しているのは確実だ。

 しかし随分と時間が経っているはずなのに一向に出口に辿り着きそうにない―――

途端、妙な気配を感じた。


 危険を察し立ち止まった夏目の前に、巨大な瓦礫がれきが落ちて地面を割った。見上げると、天井には隕石が落下したような穴が形成されていた。

「あははは!まんまと引っかかりましたね」夏目の頭上から笑い声が響いた。

 すると天井の空洞から、紅色に光る腕輪を着けた男が飛び降りた。

 薄緑のベレー帽を抑えながら着地すると、すっと立ち上がっては襟を正し手元の埃を払う。そして準備が整ったとでもいうように、ようやく夏目に視線を向けた。

「先刻の私に対する屈辱を晴らすため……今度こそあなたたちを仕留めてみせますよ」

「……会ったことあるか?」高らかに笑う叶田に夏目は首をかしげる。

「はぁーー?いやいやいや、そんな経ってないですよね、あの弁護士ですよ、ほら」そう云うと叶田は胸元から取り出した眼鏡を装着する。

「ああ、あの時の……悪い、急いでいる」

「あ、そうでしたか。どうぞどうぞ」

 そう云ってみちをあける。そのままスタスタと立ち去ろうとする夏目に、叶田は我に返る。

「って違いますよね!これ今、私、あなたに闘いを吹っ掛けたんですよ⁇分かりますよね⁈」

「キャラ違くないか」

 大人しい弁護士を演じていた姿しか知らない夏目は、ノリよく憤慨する叶田を見て静かに呟いた。

「全く、自分の置かれた立場が分かっていないようですね。ここはルゥドの本拠地……わば私にとって庭同然―――あなたはそこに迷い込んだねずみなのですよ」叶田は腕時計を見て云う。「残業は良くないですね……さっさと片付けましょうか」

「……従順な番犬だな」


 二人の間に凄惨たる殺気が満ち溢れた。夏目の背中の上で眠っていたユニオットは目を覚まし、その状況に息を呑む。


 先に叶田が動いた。右腕を掲げ、頭上に大きな円状の渦を創り出す。高らかな笑いを発しながら、それを夏目に放った。

 その巨大な砲弾を素早く横に躱すと、背後に瓦礫の崩れる音が木霊こだまする。夏目の居た場所には、巨大な怪物にまるごと飲み込まれたような空洞だけが残った。

「触れたものを塵一つ残さず消滅させる―――俺と同系の能力ちからか」

 相性が悪いな、と夏目は呟いた。

「この狭くて暗い地下牢でどのくらい逃げ続けられますかね。いくらマコト先輩のお気に入りだからって、容赦はしませんよ!」

「……」

 夏目は集中力を極限にして自分に向けられた黒弾ホローをすべて断ち切る。空間を消し合う力が衝突し、鈍い音が響いて渦は黒い霧となって消える。だが一方的に攻撃を躱すだけで、反撃をする隙がない。


 ねえ、という声がした。「この手錠、切れる?」

 背中に担いでいた少年の声に、夏目ははっとする。手錠は万が一のために外すさないよう云われていたが―――

 目の前では叶田が放つ新たな黒弾が空気を黒く濁らせる。

 少年の声は驚くほど平然としていた。それが夏目に根拠のない不確かな信頼を与えた。

「―――ああ」

 そう云うとユニオットを背中から降ろし、迫りくる新たな黒弾を切り裂くと同時に彼の手枷も断ち切る。

 だが加速した次の黒弾が飢餓した獣のように襲い掛かり、夏目たちを飲み込んだ。


「この威力、思い知りましたか。人間二人消してしまうことくらい、たやす……ん、二人……?」

 叶田は目の前から消えてしまった捕虜の姿がどこにもないことを確認する。

「……これは不味いですね。非常に……不味い。重要な捕虜を消してしまったことが上にばれたらどうしたものか……下手したら私も消される……」

 独り言を呟きながら右往左往する。

「っひ!」

 突然、鋭い刃が叶田の鼻先まで伸び、触れる寸前で止まった。

「心配するな。無事だ」無数の絡み合ったツタの塊の中から夏目が飛び出した。

「っ……地面が……泥に変わっている……?」叶田は信じられない様子で自分の沈む足元を眺めた。「なるほど……私を油断させるために地中に潜り、姿をくらませたというわけですか」引きつった笑みを浮かべながら、夏目を睨む。

「でも足場が崩れようと……腕さえあれば私を止めることはできません!」

 叶田は腕を振り上げ、先刻と同様に黒弾を形成する。

 しかし夏目は身構えることなく叶田をみつめる。

「後ろだ」

 その声にはっとし、即座に振り向く。そして悪夢のような何かと目が合った。

「あ……あ」

 理解の範囲を超えたせいか、或いはあまりの近距離でおぞましいものに直面したせいか―――夏目が気付くころには、叶田は気絶していた。


 夏目は警戒しつつも、その生き物に近づく。

「お前……さっきの彼奴なのか」

 は無言のまま夏目をみつめた。


 二人の間は数メートルの距離。夏目が懐に納めた刃を抜き取る前に、ユニオットが彼に襲い掛かることはできた。しかし彼の本能的な何かが、その行為を止めさせた。

 やがて元の人間の姿に戻り、視線を足元に落としたまま夏目の前に立った。


「とりあえず此奴こいつが起きる前に行くぞ」そう云うと夏目はユニオットの前に背を向けて屈んだ。「乗れ」

 その広い背中に、ユニオットは驚きと戸惑いの表情で応えた。

 しかし足はすでに立っているのが限界であったらしく、気付けば倒れるように夏目に背中に身を預けていた。

 ユニオットの重みを確認すると、前よりも速く夏目は駆けだした。


 不本意ではあったが、夏目の背中にしがみついていないと落ちそうだった。その背中に揺られながら、ユニオットはに落ちず考えつづける。

 怖くないのか?あんな姿の僕を見たのに……

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