約束

「それじゃ、行こうか」

「うん」

 週末。瑠璃と優は久遠邸を訪れようとしていた。

 というのも、先日の正式なお礼をしたかったからだ。瑠璃は先日、久遠邸にて雨宿りをさせてもらった。それだけでなく、傘まで貸していただいたので、今日は父とともに天音に改めて感謝を伝えに行く。

 気持ちのいい晴天に、風に吹かれた木々の重なる音がよく聞こえる。空気も澄み、いい休日である。

 瑠璃と優は雑談をしながら、久遠邸に続く坂道を登り、そしてようやく久遠邸の門の前まで来た。優はやや息がきれていた。日頃の運動不足が垣間見えた。

 瑠璃は息を整える父に構うことなく、久遠の表札の下のインターホンを押した。

 ピンポーンという音が響いたあと、この前とは違ってすぐに玄関が開く音がした。そのあとすぐに、ざっざという砂利をふむ音に切り替わる。

 人の気配が門のすぐ近くまでくると、ガラリと門は開いた。出てきたのは、初老の男性、猿渡であった。

「おや、宮前さんでしたか」

 そう言って猿渡はにこりと笑った。

「こんにちは。あの、実はこの前雨宿りさせてもらったのでそのお礼を改めて言いにきました。あ、あとこれ。傘も貸してもらって、返しにきました」

 瑠璃はそう言って手に持っていた傘を差し出した。

「ええ、天音さんから聞いてますよ。とても災難な日だったそうで、その後風邪などは引かれませんでしたか?」

 差し出された傘を受け取りながら、猿渡は穏やかに聞いた。

「おかげさまで元気です」

 猿渡はにこりと笑い、そうですかと頷いた。

 すると、ここまで黙って二人のやりとりを見ていた優が口を開いた。

「あの、久遠さんはおりますでしょうか。娘がお世話になったので、直接挨拶をしたいのですが...」

 優の発言に、猿渡の顔が強張った。

 まただ、と瑠璃は思った。

 この前も久遠の名が出るたびに、この人の顔から微笑みが消える。しかも、その奥にある感情が読み取れないのだ。何かあることはわかるけれど、その真意が分からない。

 瑠璃は猿渡がどう答えるのかを、じっと待った。

 少しの沈黙の後、猿渡はやっとの思いで口を開いた。

「....少々時間をいただいてもよろしいですか?その、天音さんは少し、人嫌いなところがありますので」

と、笑った。

 それを父は笑顔で了承し、猿渡は家の方へ戻っていった。

 あの短時間でひねり出した言葉としては上出来だと瑠璃は思った。不在だと言えば、また来る可能性があるため言えなかった。『人嫌い』と言えば、人前に出ないことの証明にもなる。本人が望まなかったと言えば、父のことだ、無理強いはしない。この方法ならば、誰も傷つけることはなく、少年を隠すことができるのだ。

 少しして猿渡が戻ってきた。

「待たせてしまい申し訳ありません。立ち話もなんですから、中にお入りください」

 ぎこちない笑顔で、そう言った。


 この前と同じように、絵画の飾られた廊下を抜けて客間に案内された。この前と全く変わらず、美しいままの客間だった。

 瑠璃と優が座ろうとした時、猿渡が言った。

「お茶をご用意いたしますね。ああ、そうだ。瑠璃さん、申し訳ありませんが、お手伝いしていただけませんか?」

 意味ありげに見つめながら、瑠璃に向けて言った。

 突然の出来事に瑠璃はあっけにとられた。

「え、私?」

 猿渡がお願いしますと言うようにこっくりと頷いたので、瑠璃はさっとその場に立った。

「それでは、少々お待ちください」

父ははいと頷いた。

 客間を出てそのまま猿渡に連れられ、台所へ向かう。

 はずだった。

 猿渡は客間から出て少し歩いた角でピタリと足を止め、瑠璃の方を振り返った。

「ここを曲がって一番奥の部屋に天音さんがいます。その、お父様はまだお会いできないらしいのですが、あなたならばと....」

 猿渡が瑠璃を今までに見たことのない強い瞳で見つめた。瑠璃はその強さに圧倒されてなかなか言葉を紡ぐことが出来なかった。

 その姿に見かねたのか、猿渡は視線を落として語り始める。

「お父様には失礼だということも重々承知しています。でも、それでも今は会わせることは出来ないんです」

 苦しそうに、もがくように猿渡が言葉を紡いでいく。

「瑠璃さんは....天音さんを見たときどう思いましたか」

「どう...?」

 猿渡が視線を瑠璃から外した。俯いたその顔に暗い闇が覆う。そこにある表情は、黒に溶けてよく見えない。

「正直に言ってもらって結構です。天音さんを、どう思いましたか」

「それは...」

 天音を見た時。

 雨に打たれ嘆いていたとき、現れたその人の顔を見て自分はどう思ったのか。

「...綺麗だと、思いました」

 この世のものとは思えないほどに整っていて、非の打ち所がないほどに美しい。少し恐いくらいに綺麗だった。

 すると猿渡が顔を上げていつもの微笑を顔に湛える。しかし、それは完璧には作り込めず、苦しそうだった。

「なんとなくわかるでしょう?天音さんが、この家は少しばかり世間とはずれてしまっているんです。だから、お願いします」

 猿渡の顔が鋭く瑠璃を捉えた。

「この家のことを、天音さんのことを誰にも言わないで欲しいんです。何があっても、誰に聞かれても、必ず秘密にしてください」

 猿渡の顔にはこれまでに見たことがないほどの焦りが表れていた。まるで、最悪の終わりを知っているかのようだった。

「こんな言い方が失礼なのは重々承知しております。ですが、敢えて言わせてもらいます。秘密を守れないのであれば、天音さんと...もう二度と会わないでください」

「え...」

 瑠璃の反応に猿渡は苦しそうに、だが深く頷いた。

 正直、瑠璃には猿渡の話は理解しきれなかった。もちろん、天音の美しすぎる容姿が関係しているのはわかる。だが、それだけでこの状況を生み出すとは思えない。

 瑠璃は猿渡をちらと見た。真剣な目をしているが、深く事情を聞いたところで答えてはくれないだろう。瑠璃にしてみても、そんなことはしたくなかった。

 どうすべきなんだろうか。猿渡が持っているような覚悟を持つことができるほど強い自信はない。どうしよう、どうしよう。

 ふと思い出した。

 雨の中、傘もささずに出迎えてくれた人。

 濡れた私を気遣ってくれた人。

 薄萌葱の傘を持っていた手。白くて細い指が震えていた。

 何よりも綺麗な、笑った顔。

 ああ、私はなんて馬鹿なんだろうか。答えはずっと、変わらずにそこにあったのに。

「猿渡さん」

 瑠璃は猿渡の顔を見つめた。その顔には変わらず緊張と覚悟が現れている。

 瑠璃は猿渡の瞳をまっすぐ捉えて言った。

「会います。だって私、言いましたから」

 猿渡の顔に少しだけ驚きが表れた。

「雨が降ったら、またよろしくって。会わないって言ったら私、嘘つくことになっちゃいます」

 そう言った瑠璃の顔には自然に笑みが浮かんでいた。

 瑠璃はそのまま猿渡に礼をして先ほど猿渡が言っていた天音の部屋に向かって歩き始めた。

 

 猿渡はその場に立ち尽くした。

 あの少女、今天音の部屋に向かった少女のことが気になってしょうがないからだ。

 しかしはっとする。客人は彼女だけではない。客間にはその父親がいるのだ。あまりにも長い不在は大人としてあまりにも無礼すぎる。猿渡は急いで台所へ向かった。

 やかんに火をかけ、その場を後にする。猿渡は客間を急いで目指した。

 襖を開けると少女の父親がまじまじと部屋にある掛け軸を見ていた。

「あああ!すみません、まじまじと...」

 慌てて座り直した優に猿渡は優しく微笑みかける。

「いえいえ。構いませんよ。それより申し訳ないのですがお湯を沸かすのを忘れてしまっていて、お茶をお出しすることができないのです」

「ああ、お構いなく。それより、瑠璃は?」

 どきりとした。だが、これくらいの状況は慣れている。

 猿渡は笑顔を一ミリも崩すことなく答えた。

「お手洗いに行きましたよ」

 嘘をつくのにももう痛みは感じない。ずいぶん前にその感覚は手放してしまった。だがそれも全ては天音を守るためである。そのためにならば、どんな障害であっても請け負う覚悟だ。

「天音さん、お会いしたかったです」

 どっと心臓が強く動いた。

 努めて平常心で接する。

「昨日、電話越しにお話したんですけど、何というか...感じのいい人でしたね。瑠璃があんなに言っていたのもわかります」

 優が笑顔のまま言ったその言葉の中に、猿渡は引っかかった。

「瑠璃さんが...言っていた?」

 彼女は何と言ったのだろうか。美しいと、綺麗だったと言ったのだろうか。

 恐る恐る、慎重に聞いた。

「何と....おっしゃっていたのですか...?」

 優は笑みを絶やさぬまま、慈しむように言った。

「優しい人だったと言っていました。ああ、あと同い年だとも言ってましたね」

「そ、そうですか...」

 そう言って客間を出た。

 猿渡は台所を目指して長い廊下を歩いた。その間ずっと先程の優の発言を頭で反芻していた。

 優しい人だったと彼女は言っていたという。父親の言い分ではそれが彼女が天音に対して持った率直な感想であったと考えられる。彼女は美しいとは言わなかったのだろうか。

 正直、彼女が天音に会うと決意したとき絶望感を覚えた。これが引き金になって今まで積み上げてきたものが根本から崩されてしまうのではないかと考えたからだ。

 あくまでも彼女は他人で、事情を知らないからそんな決断ができるのだとそう思った。部外者に何がわかるのだと、心の中の奥底で言葉にもせずにそう思っていた。

 だが、それはもしかしたら違うのかもしれない。我々とも、外の世界の人とも違う唯一の存在なのだろうか。

 廊下を歩いている途中にやかんが勢いよく声をあげた。

 思案にふけっていた猿渡ははっとして歩み始めた。

 早足で歩きながら、さながらやかんの音が合図のようだなと心の中でつぶやいた。

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