第佰弐拾弐話:比叡山、再び

 洛中へ入る前に、長尾景虎はとある場所を訪れていた。そもそもこの旅の建前は物詣、寺社を参拝することにある。目的は朝廷、帝から何かしらの御言葉を、それに準ずる何かを賜ることであるが、それを表向きの理由にすると下品に見えるため、あえて物詣を理由にしていた。もちろん、それ自体意味ある行動であるが。

 そうなると避けては通れぬ大勢力がある。

 京の北を守護する比叡山、延暦寺。二度の焼き討ちにより今でこそ規模は縮小したが最盛期には比叡山の中に三千の寺社があったと記録が残っている。

 もちろん、今でも巨大勢力であり、三塔十六谷と称される区域には百五十を超える堂塔が軒を連ねる大所帯でもあった。

 その集合体こそが延暦寺、なのである。

「これが延暦寺、か」

「……!」

「ああ、デカいな。それに随分と物々しい」

 琵琶湖の水運を牛耳り、多過ぎる関所から銭を巻き上げ膨れ上がった寺社、延暦寺。その大きさと、彼らの持つ権力とは別の実行力を見て、越後勢は顔をしかめていた。寺社が武力を持つのは珍しいことではないが、延暦寺のそれは明らかに過剰であった。境内を歩くだけでも至る所に僧侶らしからぬ者たちが目に入る。

 武士くずれ、野盗くずれ、とにかく品性に欠ける。

「……嫌な雰囲気」

「昼間はまだマシだ」

「……とら?」

 梅太郎こと千葉梅は景虎の顔を見て、眉をひそめる。平静に見えるが、眼の奥は何かが渦巻いている。尋常ではない、何かが。

「こちらです。長尾殿」

「承知した。大熊ついて参れ。甘粕もだ」

「「はっ」」

 大熊は自らの職務である財務官僚として、甘粕は荷物持ちとして付き従う。これより延暦寺の高僧と会い、何だかんだした後に銭を寄進するのだ。

 だからこそ延暦寺は彼らを客人として招き入れ、厚遇する。いわばスポンサーのようなもの。景虎としても名高き寺社に寄進した、と言う信仰心を方々に示すことが出来るため、メリットは大きい。まあ、これをメリットと皆が感じるからこそ、寺社の力は強く、銭も集まり巨大な勢力と化していくのだが。

 此度、景虎の目的の一つはこのように銭をばらまくことでもある。

 かつて父がそうしたように、食糧の生産量こそ少ないが交易により富を得る越後の王道を景虎も征く。金で権威を買う、である。

 物詣をする上で大事なのは、如何に品良く銭をばらまけるか、ここに尽きる。


     ○


 貢物を終え、よしなに、となったところで長尾景虎は下山を開始する。夜まで待たれては、と意味深な誘いがあったものの丁重に断り、帰路に琵琶湖を渡るため、その時は便宜を図って欲しい、と伝えてその場は解散となった。

 何が始まるかなど、かつての自分が見ている。

 皆で胸糞悪い光景を共有する、などと言う露悪的な趣味は景虎に無い。いや、そこで皆が反感を覚えるならば良いのだ。

 だが、その狂気に呼応し、飲まれた家臣を、景虎はきっと重用できない。差別してしまうだろう。そうならぬためにも、さっさと去った方が良い。

 誰にとっても――

「……何故、境内にこんなにも女が」

 柿崎の疑問に斎藤も、

「……!」

 確かに、と相槌を打つ。それを後ろで聞く甘粕らも少し気になっていた。僧兵と言う名のあらくれ者も目立つが、その陰で明らかに女の数が多い。

 少し、多過ぎるような――

「大熊殿は何かご存じか?」

「……噂程度には」

「ほう。何やら理由ありげですな」

 柿崎としてはちょっとした世間話のつもりであったが、大熊の濁したような言い方に話題を避けることとした。見れば見るほどに異様である。

 どこからともなく香る、女の匂い。

「……とら、何か視線が。あの小屋から」

「……そうだな」

 一行を見つめる眼、眼、眼、それなりの武士が気付かぬわけがない。殺気ではない、害意でもない、敵意は、少し近いか――

「……」

「女の匂いがあそこから……たくさんいる? 馬鹿な、ここは寺社だぞ」

「女郎小屋だ。延暦寺は僧侶ではなく、戒律に縛られぬ僧兵のためにそれがある、と畿内の者から聞いたことがある。まあ、あくまで建前なのだろうがな。僧侶とて寄進されたものなら肉も食う。女も、抱く。ただの人間だ」

「……まさ、か」

「……」

 延暦寺の裏の顔、それが垣間見えたことで皆は絶句する。坊主が聖人と思っている者はいない。彼らにも欲があり、普段それを抑えつけているから、彼らは僧侶を立派な人物だと考え、敬っているのだ。それなのにここは――

「生臭い」

 あまりにも生臭い匂いが、漂い過ぎている。

「おおい、何見てんだぁ」

「おい、よせ」

「いいだろ、別に。俺らは延暦寺だぞ? 武士がなんぼのものだよ」

 一行が立ち止まっていると、女郎小屋の見張りか何かの僧兵がこちらへ近づいてきていた。昼間から酒を飲み、酔っている。

 僧兵に戒律は関係ない。それにしても、これでは、

「夜まで待てば、好きなだけ――」

「ここの古株はいくつだ?」

 そんな酒臭い僧兵を相手に、景虎が突然問いかける。

「はァ?」

「どれぐらいの歳の者がおる、と聞いている」

「んなもん、まちまちだ。ただ、十年もここにいる奴はいねえよ。大体体調を崩して死ぬか、別の場所に売られるか、何にせよここにゃ娯楽が少ない。俺らが飽きないように坊さんたちが色々してくれんのさ。いいとこだろ?」

「十年、そうか。体調を崩して死んだ者は、どうなる?」

「変なことを聞く男だな。そりゃあ、あれだ。不浄なものだからお山の中には置いとけねえし、お山の外でまとめて埋めるだろ。放置すると病気も移るしな。特に西から来た唐瘡は怖い。色男ほど移るって専らの噂さ」

「そうか。埋めた場所は何処にある?」

「知らねえよ。わけわからん男だなぁ。麓の町のやつにでも聞け」

「そうしよう。あと――」

 景虎はおもむろに僧兵の顔面を裏拳で殴りつけた。鼻が潰れ、顔が陥没するほどの威力で。ぶっ飛んだ僧兵は、そのまま地面でびくり、びくりと跳ねる。

「御屋形様!」

「――この俺に酒臭い息を吹きかけるな、阿呆が」

 山門の中で何を、と止めようとした家臣の言葉が詰まる。その顔の、あまりの冷たさに声が出なかったのだ。

「わ、我々は延暦寺だぞ!」

「俺は長尾弾正少弼景虎だァ」

 口答えしてきた僧兵に対し、景虎はただ冷たく見下ろす。僧兵は蛇に睨まれる蛙の如く、身動きが取れなくなる。この男、延暦寺の名に微塵も臆していない。不興を買えば、そこに倒れる同僚と同じ末路を辿ることになるだろう。

 それが何も言われずとも理解出来た。

「ぬしら、いくらで雇われておる?」

「は、はい?」

「ああ、良い。坊主に聞く。朝秀ェ、ちと戻って兵を一人無礼打ちした旨を伝え、この男に支払った分を聞いた上で、言い値で払ってやれ」

「……承知」

「さて、なかなか興味深いのぉ。坊主どもはぬしらをいったいいくらで値付けするのか。くく、精々少しでも高くなるよう祈っておれ」

 景虎は僧兵に笑いかける。

「坊主の出した値段が、ぬしら僧兵が命の値段ゆえ、なァ」

 ゲラゲラ笑いながら景虎は悠々と下山していく。彼は知っているのだ。延暦寺にとって僧兵など、そこで飼われている女たちとさほど変わりがないことを。どちらも替えの利く消耗品、曲がりなりにも一国の国主相手に延暦寺がこの程度の損失で事を荒立てるわけがない。何せ、先ほど大金を寄進した上客である。

 息絶えた僧兵を尻目に、景虎の笑い声が境内に轟いていた。その一部始終を物陰から女たちが覗いていたが、そこに何を想ったかはわからない。

「まあ、僧侶ならばいざ知らず、僧兵はなぁ」

「御屋形様は守護と同格であろう? なら、行く手を遮った方が悪い」

「確かに。延暦寺は兵の教育がなっておらぬな」

「たかが僧兵、大事には至らぬだろうさ」

 越後勢もまた御屋形様の振舞いを是として、その行動に何の疑問も抱かず追従する。酔っていたとはいえ、あの態度はない。武士の道理を通せば、無礼打ちは当然。

 越後で景虎がそれをしたことは記憶にないが、そんなものだろうと彼らは思う。知らない方が悪い。身なりを見てへりくだらぬから死ぬ。

 彼らから見れば僧兵の命などそんなもの。そしてそれは僧兵から見た女の命とさして違いはない。結局のところ、人の命に格差はある。

 人が、社会が、格差を創ったのだ。


 その後、大熊朝秀が僧侶に無礼打ちの旨を伝えたが、彼らは銭を受け取ることすらしなかった。むしろ非礼を侘びてきたほどである。

 内心はどうあれ、さしもの延暦寺も僧兵一人のために無駄な労力を割く気も、敵を作る気もなかったのだ。寄進された額からすれば僧兵など百人死んでもお釣りがくる。そんな上客の機嫌を損ねたのであれば、彼らからしても死んで当然。

 それが彼らの、命の値段であった。


     ○


 延暦寺の門前町で一泊した越後勢であったが、翌日の早朝、景虎は一人町の郊外、誰もいないところにひっそりと置かれた石の前に立っていた。何度も掘られ、埋めてを繰り返しているのだろう。得も言われぬ瘴気が漂っていた。

「……とら」

「空気を読め。お忍びだぞ、梅太郎」

「見てないと、消えそうだったから」

「ぶは、阿呆が」

 墓石と呼ぶには簡素。誰の名も刻まれていない小さな石ころは、目印にしかなっていない。誰もここを墓地とは思わぬだろう。

 まあ、地元の者は絶対に近づかぬ場所だが。

「あそこに行ったことがあったの?」

「昔、一度な」

「前も暴力を振るった?」

「そのような立場ではなかった。何も出来ず、身を削る者たちを見ただけ、知っただけ。今回もそうだ。僧兵一人、殺したところで何になる?」

「たぶん、女は楽しむ。ああいう人は嫌われていただろうし、それが胸のすく見世物として散ったなら、しばらくはその話で、苦しいことを忘れられる」

「……女は強いな」

「でも、しばらくして、虚しくなるけれど」

「そうか」

 景虎は彼女たちに手を合わせた。手を合わせる行為に意味がないと思っても、いざ彼女たちを前にするとそれ以外の所作をする気になれなかった。

 結局己もまた、囚われているのだ。

「名も知らぬ女だ。ここにおるかもわからん。そもそも暗がりで顔も良く見えなかったしな。器量が良ければ、貰われることもあったのかもしれん」

「うん」

「だのに何故か、俺はここにおる。上辺しか信仰しておらぬ俺が、手を合わせておる。くく、滑稽だと思わんか?」

「思わない」

「……そうか」

 それきり二人は黙り込み、ただただ手を合わせていた。こんな行為には何の意味もない。彼女たちは既に土に還り、この世にはいないのだ。

 言葉も行為も届きはしない。

「戻るか」

「うん」

 ここにいる者を景虎は知らない。景虎が知る者がここにいるかもわからない。それでも彼は彼女たちを想い、珍しく祈った。

 ただ、祈る。

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