第漆拾捌話:包囲する者、される者

 八万の大軍勢が集えば圧勝して終わり、そう高を括っていた者も少なくはない。何しろ、名の知れた大名でも総動員して一万、数千でも充分立派、そういう世界である。八万ともなればこういった多くの家が垣根を超え馳せ参じる、一種のお祭り騒ぎでしかありえなかったのだ。こんな大戦力、中々お目にかかれない。

 実際にこの場のほとんどが八万の軍勢の中に身を置き、少し浮かれていた節があった。絶対に勝てる、負ける道理がない、北条は終わりだ。

 大抵の者がそう思っていた。

 だからこそ緒戦の勢いは苛烈で、誰もが血眼になって武功を上げるため、我先にと河越城へ駆け上がろうとしていたのだ。

 だが、北条は緒戦をしのいだ。

 根気強く敵を弾き返し、揺らがぬ姿勢を示し続けた。

 特に笠原康勝率いる白備は城の至る所に顔を出し、崩れそうなところをしっかり守り、河越城の敷居の高さを関東諸侯に示した。

 それゆえ――

「何故、落ちぬッ!」

 扇谷上杉家当主、上杉朝定は苛立ちを込め、地に拳を叩きつけた。戦力差は圧倒的なのだ。自分たちが敗れた時、北条はもっと少ない兵力で奪い取ったのに、自分たちはその何倍も、十倍以上の戦力がありながら、落とせていない。

 彼らにも情報が入っているはずなのだ。今川が挙兵したことは。自分たちが動くよりも先だって、今川が動いたからこそ自分たちも自信を持って軍を興すことが出来た。今川と共に古河公方を口説き落とし、盤石の態勢を作った。

 後詰は来ない。こらえる意味が、無い。

「もっと早う降参すると思ったのだが、妙に粘るのお」

 古河公方、足利晴氏も首を傾げていた。籠城戦とは後詰、救援があってこそ意味のある行動である。救援が来なければ、そもそも攻め手は攻囲を続けるだけでいずれは勝利できる。補給線を断ち、干上がらせれば良いだけのこと。

 もちろん八万の大軍勢、食糧の確保は難儀ではある。されど、関東の総力を結集した戦い、周りは全て味方のようなもの。一部、北条とつながりが深い千葉氏などはどちらにも与せず、静観の姿勢を貫いていたが、とにかく補給は成る。

 連合軍側の補給が尽きることはない。

 我慢比べでは勝負にならない。さりとて今川が相手では北条氏康も容易くは勝利できないだろう。当然時間もかかる。戦力も消耗するはず。よしんば北条側が勝ったとして、後詰として機能できるほどの戦力が残るかどうかもわからない。

 河越城側の心が折れる情報しかないはずなのだ。

 希望はない。耐える理由もない。

 ゆえにすぐ落城するだろう、と誰もがそう思っていたのだ。

「長野よ、剣豪たる上泉と共に河越城をこじ開けてくれぬか?」

「それは良い。関東一の剣豪なれば、北条如き容易く斬り伏せられるでしょう」

「如何か?」

 山内上杉を支配する狸共。彼らは冗談めかしているが、眼は一つも笑っていない。成り上がりの長野家への敵愾心に満ち満ちていた。

 さもありなん、これが今の山内上杉である。

「御冗談を。如何に優れた剣豪であっても、四方八方から降り注ぐ矢には敵いませぬ。私如き卑小の身はともかく、上泉の腕前は関東の宝。戦場で宝刀を振り回す者はおりますまい。値打ちが下がりまする。殿はどう思われますか?」

 長野業正はあえて自らの主君である上杉憲政に話を振った。

「長野の言う通りじゃな」

 主君が笑みを浮かべ、特に何も考えず長野の弁を肯定した。

 その瞬間、

「はは」

「冗談が過ぎましたな」

「いやはや、口が滑り申したわ」

 主君が長野を肯定したことで、狸共は『冗談』であった、と笑う。憲政も共に笑っているが、狸共の眼が笑っていないことには気づいていない。

 気づいているのは――

(馬鹿共が。幼き頃より殿を操り、ないがしろにするから私のような新参者に付け入る隙を与えるのだ。立場を弁えろ、老害)

 狸共自身と、長野業正であった。

 長野は元々、憲政が当主となる際の御家騒動の時、敵方についていた。それゆえしばらくは冷や飯を食わされてきたが、伏しながらも娘たちを用い、着実に地盤を固めつつ、憲政に対しても少しずつ関係性を深めていった。

 自我も持たぬ頃よりも操られ、それが芽生えた後も同じように接し続けられた憲政にも不満があったのだろう。そこへ長野業正が話し相手となり、操り人形でしかない男の言葉を真摯に受け止め続けたことで、憲政は長野を推すようになった。

 元々、御家を牛耳っていた連中からすればたまったものではないが、操り人形の自我を軽視した彼らの落ち度。するりと主君の懐へ滑り込んだ長野は憲政を抱き込み、山内上杉内での立場をぐんぐん引き上げている。

 憲政本人からの信頼が厚く、傀儡だ何だと言っても彼が当主であることに変わりはない。憲政に望む言葉を言わせられる者が、山内上杉を牛耳るのだ。

 そういう意味ではもはや――

(こわやこわや)

 目の前で繰り広げられる政治の世界を、一歩引いた場所から眺める上泉秀綱は改めて嫌な場所だと思う。京はこの比でないだろうが、関東も歴史が積み重なり、そこかしこでこういったドロドロとした政争が繰り広げられている。

 北条が台頭できた理由も、元を糺せばそこへ行きつく。

「……戦場は膠着模様。代わり映えしませぬな」

 上泉が苦笑する通り、当初の勢いは完全に落ち込み、誰も彼もが攻囲の一角として罵詈雑言を投げかけるばかり。北条の忍耐力、守り手の質を知って大勢が及び腰となっている。そして、それ以上に攻め手がやる気を持てぬ理由が――

(山内も、扇谷も、先を見過ぎている。のちの戦いに備え、なるべく戦力を減らしたくはない。己が家の戦力を出し惜しみしている。これが、長い攻囲で少しずつ透け始めた。時間が経てばもっと酷くなるぞ、この厭戦感は)

 矢面に立ちたがらぬ山内、扇谷、ついでに足利。その三家を見る眼が、少しずつ変化し始めていたのだ。大戦力を集めた盟主たちから、自らの戦力を出し惜しみする卑怯者たち、へと。まだ、その眼をしているのは一部だけだが。

 これが長引けば、自然とそういう眼も増えて来る。

(狙いはわかっている。が、本当に来るのか、北条氏康は?)

 後詰あっての籠城。彼らは自らの主君が到来することを信じている。

 だが、状況的にそれは難しい。

 そもそも来たとして、厭戦感が漂い始めたとはいえ八万の戦力相手に、精々が一万と少し程度の総戦力である北条家一つで何が出来ると言うのか。

 千葉氏と協同したところでたかが知れているし、如何に仲が深くともこの状況で北条につくほど愚か者ではないはず。連合軍側につかない時点で、充分義理は通している。他に何か、この状況を打開する手はあるのだろうか。

 上泉秀綱は考え込むも、未だ何も浮かばない。


     ○


 北条綱成と笠原康勝は共に富士見櫓の上に立っていた。開戦からひと月と半分が経過し、大軍勢の勢いも落ち着きを見せる。何とか緒戦の大攻勢を抜け、一旦小康状態に持ち込めた形だが、当然北条方に余裕はない。

 和睦しているなど、彼らは未だ知らないのだ。こちらでは九月末の開戦で、現在十一月の半ば。和睦の成立自体が十一月の頭であるため、通常であればもうそろそろ伝わってもおかしくはないのだが、攻囲されている北条方はもちろんのこと、連合軍側にも未だ情報は伝わっていなかった。

 北条が漏らさず、今川も武田もそうしない。だから伝わらないまま。とは言え、そろそろさすがに連合軍側には伝わりそうであるが。

 少なくとも河越城にその報せが届くことはない。八万の軍勢である、情報を持った者が城へ到達することは、夜闇の中でさえ難しい。

 如何に厭戦気分が高まろうとも、そこまで安い戦をするほど、関東の武士は甘くないのだ。だから彼らは知らない。知らずに、耐えているだけ。

「御本城様、来ますかね?」

「……普通に考えれば、来れんだろうな」

「……それ、絶望って言うんですけど」

「だが、新九郎は普通ではない。初代様、二代目、蛙の子は蛙なのだ。三代目を信じろ。あの男もまた、北条を背負う者だ」

「ですね」

 関東連合軍は、どうやら包囲し続け、河越城を干上がらせようと言うつもりらしい。その考えはわかる。山内、扇谷、首謀者である両家が率先して攻められるのであれば無理攻めでの消耗戦をすべきだが、両家が損耗を嫌っている以上、他家にばかり攻めさせているのでは角が立つ。と言うかすでに立っている。

 だから、悪口や陽動ばかりで本気の攻めはここ数日なかった。

「ただ、俺なら今川を破り、最短で辿り着けるとしても、年内は動かん」

「その心は?」

「勝つ確率を、少しでも高めるためだ」

「……ううむ」

「言うか?」

「いえ、まずは自分で考えます」

 考え込む笠原を見て、綱成は微笑む。本当に、あの日から彼は変わった。謙虚さを得て、驕らず、高みを目指し刻苦する。

 楽な道を、答えを欲しがらなくなった。

 そんなもの、実戦ではクソの役にも立たないと察することが出来たから。

 天元より始まった未踏の戦い。あれは所詮、盤上のことであるが、実戦も同じ。場所が違えば、相手が違えば、わかっていることの方が少なくなる。

 わからない相手と戦う時、そこで初めて地力が問われるのだ。

「時間の経過により、増大するもの。厭戦気分、季節、ああ、そうか」

 笠原康勝は、自らの掌の上にはらりと落ちた白いものを見て、笑みを浮かべた。

「厭戦気分を高めるために、あえて冬を越えさせる。御本城様ならば、我々がかき集めた食糧もある程度は把握していますし、限界まで引き延ばし、出来る限り大きな隙を作ったところで、一点を穿つ」

「見事な読みだ。ぬしなら、『どちら』の首を狙う?」

「……山内、と言いたいところですが、あそこは傀儡をして長いですからね。憲政を討ってもすぐ代わりを用意するだけでしょう。逆に――」

「扇谷は当主が急死してからの交代、簡単に代わりを見つけられる状況ではなく、そもそもそうしようとする者も心当たりがない」

「であれば必然、狙うは上杉朝定、ですか」

「俺ならそうする」

「なら、御本城様もそうしますね。お二人は昔から仲が良いので」

「……そうでもない」

「へ?」

「昔はそれなりに険悪だった時期もある。俺がそれを表に出したことはないが、新九郎は、ふっ、あまり隠さなかった、か」

「……聞いちゃいけない話です?」

「別にいい。当時を知る者は、皆察していた」

 北条綱成は屈託なく笑う。かつての自分と、今と全く違うへなちょこの新九郎、互いに互いを嫌っていた。優秀な養子と、出来損ないの実子。

 そんな子ども時代を、笑う。


     ○


 それは今日と同じような、冬の始まりを告げる白雪が舞う頃。

「わ、わたしをあなどるな! よ、養子のくせに」

「……もうしわけございません」

 後に親友として、義弟として、戦場を駆けることとなる二人の関係は、子ども時代とても険悪なものであった。

 片方は嫉妬し、もう片方は歯牙にもかけず。

 どちらも子どもであったのだ。

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