第29話 既視感
京也の姿を見失った夏目は、急に聞こえてきた怒声にぴくりと反応した。
廊下の隅に身をよせ、歩き去る京也の姿を静かに見届けてから部屋に入る。
「何かあったのか」
すると静雫は気まずそうに頷いた。
「なぁ……京也のお母さんって、亡くなっているのか?」
その問いかけに、何が起こったかを察する。
「ああ。随分前―――たしか京也が十二歳の時だ」
「そうか……」
静雫は九歳の時に事故で亡くした家族をふと思い出した。
「僕と同じ思いを経験していたんだな」
「京也は母親が亡くなる直前、当時海外公演中だった父親に連絡したそうだ。早く帰ってこいと―――だが間に合わなかった」
「海外公演……でもそれって、仕方なかったんじゃ」
「ああ。京也もきっと分かっているはずだ。楽団を背負う父親が公演を途中放棄できなかったことも、公演直後に急いで病院に駆け付けたことも」
「じゃあなんで、あの二人はあんなに仲悪いんだ」
光介をちらりと見て静雫は
「さあな……ただ、互いに不器用なだけかもしれないな」
✧ ✧ ✧ ✧ ✧
「母さん」
幼い京也がベッドに横たわる母親の手を握る。
その手は、いつも優しく温かく京也を包んでくれる手だった―――だが今は冷たい。
触れる肌から感情がひしひしと伝わってきた。
申し訳ないという気持ち。体中が痛むという気持ち。最後に、会いたいという気持ち。
「母さん、もう少し待っててね。もうすぐ父さんが来るから」
「ありがとう、京也」
そう云って微笑む母親の弱弱しい笑顔は、より一層京也の胸を締め付けた。
早く。早くきて。母さんが会いたがっているんだ。
―――あの日の記憶を、今も鮮明に覚えている。
「あの時、僕が母さんを一人にしていなかったら……」
過去の記憶や後悔にとらわれても無意味だとは分かっている。でも悔やまずにはいられない。一つの単純な行動が、もしかしたらすべてを変えていたかもしれない。
母親の身体に突き刺さった刃物の形。
その身体から溢れ出る鮮やかな血の色。
幼い自分が初めて感じた、憎悪という感情。
握った手からゆっくりと体温が奪われてゆく感触も、記憶に残っている。
京也は誰もいないコンサートホールの客席に一人座っていた。照明もなく、暗闇の中で空っぽになったステージをぼーっと見つめる。
不意に、大きな光に照らされた。
「⁉」
あまりの眩しさで目をしかめると、その先に小柄な人影がぼんやりと浮かんだ。
懐中電灯を向けていたのは、コウだった。
「どうしたの」
と京也が目を手で覆いながら云うが、コウは照明を下げる気はないらしい。
「暗いから」
「……うん。というか暗いから選んだのだけど……」
「あなたが」
京也は目を見開きコウをみる。
「あー……はは、確かに、今の僕は暗いかも」
微かにはにかむと、懐中電灯に照らされたまま俯いた。
「実はさ……幼い頃に母親を亡くしてるんだ。そしてそのことを今日みたいにふと思い出すたびに、父親を憎む気持ちが湧いてくる」
どうして間に合わなかったんだ、どうして母さんの傍にいてあげられなかったんだ、と。
「……まあ、ただの八つ当たりなんだけどね」
コウは表情を変えず京也を照らし続ける。「でもいい加減……疲れた」
―――父親を責めることに。
彼の瞳はそう語っていた。
「もし僕が君に記憶を消して欲しいと頼んだら、消してくれるのかな」
コウは不快そうに眼を細め、京也をみた。
「……なんの記憶」
「母さんとの、記憶」
その声はどこか他人事のような響きを持っていた。だがその表情は親とはぐれ、迷子になってしまった少年のようだった。
その微かに歪んだ藤色の瞳を見てコウは静かに応えた。
「それはできない」
「どうして?」
「……誰の利益にもならないから」
京也は驚いたような表情でコウを見つめる。「誰も望んでいないことを……しても無駄だから」
素っ気なく云うコウに、京也は一瞬固まっていたが、突然笑い出す。
「なに?」
「いや、ただ……君も確かにルゥドの一員なんだなって」
京也は優しい微笑みを浮かべ、ゆっくりと立ち上がった。「僕たちとしては危ぶむ限りなんだけどね」
「……」
「ありがとう、少し目が覚めた気がする」
「……別に」
なにを以てしてそう思ったのか―――ささやかな疑問は残ったが、敵と云えどルゥドの一員として認められたのは悪く思わなかった。
コウはほんの少しだけくすぐったいような気持ちを抑え、京也が暗闇の中を去っていく背中をみつめた。
自分と住む世界が違う、光に覆われた背中。どこか懐かしい気分になった。
「……!」
突然、頭の奥から大きな振動を感じる。脈が急激に上がり、息をするのも苦しくなる。
「は……ぁ……」
膝から崩れ落ちた。
床に這い、胸に手をあてて呼吸を整えるが、心臓の鼓動が収まりそうにない。
必死に肺に呼吸を送りながら、なんとか落ち着かせようとして目を瞑る。雷に打たれたかのような、激痛が頭に走り―――ある記憶が頭をよぎる。
何年も前の、微かな断片的な記憶。
―――あの背中を、見たことがある。
手を伸ばしても届かない。ただ遠ざかるだけの、眩しい背中。
これは、
でも……思い出せない―――
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