第6話 束縛兄×幸薄い弟 【家族がいない夜】



 おれが新しい母さんであるうみさんと、あおと出会ったのは7歳の頃だった。母さんが死んでから二年くらいたっていたのだろうか。父さんは。再婚についてはしばらくの間、おれたちのことを気遣って、迷っていたみたいだ。

 

 しかし、医者である父さんは忙しい。おれと弟の直介の成長には、母親的な存在が必要だと決断したのだと思う。


「陽介。今度、お前のお母さんになってくれる海さんだ。そして、こっちが蒼。キミの弟になるんだ——」


「こんにちは。陽介くん。海です。そして、こっちが蒼。——ほら、蒼。ちゃんとご挨拶して」


 平べったいくまのぬいぐるみを抱えた男の子は、海さんのスカートに縋りついたまま、おれを見ていた。なんだか黒くて大きい瞳が妙に目立っていて、おれはそこから視線を外すことが出来なかった。


 あれから十年——。


「陽介。これ。この前言っていた本だよ。図書館で見つけた。原始生物の図巻」


 蒼は中学三年生。おれは高校二年生。当時と同様に漆黒の瞳はくすんで見える。おれは蒼を見ているのが大好きだった。


「また図書館に入りびたりか。蒼は学校と家と図書館との行き来ばかりじゃないか。たまには友達と遊んでくればいいのに」


 時計の針は七時を回る。蒼は受験生のくせに、勉強もしないで本ばかり読んでいるのだ。学校でも一人で過ごすことが多いみたいだった。父は「心配だ」とこぼしていたが、おれは安心だ。蒼が他の誰かに取られるだなんて、許されないことだからだ。


「友達なんていらないよ。陽介がいてくれるだけでいいんだ」


 そう言って、そばに寄って来る蒼は可愛い。

 

 ——そうだ。蒼は


 小さい頃から、おれだけを信頼するように育ててきた。結局、再婚した後、海さんは精神を病んですぐに精神病院送りになった。あれ以来、彼女は帰っては来ない。

 取り残された蒼は、他人ばかりのこの家で、不安を抱えて暮らしていた。

 蒼は元々、自分に自信がない人間だ。からっぽな体に、おれがいっぱいいっぱいの愛情を注ぎ込んでやるだけでいい。そうすれば、蒼の意識はおれにしか向かないからだ。案の定、蒼は雛鳥ひなどりみたいに、おれの後をくっついて歩くばかりだった。蒼をおれのいいように扱うのは、造作もないことだったのだ。


「父さんは、今晩は帰らないって。医大の夜勤の仕事、頼まれたらしい」


「そう。直介は?」


「直介は今日から部活動の遠征だ。明日の日曜日に試合があるんだって」


「そうなんだ。じゃあ——」


「そうだ。今晩はおれたち二人だけってことだ」


「そっか。わかった。陽介がいればいいや。大丈夫。それにもう子供じゃないし」


「寂しいんだろう?」


「んなわけない。大丈夫だし」


 蒼は頬を膨らませてから、鞄を持ち上げた。


「着替えてくる」


「いや。ちょっと待って。蒼——」


 おれの呼びかけに蒼が振り向く。漆黒の瞳は、吸い込まれてしまいそうなほど、闇が深い。


「なあに? 陽介」


「蒼。おれはお前が大切だ。お前はおれのこと、どう思っている?」


 彼は考える間もなく、にこっと笑みを見せた。


「好きだよ。おれには陽介しかいないもの」


「じゃあ——」


 彼の腕を取って引き寄せると、易々とソファに押し倒すことが叶う。蒼は痩せていて軽い。細い腰のラインを見下ろすと、喉が鳴った。彼は一瞬、躰を硬くした。いつもじゃれ合っている行為とは違う意味合いに気が付いたのかも知れない。


「やだな。陽介。なんのおふざけ?」


「おふざけ——か」


「え? 違うの?」


「違う。これは——本気だ」


 今晩は誰もいない。明日の朝、父親が帰宅するまで——。受付の梅宮さんが出勤してくるまでは、おれたちは二人だけ。


 制服のシャツの上から指を這わせると、蒼の瞳の色が揺れた。


「陽介……」


「蒼。お前はおれのものだろう? 誰のものでもない。おれのものだ——」


 ——そうだ。そう言ってくれ。


 懇願するように視線を向けると、蒼は震えていた。それなのに彼は、無理に笑顔を作って答えた。


「……おれには、陽介しかいないんだもの。陽介のものでしょう?」


 琴線に触れた。心がゾクゾクして止まらない。

 

 ——怖いくせに。


 これからどうなってしまうのかと、不安でたまらないのだろう。伏せられた睫毛が震えている。だが、それでもなお、おれの要求に答えようと必死に堪えている蒼は、煽情的でおれの本能を揺さぶった。


 ——お前が悪い。おれを誘うから。


 情欲に支配されていく自分を制御できそうになかった。いざなわれるように、開かれた首元に口づけを落とすと、蒼が息を吐くのがわかった。

 くびれのない腰を指でなぞり、背中に這わせてから、背骨を一つずつ確認するように触れる。


 ——愛おしい。


 蒼の背中にある傷は母親がつけたものだ。彼女が精神科に入院したきっかけになった事件の時だ。それは、彼女が「この子は私のもの」と言っているかのような存在感。だがそれを撫で上げるたびに、体を震わす蒼を見ていると、彼を支配している気持ちになれた。


「蒼。おれ、きっと止められない。大切過ぎて、ずっと我慢してきたけど。きっと今晩は止められないと思う」


「怖いけど……。おれには陽介しかいないから。いいよ。陽介の好きにして。陽介にだったら、なにをされても構わないから——」


 父もいない。弟もいない。二人だけで、明日の朝までの時間を過ごせることを自覚するだけで。これからの行為を想像するだけで。おれは堪らない恍惚感に溺れる。


 触れれば触れるほど、しがみついてくる彼が堪らなくて、おれのたがは容易に外れた。




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