第佰陸拾漆話:桶狭間の波紋

 義元らから送られてくる人員で陣を敷き、疲弊した前線を下げて新品の兵を相手にぶつける。実に単純な戦術。されど前線を死に物狂いで押し込み、隘路からようやく脱したと思った織田方は、その光景を前に絶句するしかなかった。

「……と、藤吉郎殿」

「分厚いのォ、今川の壁は」

 無論、今川の兵も完全な新品ではない。敗走した者たちの寄せ集めである。だが、そんな細かなことを敵方である織田が把握することは出来ない。

 彼らにわかるのは、押し込んだ先に真新しい敵陣がある。

 それだけである。

「柴田殿!」

「……ぬう」

 柴田勝家とてただ「掛かれ」と吼えているわけではない。押すべき局面、退くべき局面、その辺りはしっかり見極めている。

 その歴戦の勘が告げる。

 ここはもう押せぬ、と。

 前線を張り続けた精鋭の疲労が蓄積し、もはやまともに組み合えぬ状況。三河武士たちも疲弊しているが、彼らは一度退いて息を入れることが出来る。

 織田はここで退けば、奇跡によって得た勝機を逃すこととなろう。

 組み合うことは難しく、されど退けば地力の差で敗北が確定するだけ。現場の将は難しい判断を求められていた。

 玉砕か、実質的な降伏か。

(よく見れば万全の兵ではない。敗残兵をとにかく並べただけの急ごしらえであろう。が、それで充分じゃ。闘争の肝は如何に相手の心を折るか……やりおるのぉ)

 木下藤吉郎は参ったとばかりに首を振る。さすがは海道一の弓取り、戦の懐が深い。一度の奇跡では覆すことを許してはくれなかった。

 ここに来て地力の差が出たのだ。

「やりましたな、若様」

「ここで松平の旗でも立ててみますか」

「馬鹿者」

 家臣の軽口を笑って受け流しながら、松平元康もまた勝利を確信した。絵図を描いたのは今川義元、直接指揮を取ってここまで持ってきた達成感はあれど、結局のところ己も含め全員が彼の掌の上であった。

 あとは織田の足掻きを受け止め、終局。

 まあ、足掻けるかどうかは織田信長次第、か。ここで足掻き奇跡を追うか、素直に敗北を認め傷を浅く済ますか、将の器量が問われる場面である。

「さて、窮した信長は、どう捌くかな」

 彼らを指揮しているであろう織田信長。彼の判断次第でここからもうひと波乱ある。あと少し、血を流す必要が出てくるだろう。

 どちらにせよ、負けた織田家を生かしておく理由はない。義元ならばすぐに殺さず、しばらく飼い殺しとした後、『病死』とでもするだろう、と元康は考える。

 『病死』は最も角の立たぬ処理方法である。義元の兄も、己が父も、病死であった。まあ、真実は闇の中、誰にもわかりはしない。

 後世に残るは墨の一文のみ。それが歴史である。

「終わりだ、信長」

「見事じゃ、今川義元」

 そう、この時両軍ともに相手の総大将がそこにいる、と当然のように考えていた。織田は義元不在など露知らず、今川は信長不在など欠片も考慮に入れていなかった。互いに家紋の刻まれた旗が立っている。ゆえに疑いはしない。

 だから、

「若様、後方より送られてきた兵ですが、先ほどまでとは様子が」

「どうした?」

「酷く怯えているようで、留めようとしても言うことを聞きません。言っておることも錯乱しており、大殿が討たれた、とか何とか」

「大殿が? はは、ありえぬよ。大殿らと出会うことなく戦場を迷い、ここへ辿り着いたのだろう。気にする必要はない」

 最初は笑い飛ばしていた。天災後の戦場、情報が錯綜することはままある。そういう時は自分たちが落ち着いて、彼らをなだめねばならない。

 慌てず、騒がず、粛々と――全て義元から学んだこと。

「若様、ちょっと、こいつら止まらねえ!」

 若武者の本多平八郎からも悲鳴がこぼれる。少しずつ、少しずつ、今川方が揺れ始めた。明らかに、今までの様子とは異なっていたから。

「若様、これは」

「……ありえん」

 松平元康の顔から笑みが消える。

 それと同時に、

「あ、あれは!」

「織田、木瓜。何故、後方から?」

 木々の隙間から、それが見えた。この場の指揮を任されていた松平元康は見晴らしのいい場所に陣取っていたから、嫌でもそれを見ることとなる。

 織田の旗印。そして――

「……あっ」

 育ての父の、首。

 元康は目も良かった。そのおかげで弓も達者で、よく義元に褒められたことを思い出す。幼少の頃、あの大きな手が自らの頭を包み込み、優しく撫でられた感触を、思い出す。吐き気が、止まらない。それ以上に――

「あ、あああ、あああ!」

 胸が痛い。張り裂けそうなほど、痛む。苦しい、辛い、どうすればこの感情を処理できるのか、少しだけ考えて、

「織田、信長ァ」

 燦然と御旗を掲げ、戦場に現れた男を、睨みつける。

 天地が引っ繰り返ったとばかりに動揺する今川軍。厄介者の三河武士たちでさえ、その光景には絶句するしかなかった。

 妖術でもかけられたか、そんな素っ頓狂なことを考える。

 何せ後方から、敵軍総大将が自軍の総大将の首を掲げ、颯爽と現れたのだ。

 それを飲み込め、と言う方が酷であろう。

「若様!」

 腹心、酒井の声が元康の耳朶を打つ。

 だが、

(寡兵だ。混乱している兵を立て直し、がっぷり四つに組めば戦える。勝てる。良いだろう、その勝ち誇った首、この松平元康が刎ね飛ばしてくれる!)

 それは今の元康には届かなかった。

 怒りが彼を支配している。元々、人質と言う立場、氏真の嫉妬、何よりも義元よりそう振舞うことを躾けられたからこそ、落ち着きのある若者となったが、根っこは他の三河武士と大差ない。血気盛んで、闘争を求める血統であるのだ。

 この戦場、初めから戦力的には今川の方が上。多少縮められた。挟撃の態勢でもある。相手の士気も上がるだろう。それでも戦える。

 自分ならば勝って見せる。

 ここから示すのだ。

(『父上』、俺に、敵を討つ力を!)

「若様!」

 『父』、義元より学んだ――戦を。

 受け継いだ元の字に懸けて。

 誰の言葉も耳に入らぬほどの怒りは、


『落ち着きなさい』


 聞こえるはずのない声が届き、

『そなたの悪い癖です。頭に血が上りやすい。気性は人それぞれ、されど不要な感情を抑え、自らを律し操る術は上に立つ者には必須です』

「……」

『頭を冷やし、今すべきことを考えなさい』

 松平元康は唇を噛み、滲む鉄の味を自らに刻みながら、

『そなたなら、出来る』

 苛烈極まる怒りを、他ならぬ義元にかけられた期待から、抑え込んだ。

(兵力で勝れども、総大将の有無は大きい。父上、いや、大殿が動き回る役を買って出たのも、私では三河武士以外の心を動かす力がないからだ。駿河、遠江、今川の軍勢を操るには、今の私では説得力が足りない)

 怒りで震える身体を、かっかと熱を持つ頭を、何とか制御して思考する。今この場における最善手は何か、を。

 感情を抑え、正しき道を。

 きっと今川義元ならば、そうするだろうから。

(今、私がすべきことは――)

 大きく息を吸い、大きく息を吐く。

 そして、

「戦列維持」

「若様!」

「織田へ使者を出し、話し合いを行う。その後、交渉の結果如何にかかわらず、軍を解き撤退する」

「っ⁉」

「虚勢でも張らぬよりマシだ。皆に通達せよ。使者は私が出向く」

「……承知致しました」

 今すべきことを、最善と思う行動を選び、命ずる。

 錯覚かもしれないが、『父』が微笑んだ気が、した。


 その後、松平元康が直接敵軍総大将、織田信長の下へ馳せ参じる。彼はこの場の降伏及び、尾張からの撤退を条件に、今川義元の遺体を要求した。

「首は渡せぬ」

「ならば、せめて身体だけでも」

「……激戦であった。損傷は激しいが、それでも良いか?」

「構いませぬ」

 首は織田が、身体は今川が回収する。ただし、遺体の損傷が激しく、駿河まで輸送適わぬと判断した元康らが三河の地で葬ることとなる。

 それが現当主今川氏真の怒りを買うこととなるのだが、それはまた別の話。

 そして、もう一つ重要な案件として、

「松平家の独立? すぐにか」

「はい。その折にはぜひ、両家の親善を行いたいと思いまする」

「……薄情だな。いや、なるほど、弓取りへの忠義か」

「ただ、薄情者なだけにございます」

「そう言うしかあるまいな。よかろう、今後ともよろしく頼むぞ。三河国主、松平蔵人佐殿。長く、良き関係と成ることを願う」

「こちらこそよろしくお願いいたします」

 この場で元康は三河にて独立することを宣言。傍目には独断、今川家への裏切り行為に見えるが、信長はその真意をしかと読み取った。

 当主を譲ったとはいえ、実質的な当主は北条と同様、義元であった。大黒柱である彼を失った今、織田や周辺諸国からすると今川を切り崩す絶好の機会である。が、そこで松平家が独立、当主の元康が織田家と仲良くすることで、織田が三河を跨ぎ遠江や駿河へ侵攻出来ぬよう、壁となるつもりであったのだ。

 しかもかつて、随分前の話だが織田も松平家保護の名目で元康を預かっていた時代がある。すぐさま人質交換で駿府へ送り出す羽目となったが、その時は今川家同様三河を支配するための道具として使うつもりであった。

 元康が大きくなるまでは織田が三河を預かる。いずれは返す、と言う建前の下、成長し切る前に実効支配する。その建前が今回、反対する大義を失わせていた。

 今、信長がそれに反対するということは、かつて元康を、竹千代を預かった時に三河を奪うつもりであった、と明言するに等しいのだ。

 業腹だが、これは通さねばならない。

 織田も、そして今川も。

 これが松平元康、熟慮の末に出した最善手、であった。


「松平、か。大したものよなぁ」

 木下藤吉郎は若き武士を遠目に称賛を口にする。誰一人、本隊に義元がいないとは気づかなかった。姿は見えずともこれだけ手強いのだ、当然義元が、海道一の弓取りが率いているに違いない。そう信じ込まされていた。

 してやられた、現場の将兵は兜を脱ぐしかない。

 信長が義元を討たねば、どう足掻いても負かされていたのだから。

「藤吉郎殿もよく声を張られて、頼りになっておりましたぞ」

「格が違うわい。今は、の」

 織田信長の常軌を逸した判断が義元を討つ、唯一の勝ち筋へ織田を導いた。松平元康の若き力が、織田に押し切ることをさせなかった。

 どちらも今の藤吉郎からすれば圧倒的な格上。天と地の差がある。才覚で劣るとは思わない。同じ立場なら戦える、と思う。

 ただ、己が其処に辿り着くためには――

「小一郎殿」

「何ですか?」

「木下姓を名乗る気はないか?」

「へ?」

「家族がいる。一門がいる。少しでも、きちんとした家に見せねば、出世もままならぬ。ゆっくりしておっては時代の流れ、乗り遅れるわい」

 こうして今川の支配下で得た木下姓は、尾張の中村にある小一郎らの家人を取り込み、一応尾張に根差した家となった。

 ついでに家系図もちょちょいと弄ったそうな。

 経歴も、家族も、全て噓で塗り固めた男はこの桶狭間でも少しずつ頭角を現し、もう一人の麒麟と共に織田家の双翼と成る。

 今はまだ、ただの足軽組頭でしかないが。


     ○


 駿河、駿府にて今川義元討ち死にの報せが入った。

 まさに、国が揺れるほどの大事である。実の息子である氏真は衝撃のあまりしばらく言葉を失っていたほどであった。

「……父上の、亡骸は?」

「松平殿が交渉の末、取り戻してくださったのですが、損傷著しく三河の地で葬りました。そこには私心はなかったものと、思われ、ます」

「本当か?」

 氏真の目を見て、家臣は息を呑む。決してこの男、凡俗ではない。武芸に秀で、教養もあり、父同様公家連中とも親交が深く、今川家の要として充分な才覚と器量を持つ。だが、こと元康が絡むと、少しばかり偏るのだ。

 父への愛がそうさせるのだろう。

「松平殿の岡崎城への帰還及び独立に関しましては、書状の通りです。あれが無ければ今頃、織田が勢いに任せ攻め寄せてきた可能性もあります」

「わかっておる。それは認めた。私は、認めている。そも、父の遺言にも、敗北した場合はそうせよ、と書かれていた。あやつは、正しい」

 辞世の句と共に残されていた遺言。自身が敗れた場合、氏真がすべきことの中に元康に三河を譲り、織田家侵攻の盾とせよ、とあった。

 文脈は今川家のため。されど、氏真はそこに隠し切れぬ情を見る。

 父は竹千代を可愛がっていた。実子を物足りなく思う一方で、血の繋がりのない才溢れる子を溺愛していた。義元は努めて平等に接してきたのだが、実子と他家の子が平等と言う時点で、氏真からすれば偏重しているようにしか見えない。

 その部分がまた、父の評価を下げていたのだろうが。

 武芸で元康に劣ったことはない。兵法とて、負けはしない。教養も氏真は教える側であって、彼から学んだことは一度もない。翻って、常に勝り続けていた。

 あらゆる面で、明確に劣っている点はないはずなのに。

 父は元康に期待を寄せていた。

 こんなにも自分は頑張っているのに――

「御屋形様! 吉報にございます!」

「なんぞ?」

「鳴海城に残り、ただお一人徹底抗戦を続けていた岡部殿に織田方が根負けし、開城を条件に大殿の首を取り戻したと、報せがありました!」

「おお! 五郎兵衛か。さすがの武勇よな!」

 今川家家臣、岡部五郎兵衛元信。今川家の重臣であり、武勇に優れ氏真とも親しく、今川家に厚い忠義を持っている男であった。敗北を良しとせず、鳴海城に籠っていたと聞いてはいたが、まさか首を取り戻すとは誰も思っていなかったのだ。

 これには氏真も歓喜する。

 何せ、それは元康には出来なかったことであるから。

 身体は三河へ、元康にくれてやる。

 だが、首は駿河へ、己が得る。

 歪んだ優越感、歪んだ愛増が、少しずつ今川家と松平家の溝を作ることとなるのだが、それはまだ先のお話。


     ○


 海道一の弓取り、今川義元が織田信長に討たれた。

 その報せは瞬く間に全国へ広がった。

 尾張の雄、織田信長を知る者は多くなくとも、三国の王である今川義元を知らぬ武士はいない。まさか敗れるとは、誰もがそう思った。

 一躍、弓取りを討った信長の名は全国区となった。

 あの今川義元を討った男。これからしばらく彼はそう見られることであろう。文句なしの大金星、世の中は織田信長を知る。

 そして、近隣諸国は否応なく東国に輝く巨星が散ったことで、動乱を迎えようとしていた。崩れぬはずの三国同盟、其処にひびが入る。

 武田も、

「こりゃあ、やべえぞ」

 北条も、

「至急、諸侯へ文を送れ! 『あちら』へなびく前に!」

 大いに揺らぐ。

 強国三つが絡み合うからこそ、それは強力無比な抑止力と成っていたのだ。どこかに手を出せば、他二国からの援軍が来るかもしれない。

 三国全てを相手取らねばならない、可能性があるだけで普通の国は動けない。普通じゃない国は動いていたが、それも何だかんだと跳ね返されていた。

 それらは全て、甲相駿三国同盟があってこそ。

 それが揺らいだ今、

「あれが動くぞ!」

 大義を得た怪物が立ち止まる理由すら、消えた。

「……くく、ぶはは、ぶは、くひ、くひゃ」

 怪物は笑う。大いに笑った。今川義元が敗れた。己が動けぬ理由の一つが、勝手に消えてくれたのだ。己が大義を得て、まだ少ししか経っていないのに。

 もう、動き出す好機が訪れた。

 まるで神様が、戦いなさいと導いているかのような安易さ。下手な筋書きである。これで作為がないなど、誰が信じられようか。

 都合がいい。

 もう、全てを失い戦うしかなくなった男が、

「ひゃは、ひひ、ぶひゃはははは!」

 戦う理由を得てしまった。

 世は戦国、隙を見せた方が悪い。

 恨むなら、天を恨め。

「嗚呼、くひ、わかった。もう、充分だ」

 越後の龍、長尾景虎は荒れ果てた自室の中央で座していた。その周囲には太刀が無数に床へと突き立ち、障子や臥間はズタズタに引き裂かれている。モノも散乱し、愛する者へ送るはずだった琵琶も、原形を留めぬほどに破壊し尽くされていた。

 部屋に充満するは――怒り。

「俺に戦えと、天は申すか。よかろう。どうせやることはそれしかないのだ。出来ることもそれだけだ。天より与えられた我が才、存分に振るおうぞ」

 怪物は嗤う。

「もう、俺は止まらん。全部だ。目につくもの全部、ぶち壊してやる。それが望みなのだろう? 何せ、よりにもよってこの俺に、戦う道を示したのだから」

 太刀を握り、木造りの御仏、その首を刎ねた。

「後悔するなよ」

 誰もいない虚空へ、天へと語りかけながら、景虎は刎ね飛ばした御仏の首を踏みつける。長慶の言っていた作為、神の存在を十二分に感じた。

 それが真実であろうが、錯覚であろうが、もうどうでもいい。

「世界よ慄け。『俺』が通るぞ」

 今の長尾景虎に立ち止まる理由はもう、存在しないのだから。

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