第陸拾伍話:上杉定実の全盛期

 越後守護上杉定実、越後守護代長尾晴景、坂戸城主長尾房長、三名の話し合いにより上杉定実を総大将とした軍を興すことが決定した。守護の名の下に黒田征伐のため越後中に御触れを出すことになる。

 これによって名実共に黒田は反乱者へ、そして晴景は敗北者となった。あとは上杉軍が黒田軍と面し、軽く当たった後に黒田が降参する流れとなる。

 もちろん、そうなるとわかっているのは上杉定実のみ。

「案ずることはない。わしの威光があれば黒田如き大したことなかろう」

「さすが守護殿にございます」

「六郎よ。此度の件、本来であれば切腹ものの失態ぞ。誰のおかげでこのような状況になっても巻き返せると思う? ん?」

「御屋形様の御威光あればこそ」

「そうじゃろう。そうじゃろう。わしこそが越後と言う屋形そのものである」

「はは」

 主だった面々の集う軍評定でのやり取り。終始平身低頭である晴景と終始ご機嫌な定実。哀しいほどの明暗がそこに在った。

 そして晴景が持ち上げ、定実が気を良くすればするほどに――

(やはり、此度の件、黒田と――)

 この場全員の疑惑が深まる。何しろ、そもそもこの男、いついかなる時でもお飾りであったこと以外はない。戦を前に自信を持てるほどの経験などあるはずが無いのだ。無論、万全の態勢であれば黒田だけの軍勢、どうにでもなるだろうが、何があるかわからないのが戦場である。絶対はないと言うのに、まるで絶対勝つことを疑っていない表情からは、一つの疑惑しか浮かんでこないだろう。

 そういうところが器足らず、なのだが。

「皆の衆、全ては私、長尾六郎の責任である。皆々様にはご迷惑をかけるが何卒、越後のためにもご協力頂きたい」

 晴景は言い過ぎとばかりに頭を下げ、自らの責任であることを何度も口にする。その所作はまるで自らの手で泥を被るようであり、卑屈にも映る。

 あまり褒められた行為ではないだろう。

(……まさか、御屋形様はすでに――)

 晴景が愚かでないことを知る大熊朝秀は一つの可能性に思い至る。ここで必要以上に泥を被る行為が、有効に働くであろう筋道が一つあるのだ。

 見切るには早いと思うのだが、

(眼に、光が……)

 少なくとも今、晴景の眼にはかつて充ちていた越後への想い、それによって煌めいていた光が、消えていた。大熊にはそう感じられたのだ。

 大熊自身もまた、政の場では同じまなざしゆえ、わかる。


     ○


 上杉の名で御触れを出すと決めた翌日、

「綾か!」

「兄上」

 長尾綾が上田荘、坂戸城下に辿り着く。彼女を守りここまで送り届けた兵たちは皆、ボロボロであった。特に酷いのは若き俊英、斎藤朝信であった。布で抑え付けていた左目は膿み、とうに視力を失っていた。傷だらけであり、上田荘に辿り着いた頃には意識も朦朧としていたそうで、すぐに医家の下へ運び込まれていった。

「随分遅かったのだな」

「道中、敵方の追撃に会い、大きく道を逸れたのです。しかし、追いつかれてしまい、万事休すといった時に、あの御方が」

 綾が指をさしたのは、ボロボロの斎藤に代わり、部隊を指揮していたであろう男である。越後の重臣であり、要職に就く男の名は――

「弥次郎」

「恥と知りながら、馳せ参じました」

 柿崎弥次郎景家。晴景と対面してすぐ、彼は地面に頭を叩きつけんばかりの勢いで土下座をする。その意を理解せぬ者は、ここにいない。

「柿崎殿の奥方は」

「ああ。黒田の、であったな」

 謀反人、黒田秀忠の娘を柿崎は嫁に貰っている。当然、皆の目は厳しい。何か知っていたのではないか、と。何しろ彼は黒田が攻める際、春日山からいなくなっていたのだ。あまりにも都合が良過ぎる話であろう。

 まあ、いなかった人物を列挙すると、不自然なほど多くなってしまうのだが。

「兄上、柿崎殿の助けなくば、私や将兵らも道半ばで散っておりました。どうか、どうか、寛大なる差配をお願い致します!」

 綾もまた柿崎と共に頭を下げる。彼と行動を共にした斎藤部隊の面々も同様に、助けられた恩から頭を下げていた。柿崎と斎藤は少し歳が離れているも、旧知の仲であり柿崎家臣と斎藤家臣の仲も良好なのだ。

 彼らは知っている。柿崎景家という男、そのような腹芸が出来る男ではない、と。実直な男なのだ。嵌められこそすれ、謀に乗る男ではない。

 それはもちろん、

「わかっておる。弥次郎にそのようなこと出来るものか。若き斎藤同様、其の方はすぐに顔に出るからな。面を上げよ、皆もだ」

 晴景も承知している。柿崎の肩をぽんと叩き、労をねぎらうような素振りを示す。綾はほっと息を吐き、他の者たちも喜色を浮かべる。

 ただ、柿崎のみは頭を下げたまま――

「柿崎殿、一つ質問がある」

 様子を窺っていた大熊が近づいてくる。その眼は、険しい。

「柿崎城から報せを聞き、出陣なされたのか?」

 柿崎の肩がびくりと、震える。春日山から柿崎城がそれほど離れていないとは言え、報せを聞いてから動き出したのではおそらく、綾たちを救出することなど出来るはずがない。何らかの方法で先んじたのでなければ――

「……それは」

「控えよ、大熊。柿崎も答えずとも良い。結果が全てだ」

「しかし!」

「如何なる理由があろうとも、こうして綾を救い、ここまでやって来たのだ。自身に疑惑が向くのを承知の上で、だ。汲み取ってやれ」

「……承知致しました」

 大熊は晴景に諭され、言葉を収める。柿崎は頭を下げたまま、動かない。もしかしたら彼の奥方は知っていたのかもしれない。そこから事情を知り、彼は急ぎ動き出したのかもしれない。謀反人の娘、それを奥方に持つ男、嫌な立場であろう。

 そこに悪意があろうとなかろうと、人はそう見てしまう。

「皆も休め。今は英気を養うことだ。全てはそこからであろう?」

 晴景が何を言おうと顔を上げぬ柿崎。その様子を見て大熊も目を伏せる。立場上、彼の実直さを知る己であっても問わねばならなかった。誰も信じられぬと、つい苛立ちを乗せてしまった己の未熟を恥じる。

「綾もだ。私と共に新六殿らへ挨拶に行こう」

「はい」

 彼女にとっては急にやって来た嫁入り、となる。かつての彼女であれば嫌な顔一つしたかもしれないが、今回の件を経て何か変わったのだろう。

 言葉だけではなく態度そのものが、武士の娘となっていた。

「…………」

 それが喜ばしいことかは、晴景にもわからない。

 長尾家にとっては間違いなく喜ばしいことであるだろうが――

「弥次郎、ぬしも休め」

「はっ」

 それでも動かぬ頑固な男ばかりなら、越後も少しは居心地が良くなるのであろうが、などと晴景は内心、思う。そう思う自分を、嗤う。


     ○


 綾は負傷者の看病などをしながら、忙しく働いていた。する必要はないと義父となる房長にも言われたが、忙しさで紛らわせねば気がおかしくなりそうで、自ら志願して医家がするほどではない手当などに奔走していた。

 止まっていたら思い出してしまうから。

 それでも、

「お休みください、綾様」

 周りがそうさせてくれない。綾は貴人であり、彼女が動けば周りも動かざるを得なくなる。結果、誰も休めぬようになってしまう。

 気を遣ったものではなく、気を遣って欲しいとの声。

 それが読めぬほど、綾も愚かではない。

「お忙しそうですな、綾殿」

「追い出されてしまいましたが」

 立ち止まる彼女に声をかけたのは、坂戸城主長尾房長の息子、長尾政景。通称を新五郎と言う。端正な顔つきであり、パッと見ると好青年なのだが、彼女の中では葬列の時に吐いた毒が未だに引っ掛かっていた。

 ただ、彼女がどう思おうと彼が夫になるのだが。

「先ほど斎藤殿と話しましたよ」

「話されたのですか?」

「まあ、声が小さくて聞き取り辛かったのですがね」

「そうですよね」

 顔は迫真、声は極小、斎藤朝信。

「何かおっしゃられていましたか?」

「箔が付いた、と。若いのに気骨に溢れた御仁でしたよ」

「そう、ですか」

 片目を失い、傷だらけになって、それで彼は箔が付いたと笑う。容易に想像がついてしまう。自分とは違う生き物の、力強さを。

「……何か心配事でも?」

「いえ、大したことではありません。ただ、知り合いがまだこちらに辿り着いておらぬのです。上田に来ると、約束していたのですが」

 政景は少し、考え込んでから、

「殿方ですかな?」

「ええ。幼馴染です。虎千代、あ、平三の乳母であった金津家の」

「ああ。金津新兵衛殿ですか。存じておりますよ。では、そのご子息と?」

「はい。私を逃がすために囮となってくれたのです」

 ギュッと着物の端を握りしめる綾を見て、政景は何と言うべきか迷う。囮となったのであれば生還した可能性は低い。それに金津と言えば長尾家の客将、黒田が手心を加える理由もなく、むしろ積極的に潰そうとするだろう。

 自分ならまず、彼らの館も含めて戦術目標とする。

(まあ、言えぬ、か)

 今にも泣きだしそうな女性を前に、その背中を押すような真似は出来ぬと政景もまた押し黙る。その弱々しい横顔を見て、彼はほんの少しだけ顔を歪ませた。

(……しかし、似合わんな)

 長尾綾にこういう顔は似合わない。彼の知る綾は家来を引き連れ、弓を担ぎ男顔負けの体力で野山を駆け回る力強さに漲っていた。女人ながら馬を駆り、幼き日の政景は彼女と言う存在に圧倒されたものである。

 三条長尾に与するは業腹だが、彼女が己のモノとなるのは悪くない。周囲にはただの政略だと吹聴しながら、父と晴景の話がまとまった時には、何の脈絡もなく家臣らを率いて近くの湖で舟遊びをした。特に意図もなく館も新調し、何となく必要かと思い馬まで用意していたのは、いずれ生まれる嫡男のためだと言い切る。

 晴景の一団に綾がいないと聞いた時には終始そわそわし続け、何とか辿り着いたと聞いた時には慌てて動き出そうとしたが、軽薄に見られかねないと思い留まり、彼女らが休めるよう後方に指示を飛ばしたりもしていた。

 それでも彼は政略だと言い切るし、彼女もそう思っている。

 父などは今回の件もあり、少し早まったか、などと言っていたが、ここで翻しては家名に傷がつくと政景は父に向かって言い切った。

 今はただ、守護上杉の作った流れに乗る。

 これは変えられない。変えられないのだが――

(あの器足らずの思い通りというのも、癪なものだ)

 流れは上杉に、そして上田長尾に傾いている。以前の自分なら大喜びしていたはずなのだが、何故か今は喜ぶ気にはなれなかった。

「必ず、春日山は奪還しますよ」

「ありがとうございます。新五郎殿にそう言って頂ければ、心強いです」

「……約束しますとも」

 彼女の眼に、政景は映っていない。上田長尾の次期当主が味方となったことに感謝している、そんなところだろうか。そこに政景はいない。

 今はそれでいい。

 今回の一件、黒田征伐の際に何らかの功を上げて見せる。守護上杉はすぐに引き分けに持ち込もうとするだろうが、どうするにしても最初はかち合う。そこで一日もかけずに勝ち切れば、彼女を曇らせた黒田の首を取ることも出来よう。

 それは上杉の利に反するものであっても、上田の利に反するものではない。

 今回、上田長尾は仕掛け側ではなかったから。


     ○


 さらに数日、上田の戦力と各地から招集に応じた将兵が、総大将として出立しようとする上杉定実の下へ、上田に来ては遠回りになる者たちは所定の合流地点に歩を進め始めていた。この場にいるのは総戦力の半分にも満たない。

 それでもこれは全て、己が集めた兵だと上杉定実は笑みを浮かべる。

 これぞ守護の力。やはり自分は正しく越後の盟主なのだ。間違っていたのは為景、そして間違いを継いだ息子の晴景であった。己が正しいからこそこれだけの戦力が集まるのだ。その地位を傀儡として使おうとした長尾共が間違っていた。

 いわば今回のことは神罰である。

「さて、そろそろ黒田めをひと撫でしてくれようか」

「よろしいかと」

「うむ。わしの副将は其の方が務めよ、新六。六郎も異議はないな?」

「ございません」

「当然であろうな。この戦力はわしと新六によって集ったのだ」

 此度の件で示すのだ。自らを軽んじていた守護代長尾家はもちろんのこと、己を御屋形様と呼ばぬ家臣たち、さらに土着ゆえ元々守護への敬意が薄い揚北衆、それら全てに示すのだ。越後の支配者は、上杉定実である、と。

「では、春日山をわしが、取り戻してくれよう! このわし、越後守護上杉――」

「急報でございます!」

 自らの言葉が遮られ、不満の視線を向ける定実。

 だが、よほどのことであったのだろう、馬を乗り継ぎ深い疲労の色が浮かぶ伝令を見て、諸将は眉をひそめる。

「今、御屋形様が話されておったのだぞ! それを遮るほどの報告なのだろうな⁉」

 上田長尾当主、長尾房長が一喝する。

「……も、申し訳ございません」

 しかし、

「急ぎなのでしょう。まずは報告しなさい」

 尋常ならざる様子を見て晴景が報告するように促す。その場を仕切ろうとする態度に定実は若干眉をひそめるも――


「か、春日山城を、御味方が奪還致しました!」


 次の瞬間、呆然としてしまう。

「……は?」

 誰もが言葉を失う。晴景も、房長も、政景も、大熊や柿崎などの諸将も、誰もが疑問符を浮かべる。そんなことはありえない。

 そもそも誰が――

「誰が、成したのだ?」

 晴景の問いに、

「栃尾城主、長尾平三殿であります」

 長尾平三景虎。今度こそ全員が、絶句する。

「……まことか?」

「間違いありません」

「黒田は?」

「春日山城を放棄し、おそらく居城、黒滝城へ後退したものかと」

「……いくら何でも、早過ぎる」

 晴景の言葉が、この場全員の総意であった。確かに栖吉には戦力がある。それでもそれだけで仕掛けるには心もとない。与板など周辺から集め、兵をまとめて動いたとすれば、今出陣するだけでも迅速な行動と言えるだろう。

 であれば栃尾、栖吉だけの戦力で向かったと考えるのが妥当。戦力的に怪しいが、足の速さを考えればそれしかないだろう。

 問題は――

「…………」

「ああ。そうだな。斎藤殿の言う通り、そうであっても早過ぎる」

 斎藤、柿崎は顔を歪めていた。どれだけ早く、その場の戦力だけをかき集めて進軍したとして、それであっても早過ぎるのだ。

 今、接敵をしたのではない。

 もう、決着がついているのだ。

 その報告が、上田にまで届いているのだ。

「は、え?」

 状況を飲み込めぬ定実は首を傾げる。ガラガラと、何かが崩れ落ちる音がする。傀儡ではなく、越後の支配者として君臨する己が、揺らぐ。


     ○


 越後、春日山、燃え盛る金津館の前で一人の男が琵琶を奏でる。

 諸行無常、『彼女』がいつも褒めてくれた調べを、『彼女』のためだけに唄う。見事な節回し、美声であるが、部下たちはそれを遠巻きに眺めるばかり。

 近づかない。いや、近寄れない。

 演奏を終えた後、男は微笑む。涙を流しながら。

「ううむ、随分腕が落ちたの。やはり普段から弾かぬと良くない。下手くそですまぬな。もう俺は武士なのだ。どうしようもなく、のぉ」

 男はそう言って、金津館の中に遺されていた琵琶を、燃え盛る館に放り投げる。その眼を見つめる者は誰もいない。それこそ神のみぞ知る、である。

「ぬしらは望まぬだろうが、俺の気が済まぬのだ。許せよ、ぬしらを言い訳とする俺を、許せ。最後まで迷惑しかかけぬ俺を、許せ」

 男は身を翻し、『彼女』に背を向ける。

 その貌は――

「黒田を追う」

「はっ!」

 悪鬼羅刹すらも裸足で逃げ出すほどに、怒りで充ち満ちていた。

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