第捌拾参話:河越夜戦
物事は常に積み重ねなのだと、かつて軟弱で、卑屈で、愚かであった男は思う。羨み、蔑み、見上げるばかりでは何も変わらない。劣ることが悔しくて、負けたくなくて、そのために必要なことを考えて積み重ねた。
日々、歩みを止めずに積み続ける。
自分の実力も、国力も、民から兵からの信頼も、そう。祖父が、父が、そして自分が積み上げて来たからこそ、将兵はこうして付き従ってくれた。
出来ると信じてくれた。
だから、今日を迎えることが出来たのだ。
「皆、よく我慢してくれた」
「…………」
「今、全ての目が南へ向いていることだろう。府中での決戦、長き、長過ぎた戦いの決着。彼らは今、安堵しているはず。ようやく終わる、と」
「…………」
「そう、終わるのだ。我ら北条の勝利で」
「…………」
「今、決着の時。全軍、出陣せよ。我に続け」
誰も言葉を発することはない。彼らは皆、かがり火の一つもつけずにただ主君の背中を追う。具足を捨て、闇に紛れ、静かに、着実に歩を進める。
心の中に炎をたぎらせて。
連合軍の見張りは河越城を見つめている。それ以外の方向など見ようともしない。それすら欠伸混じり、櫓の上で寝ている者もいるほどである。
それも仕方なきこと、人は緊張の糸を張り続けることなど出来ない。
「くぁ」
もうすぐ日が昇る。
この時間が最も気の緩む時間であろう。あと少しで朝が来る。あと少しで戦争が終わる。あと少しで家に帰ることが出来る。
油断、慢心、そして睡魔。
さあ、すべての条件は整った。
「総員、突撃」
「…………」
兵の数はそれほど多くない。それでもこの一手は、必殺の一撃となる。
何せ彼らは今、
「……え?」
連合軍を率いる三家が一角、扇谷上杉の本陣に到達したから。
「もう遅い」
「て、てき――」
見張りの喉笛を槍で貫く。
「さあ、勝つぞ」
闇に紛れて、音も無く北条氏康率いる『本隊』が、敵の急所を突く。
「殺せ」
「応ッ!」
押し黙っていた者たちが咆哮を上げ、敵陣に殺到する。ずっと我慢していたのだ。ずっと堪えてきたのだ。この時を、待ちわびながら。
逆襲の時を、心待ちにしながら。
「何処だァ! 上杉朝定ァ!」
相模の獅子、吼える。
○
河越城の北に布陣していた上杉朝定は油断していた。それもそうであろう。敵は府中、南に位置していて、そちら側にはまず山内上杉の陣があるのだ。扇谷の陣が真逆、これで警戒しろと言う方が難しい。
だからこそ彼はぐっすり眠っていた。本当ならば自分も府中へ赴き、氏康の首を扇谷の手で取りたかったが、連合軍の本隊である包囲側に、まとめ役を欠くのはありえないとして、朝定も憲政もこちらに残っていた。
あとは勝手に勝利してくれるだろう。そう思っていたのだ。
「敵襲ッ!」
だから最初は夢かと思っていた。夢でなければありえない。この声が今、北側に布陣する自分たちの耳に届くわけがないから。
天地が引っ繰り返らねば、北条の牙がここに届くことはない。
「殿、お逃げ下さい!」
「なんじゃ、まだ日も昇っておらぬではないか」
「夜襲です! この本陣が、何者かに襲撃されました!」
「馬鹿なことを、そのようなこと、ありえん」
「事実です!」
しかし徐々に、多くの悲鳴がそこかしこで巻き起こり始めた。さすがに朝定もおかしいと、しかと目を覚ます。
「河越城は?」
「そちらの見張りは異常なし、と」
「であれば何か、我が方の包囲の外から敵がやって来たと申すか! 周辺の城は我らがしっかり押さえておる。そんな道、何処にも――」
そう言いながら、朝定はかすかに思う。
本当にそうか、と。
確かに河越城の周辺は、ほぼ全てが連合軍側である。開戦当初はしっかり念押しもした。しかし、冬が明けてからは特に何の話もしていない。
もし、そこで何らかの調略を受けていたとしたら、
「ま、さか」
長引く戦、蔓延する厭戦感。それは決して、包囲している軍にだけ広がっているものではない。むしろ周辺の城や領民こそが、その機運に飲まれていたとしても不思議ではないのだ。しかも、北条は元々民草からの評判はいい。
出来ないと決めつけられるか、ここまでの道筋を切り拓くことを。そのために冬を乗り越え、城主たちをたらし込み、領民たちの伝手を使って、大迂回する。連合軍の意識の外側、大外から扇谷の本陣への夜襲。上杉領からの、急襲。
もし、そうであったとすれば、そんなことが出来るのは一人しかいない。よしんばあの男よりも優秀な者がいたとしても、話を通すには格がいる。ならば、やはり彼なのだろう。北条の当主直々に、直接、乗り込んできた。
つまり、府中の本隊は――
「氏康ゥ!」
目くらまし。そこに、北条氏康はいなかったのだ。
○
扇谷の陣、そちらから火が昇った瞬間――
「全軍出陣ッ!」
「応ッ!」
河越城からも総勢三千の兵、全てが一気に出撃する。その音で、他の陣の者たちが異変に気付いたほどである。一気呵成に、全速力で彼らは城から出た後、北へ向かう。夜襲を仕掛けた『本隊』の援護に回るためである。
加えて、扇谷の勢力が後退し、他の陣営と合流するのを防ぐ蓋の役目も買って出る。この動きを彼らは何の打ち合わせも無しに、相手への信頼だけでやってのけたのだ。氏康ならばこの機で動く。綱成ならば、ここで呼応してくれる。
反目し、いがみ合い、高め合い、彼らは血よりも濃い絆を得た。
その絆が今、二つの牙と成る。
「勝った勝った勝った勝った勝ったァ!」
「地黄八幡、北条綱成ェ⁉」
「勝ったァ!」
迅速なる用兵術、完全に状況を読み切った北条綱成もまた、扇谷の陣に喰らいついた。あまりにも早く、そしてこの男、
「勝った勝った勝った勝った勝った勝った勝った勝った勝った」
「ひィ⁉」
あまりにも強い。
北条五色備が一角、『黄備』率いるは北条最強の猛将、北条綱成。ここまで沈黙を続けてきた。総大将としての役割を果たすために動かなかった最強が、とうとう動いた。黄備の面々も個々として確かに優秀な人材ばかりだが、綱成を先頭とした時の彼らはもはや別の生き物であろう。主の勝ったという言葉を復唱し、
戦場に満ちるは勝利の凱歌。
当たれば勝つ。当たらずとも勝つ。
「逃げろォ!」
「勝ったァ!」
槍を振るい、返り血を浴びながら北条綱成は獰猛な笑みを浮かべていた。やはり自分は城で籠るよりも、野戦の方が好みである。
我慢した分、ここで全てを吐き出す。
○
さすがに河越城に異変があれば、皆何事かと起き出す。だが、まだ日も昇らぬ状況では細かな戦況の確認など出来ない。加えて元は八万の大所帯、三万を南に割いたとはいえ、戦域自体が広過ぎるのだ。闇夜では何もわからない。
伝わってこない。
「殿!」
「う、ううむ。長野か、どうしたのだ、血相を変えて」
「河越城の戦力が扇谷の陣を急襲した模様。如何いたしましょうか」
「まことか? すぐに我らも応援に赴かねば」
「すぐに支度をさせましょう」
主君の命を受け、長野業正は迅速に動こうとする。
だが、
「なりませぬぞ、殿」
その足は、
「折角、伊勢の連中が扇谷を削ってくれると言うのです」
山内に巣くう狸共によって、
「ここは日が昇るまでは静観し、状況を確認した後動けばよろしかろう。なに、河越城の戦力はせいぜい三千にも満たぬもの。破れかぶれでぶつかろうとも、戦力差がありますれば最終的には扇谷が勝つことでしょう」
引っ張られることとなった。
「各々方、相手はここまで堪えてきた者たちです。必ず、何か策があってのこと。万が一もあってはならぬ局面でございます。どうか、応援に――」
「ならぬ。そうでございましょう、殿」
狸共の眼に射すくめられ、上杉憲政は眼を泳がせる。それを見て長野業正は唇を噛んだ。ここは締めてかかるべきところであろうに、この者たちは勝負事を何も理解していない。ただ己の保身と、権力にたかることだけに特化した者共である。
「控えろ、長野。昨今のぬしは少々、出過ぎておる」
「……申し訳、ございません」
長野業正は頭を下げ、謝罪する。所詮は成り上がりの辛さ、ここ一番での力がない。もう少し、もう少しだけ時間があれば、憲政を盛り立て、我を通すことも出来ただろうに。まだ、業正の力は巨大権力である山内の中では足りなかった。
これもまた明暗を分けた分岐点であろう。
○
山内上杉と同じ判断をした陣営は少なくなかった。そもそもが烏合の衆、出来れば自戦力を温存したい状況で、わざわざ状況もわからぬ戦場へ首を突っ込む者などいない。せめて日が昇らねば、と多くの陣営がそう考えていた。
そもそも、夜襲であろうが何だろうが、扇谷の陣営が負けるなどとは誰も思っていなかったのだ。ここが集団心理の怖い所である。
誰かがやるだろう。扇谷が勝つだろう。
だから、動かなくてもよかろう。
とにかく今は夜明けを待つ。そして状況を確認する。おそらく、夜明けには扇谷によって勝敗が決しているだろう。
そんなだろう、を各陣営が浮かべていた。
○
そして、ここにももう一つ、『本隊』の動きと呼応して動き出した戦力があった。府中に構える七千の本隊、である。率いるは北条氏康に扮した北条治部少輔綱高が、全軍に号令を出す。七千による夜襲で、三万にぶつける。
『本隊』を、綱成を、信じていなければ出来ない芸当。
「さあ、我らも勝つぞォ!」
「応ッ!」
三つ目の牙が、連合軍に突き立った。
全てを連動させ、北条は今、天地を引っ繰り返さんとす。
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