第30話 ツアー直前⑥

「あ……歩きだとすぐそこまで行ったら引き返したくなりそうですけどね。また手首が治ったら乗せてくださいよ」


 千弦がバイクを運転できるのなら最初からそうしているし、散歩で行けるところはたかが知れている。何よりバイクが重たい。


 千弦はかなり残念そうな顔をしている。そんなに家に帰りたくないのだろうか。少し俯いて、次に僕を見たときにはいつもの微笑みに戻っていた。


「分かりました。では、今日は右ですね」


 回れ右をして、僕を先導するように歩いていく。丁字路できちんと右に曲がってくれて一安心だ。


 千弦は歩くペースを落として、また僕の横に来た。


「あの丁字路、前にも右に曲がるか左に曲がるかで悩んだことがあるんです」


「そうなんですか?」


 千弦は意外と悩みが多いみたいだ。そんなにこの街から出ていきたいのだろうか。


「はい。昔はお父さんがサックス吹きで生計を立ててたんですよ。仕事は全国であるので出張みたいなもので、住むところもその時の気分で引っ越してたんです」


「えぇ? それなら住まいを固定した方が良くないですか?」


「そう思いますよね。両親は旅好きだったのでそんな事を考え付きもしなかったらしいです。私は何も言えなくて何回も転校を繰り返して、その度にお友達とお別れしてました」


「大変でしたね……」


 親が転勤族であちこち転校するという話は聞いたことがあるけれど、このパターンは初めてだ。転勤する必要がないのに子供を連れ回して引っ越すだなんて。店で見た二人の溺愛っぷりからは想像もつかない姿だ。


「大変でした。だから私はそんな生活が嫌になって、両親に泣きながら言ってやったんです。『もう転校したくない』って。そうすると両親は考え方を改めて、この街に永住することにしてくれました。お父さんも出来るだけ私の近くにいられるように出張が多いサックスの仕事も辞めてくれました」


 千弦の両親でイタリアンの店をやっているし、この街で仕事をすることにしたということだろう。僕の相槌も待たずに千弦は一人でどんどん話す。よほど悩みが溜まっていたのかもしれない。


「それが十歳の時の話です。お母さんが店を開くことになって、お父さんもサックスで稼ぐのをやめて二人で必死に店を切り盛りしていました。店名も私の名前をイタリア語に訳したものにして。なんだか気を使わせてますよね」


 千弦が大きく息を吸う。


「そんな姿を見ていると、今度は私のせいで両親の楽しみを奪ってしまったと思い始めたんです。私のせいで、二人は楽しくもないイタリアンを開いて続けているんじゃないかって」


「そんなことは無いような気もしますけどね」


 千弦は同感だと言いたげに微笑みながら頷く。


「私も今はそう思います。とにかく、当時の私は自責の念に駆られて一人で街を出ることにしました。夜に自転車はダメだと言われていたので、キックボードで地面を蹴りながらあの丁字路まで行ったんです。行ったというか、迷った結果たどり着いただけですけど」


 キックボードのハンドルを持って、片足で地面を蹴るジェスチャーをする。十歳の千弦は僕達が下っているこの坂道を頑張って上っていったらしい。


 道路を挟んだ反対側の歩道をキックボードで懸命に上っていく小さな千弦が見える気がした。


 千弦が立ち止まって丁字路の方を振り返って見るので、僕もその場で立ち止まる。


「私、あの丁字路のところでうずくまって泣いてたんです。家への帰り方が分からなくなっちゃって」


 丁字路を見据えながら、当時と同じように千弦がその場に座り込む。結構ハードな話になってきた。僕もバイクのスタンドを立てて、千弦の隣に座る。道は広いのだが、あまり使われないのか車はほとんど通らない。


「目の前で一台の車が止まりました。中から一人の女の子が降りてきたんです。それが永久でした。今の奏吾君みたいに私の横に座って、さっきの私と同じことを言いました」


「同じこと?」


「右に行くか、左に行くかです。私は記憶もあやふやなのですが家に帰りたいって泣きながら言ったらしいです。でも、私は泣いてないと思うんですよね。永久が勝手に盛ってるんですよ」


 唇を尖らせながら、ここにはいない永久に対して弁明している。永久は昔から永久だったようだ。いつでも誰かを引っ張って、導く。そんな性格の持ち主だ。


 過去の振り返りは済んだようで、お尻についた汚れを払いながら千弦が立ち上がる。


「さてと。帰りましょうか」


 千弦に続いて立ち上がってバイクを押して歩く。


「あの……なんでそんな話をしてくれたんですか?」


 千弦は僕の方をチラっと見て微笑む。


「永久から聞いたんです。昔のモヤモヤを奏吾君に話したらスッキリしたんですって。私も良い機会なので試してみようかなと」


 商店街で永久と会った時の話だろう。永久と千弦はメンバー間でも飛びぬけて仲が良い者同士なので話は筒抜けで、ほぼリアルタイムで連携されているみたいだ。迂闊なことは言えない。


「もう一つは、恥ずかしい話ですが。バイクでこけた時、結構怖かったんですよ。いきなり黒塗りのハイエースが止まって連れ込まれるかもしれないですし、痴漢や露出魔が出てくるかもしれないですし。同時に現れた痴漢と露出魔が目の前で戦い始めたらどうしましょう!」


 千弦は夜中の薄暗い道で起こる事象について一人で盛り上がっている。高級住宅街の近くなので治安も悪くないと思うし、変態も出現しない。


「一人で怖いなぁと思っていたら、あの日の永久みたいに奏吾君が現れてくれたんです。なんだか昔を思い出してしまって。エロいって言うんですかね。そんな気持ちになったんですよ」


「エモいって言いたかったんですか?」


「あぁ! それですそれです!」


 急にエロい気持ちになったとか言い出すのでびっくりしてしまった。


「それで、スッキリしましたか?」


「うーん……普通ですね」


 顎に人差し指を当てて考え込んでから答えてくれた。熟慮の結果、芳しくない答えというのは少し悲しいものがある。


 千弦としても悪気があって言っている訳ではないのは分かるので別の話題に移した。


 ツアー中の遊ぶ予定や、僕の親の愚痴なんかを千弦に聞いてもらった。




 話していると、あっという間に千弦の家の前に到着した。家の明かりはついていないので、まだ両親はレストランにいるのだろう。


「今日はありがとうございました。あ、ちょっと待っててくださいね」


 千弦は家に走って入っていく。今日も家に着くのが遅くなりそうだ。親から、いつ帰るのか連絡しろとメッセージが来ていた。


 五分ほどすると千弦が出てきた。手に何か袋を提げている。歩く度に胸が揺れているのが分かる。目に毒だ。


「お待たせしました。今日のお礼です。今度は二人で遠出しましょうね」


 千弦が何かが入った袋を手渡してくる。


「あ……ありがとうございます。これは?」


「お店で出すデザートの新作です。お母さんならこれで懐柔できると思いますよ」


 さっきの僕の愚痴を聞いて、家に帰った後の母さんとのやり取りを想像したのだろう。千弦の気遣いに涙が出そうになる。


 奏が今まで一度でもこうやって何かを渡してくれたことがあるだろうか。それどころかリビングで見送りが終わることもしばしばだ。


「一生大事にします……」


「えぇ!? 足が早いので明日までに食べてくださいね!」





 千弦が渡してくれたお菓子の効果は絶大で、母さんはお菓子を渡すなりニコニコと家の奥に引っ込んでいった。千弦の両親の店は本当に人気店らしい。


 奏の家にも日持ちする焼き菓子でもストックしておこうかと思ったが、僕が持って帰る前に全部食べられそうなのでやめておくことにした。

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