再会

 覚悟。

 瑠璃は暗い廊下を歩きながら、心の中でそう呟いていた。

 天音に会うには覚悟が必要だった。それもこの世の中でもとてつもなく重い部類だろう。猿渡の様子を見る限りそう思われる。

 大事な決断だったと思う。簡単に返事をしすぎてしまったかと思ったが、それもすぐに消える。不思議と後悔なんて微塵もしていなかったからだ。

 暗い廊下を突き進む。この廊下はなぜか照明がなくて他の場所よりも一層闇が深い。足がすくみそうになる。瑠璃は携帯を取り出し、ライトをつけながら進んだ。それでも闇を見つめているのが怖くて、思わず目線を横にそらした。

 瑠璃の目に襖が映った。

 この家の襖や障子は不思議だ。どこの部屋も必ず何かしらの絵が施されている。客間の障子には白でかすみ草が描かれていたことには先ほど気づいた。この前きた時は天気が悪くて見えなかったが、今日はこの天気だ。外から入り込んだ光によって、小さな花々が淑やかに咲いているのに気づいた時は心が弾んだ。

 天音の部屋を目指し、闇に負けずに瑠璃はまっすぐ進む。奥の部屋が見え始めてきたとき、ふと横に目をやった。

 あるいは、目を向けさせられたのかもしれない。

 そこにはこれまで見てきたのと同じように絵が描かれた襖があった。けれど、明らかにこれまで見てきたものとは何かが違う。

 白の地を画面の切れ目から覆うように木が生えている。艶のある緑の葉の間を埋めるように鮮やかな赤い花が咲いていた。椿のようにも見えたが、その咲き方には覚えがあった。

 確かこれは、山茶花。植物園に行った時、父がそう言っていた。母も好きな花だったという話を嬉しそうに話していたことを覚えていたからだ。ただ、あの時はこんなに赤い花ではなかった気がする。もっと淡く咲いたピンクの花だった。

 まるで本当にここに咲いているような気がする。手を触れればその美しさが手のひらで味わえるのではないかと錯覚してしまう。これは一体、誰が描いたものなのだろうか。瑠璃は美術に一切の興味がないが、気になって仕方がなかった。

 目を釘付けにされながら絵の前に立ち尽くしていると、ふと画面の下に目がいった。そこには散った花びらが点々と描かれており、少し枯れて花弁の縁が茶色くなった様子まで精緻に写し取られていた。どう見ても普通の画家が描いたものではないと直感的に察した。

 山茶花を前に動けないでいると、次の瞬間視界に光が現れた。瑠璃は反射的にそちらを振り返る。

 振り向いた先は一番奥の部屋。少し開いた襖の隙間から漏れた光の奥から、影が現れる。徐々に顔を出したその姿は光を浴びて明らかになる。

 廊下の闇すら取り込もうとするような黒い髪が、部屋から溢れた光を受けて煌めいた。大きく見開かれた目を彩る長い睫毛はまばたきの度に光を振り撒く。

「...瑠璃?」

 一瞬にして瑠璃の目は山茶花から引き剥がされ、天音の方へ向かっていた。この少年の前では、どんなに美しい絵画も脇役になってしまうのかもしれない。

 瑠璃は携帯のライトを消して山茶花の前から離れ、天音の方へ向かった。

「こんにちは。この前借りた傘を返しに来たの。あ、傘は傘立てに置いてきて、それから挨拶もと思って」

「....うん...」

 その顔はどこか落ち込んでいるようにさえ見えた。瑠璃は焦りを覚える。

「え、えっと天音くん?」

「ごめんね。お父さんに会えなくて」

「え...」

 天音の目が瑠璃の先、暗い廊下に向く。

「猿渡に教えてもらったんだよね、ここの場所」

「う、うん...」

 ガラス玉のような瞳が瑠璃を捉える。思わず目をそらしてしまった。

 綺麗すぎて、見透かされそうな気がしてならなかった。

「電話越しでは話したのに直接会うのは無理だなんて...失礼だし、傲慢だよね。自覚はあるんだ。でも...こうする以外に方法がなくて」

 細く紡がれた言葉の中に確かに重みを感じた。整った唇から溢れるものにしては、相応しくない感情である。

「今日はありがとう。わざわざここまで来てもらって....」

「ううん。私が会いたかったからいいの」

 会話を遮断するように遠くからピーと甲高い音が聞こえた。お湯が沸いたやかんの音だろうか。

「お湯が沸いたみたいだ。そろそろ戻った方がいいんじゃないかな」

 天音に言われて思い出す。確かお茶を用意するのを手伝うという口実で連れ出されたのだった。あまり不在にすると父が不審に思うだろう。

「じゃあ、私はこれで」

「うん。さよなら」

 瑠璃は天音に背を向けた。目の前には暗い廊下が再び現れる。それはやはり心地の良いものではなくて、嫌いだと思った。だからこそ、瑠璃は決断を後悔しなかった。

 振り返り、襖の前に佇む少年の名前を呼んだ。

「天音くん」

 彼に伝えておいた方が良いことは多分それなりにあったのだろう。猿渡から言われたこと、聞けなかったこと、自分の覚悟。

 でも、そのどれをとっても、彼に伝えたい言葉にはならなかった。

「また遊びにくるね。傘を返しに来た時も、そうじゃないときにも。だから...」

瑠璃は手をあげてひらひらと振って見せた。

「またね!」

 天音の瞳がわずかに滲んでいるように見えたのは、気のせいだったのだろう。


 次の雨が待ち遠しかった。けれど同時にとても遠ざけたいと思っていた。

 雨が降って彼女が雨宿りをしに来てしまえば今度こそ彼女とこの場所を繋ぐ理由がなくなる。それがなくなれば今まで通りの生活に戻るだけだった。ただほんの少しだけ、受け入れたくなかっただけである。

 しかし、彼女はやってきた。雲ひとつない空の日に雨宿りをしにきたのだ。

 傘を返しにきたという彼女はこの前見せたような柔らかい笑顔を浮かべていた。暗い廊下の中でもその笑みは確かに存在していた。

 ああ、こんな彼女に自分は何もしてやることができない。わざわざ礼を伝えに休日を返上して会いにきてくれたという父親に会うことすらできやしない自分がつくづく嫌いだ。謝ることしかできない自分が大嫌いだった。

 やかんの甲高い音を合図に別れを告げた。暗闇に消えていく後ろ姿を見つめながら、心に残った纏まらない感情を抑えつけた。

 しかし次の瞬間、彼女から告げられたのは初めて聞く言葉だった。

『またね』

 あれほど本でみかけていたさよなら以外の別れの言葉の意味がやっとわかった。

 それはきっと再会のための言葉だ。

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