第陸拾参話:折れぬ意地、折れる意地

 黒田秀忠は越後上杉の、ひいては越後長尾家の重臣であった。誰もが認める実力者であり、家格の上でも黒田家自体は全国に氏族が存在する名門、ではある。

 ただ、彼自身は養子であり、その上で越後は周辺国と比較しても土着の豪族、国衆らが力を持つ土地であった。折角名門の名を得たのに、流れ者である黒田氏はこの越後に置いて決して大きな名ではなかったのだ。

 一度は飲み込んだ現実。それにあの頃は夢を見ることすら出来なかった。長尾為景、あの乱世を具現化したような男が権勢を振るっていたから。抗おうと思う気にもなれなかった。抗えば滅ぼされる、その抑止力が黒田を忠臣とした。

 だが、為景が死に、長尾家を取り巻く環境が悪化していく中、ふと思い至る。今ならば上を目指せるのではないか、と。

 そんな時、越後守護上杉定実より内密の話があったのだ。

 共に長尾家を打倒せぬか、と言う話が。

 黒田も悩んだ。悩みに悩み、越後上杉に乗ると決めた。この土地で、ただの忠臣ではこの先上がり目などない。長尾家内でも上が詰まっており、土着の実力者たち揚北衆も含めれば、正攻法で席が空くのを待つのは愚行であろう。

 現当主への侮りもある。為景と従軍していたとはいえ、彼自身が総大将で戦を率いた経験はなく、線が細く見えていた。ふたを開けてみればとんでもない男であったが、こうなった場合も最低保証はある。

「悪いな晴景よ。今回の俺に、負け筋は無いのだ」

 晴景を討てたなら上杉が征伐の指示を出したことになり、後付けの大義を得ることが出来た。ただ、未だ晴景を討ったという報告が無い以上、取り逃がしたと考えるほかないだろう。そしてそれでも、問題は起き得ない。

 黒田征伐の軍勢、晴景が撤退し体勢を立て直した時、誰の名で兵を募るか、と考えればわかりやすい。春日山を奪われた長尾家よりも、より大きな名分を持つ上杉の名で兵を募り、上杉定実が総大将と成るだろう。

 そして、彼の威光により黒田は降るのだ。長尾家の顔を潰し、上杉の顔を立てる。そうして時がくれば、事前の約定通り上杉方の重臣として、今よりも遥かに高い待遇で取り立ててもらえる。席も一気に空くだろう。

 何せ腐っても守護代家、ただでは転ばぬだろうし、それなりの家が彼らにつく。その上で上杉が勝てば黒田の栄光は約束されたようなもの。

 これは先物買い。勝算はある。今の長尾家ならば問題ない。

「為景様、貴殿のやり方は存分に学んだ。守護上杉を操る役割、今度はこの黒田が引き受けましょうぞ。巨星亡き今、俺を阻む壁はもう、存在しない」

 上杉を操り、黒田が駆け上がる。

 今回の戦は、黒田家躍進の狼煙である。

「殿、吉報をお持ち致しました」

「ほう」

 部下が差し出したモノを見て、黒田はぐにゃりと笑みを浮かべる。

「これで残りは二人、晴景と、景虎か」

 そこには悲痛な貌の長尾景康、長尾景房、あの為景の血を継ぐ庶兄二人の首が並べられていた。黒田の脳裏に足音が響き始めていた。

 自らが天へ駆け上がる足音が。

 越後の都、春日山を落とした黒田秀忠は大笑いする。


     ○


 長尾晴景の下に続々と兵や人々が集まってきていた。春日山の全員を連れて上田に向かうわけにもいかないが、逆に全てを断ち切るわけにもいかない。春日山が簒奪されたとするために、ある程度の『見栄え』は必要となる。

「……おらぬか」

「まだ見えぬか、奥方は」

「い、いえ。私が探しているのは綾様であって――」

「そう取り繕わずとも良い。心配になるのは仕方がないだろう。ぬしらの仲はよく知っておる。心配であれば離れても良いぞ」

「そういうわけには参りませぬ」

「堅物め。では理由をやろう。金津新兵衛には栖吉に向かって欲しいのだ。古志長尾に協力を要請して欲しい。その後、余裕があれば琵琶島辺りも声掛けしてくれたらありがたい。どうだ、離れる理由となるであろう?」

 先ほどまで見せていた鬼気迫る雰囲気は薄れ、いつもの晴景が顔を見せる。彼は金津が心ここに在らずなことを見抜いていた。何せ、かなりの人数が集まってきた今も、まだどちらの姿も見つかっていないのだ。

 急く気持ちはあるだろう。もしや、と心が曇るのも仕方がない。

「しかし――」

「景虎はぬしの言うことなら聞く。あれが暴れぬよう手綱を握って欲しい。上田、古志、彼らの協力が得られたなら、今回の件は丸く収めることが出来る」

 丸く収める、晴景は黒田を討つとは言わなかった。いや、言えなかった。もう筋道は見えている。どう転んでも、今回は守護上杉が笑うように出来ているのだ。

「御屋形様! 守護殿の足取りがつかめました!」

「どちらだ?」

「……上田です」

「……虎穴と思い、踏み込まねばならぬな」

 晴景は苦々しげに顔を歪めた。これで上田長尾が絡んでいる可能性も高まった。無論、絶対ではない。橋渡しせずともこの局面で、上杉の来訪を彼らが跳ねのけることはないだろう。ただ、間違いなく疑惑は深まった。

 下手を打てば敵地。それでも向かわねばならない。

 今、守護を補佐する守護代の役割を放棄するは、長尾家の命運を断つに等しいから。どうあっても業腹な結果が待ち構えていそうだが、甘んじて受け入れねばならない。自分が落ちても、まだ長尾家には残っているのだ。

 無傷の虎が、牙を研ぎながら。

「新兵衛、頼む」

「……お心遣い、感謝いたします!」

「気にするな。全ては私の責任だ」

 晴景の下から金津新兵衛義旧が離脱する。彼が栖吉との橋渡しに成功するかはわからない。そもそも、残念ながら今となってはあまり重要ではないのだ。

「さあ、参るか」

 むしろ動かない方が良い。あちらには栖吉の古志長尾、与板の直江も含めそれなりの戦力もある。このまま越後が割れた場合、その辺りの兵力が景虎と共に在るのは、長尾にとってリスク分散になるだろう。

 上杉、上田長尾、彼らが晴景を無理やり討つ方が、長尾にとってはいい結果になるかもしれない。兄の敵討ちという守護を討つ名目を得た景虎、この構図の方が美味しいのだ。もちろん、景虎が彼らに勝つ前提の話だが。

(今の越後に、私の役割は――)

 長尾晴景は上田荘を目指す。

 下手を打てば敵地。だが、だからこそ向かう意味がある。

 それが越後に選ばれなかった己の使い道、であろう。


     ○


 幾度も弥太郎を助け、共に逃げようと声が出かかった。だが、どんどん現れる敵兵、それと戦う彼らを見て、その言葉を口にすることが出来なかった。

 これがかつての自分が望んだ男の、武士の世界。

「……!」

 鬼気迫る表情でぶつかり合う男たち。そこに思い浮かべていたような華やかさはない。相手を押し倒し、喉元に刃を突きつけ、喉を掻っ切る。予期せぬ所から矢が、槍が飛んでくる。どれだけ気を付けようとも――

「姫様!」

「あっ」

 それら全てを掻い潜ることは出来ない。如何なる達人も、どれだけ修練を積もうとも、運が悪ければ死ぬ。これが戦場、これが武士の仕事場。

「ご、ごめんなさい!」

「構いませぬ。斎藤殿、後はお任せいたす!」

「……!」

 斎藤朝信は力強く頷き、部隊を前へと進ませる。

 槍が突き立った武士はそれを引き抜き、凄絶な笑みを浮かべながら敵の一団に突っ込んで行く。幾人かの首を刎ねた後、幾重にも斬られ、貫かれ――

「……っ」

 絵巻の中に在った、本の中に在った、輝かしい戦場など何処にもない。

 ここに在るのは――

「斎藤殿!」

「……ッ⁉」

 若き俊英をも差別せず、運が悪いとばかりに襲い来る悲運と、

「……ふはァ」

 それをものともせぬ常軌を逸した、意地。

 流れ矢で片目を抜かれながら、それを目玉ごと引っこ抜き笑う朝信。綾には信じられない。何故彼は笑えるのか。

 何故彼らはそれで士気を上げるのか。

「斎藤殿に続けェ!」

 彼らは止まらない。目を失おうとも、四肢がもげようとも、死を恐れずに突き進む。これが武士、面子のためなら死をも厭わぬ者たち。

 意地で、彼らは死ねるのだ。

「…………」

 綾は理解する。自分の抱いていた夢は夢でしかなく、現実の戦場に自分のような女の居場所などないことを。力と意地、狂気が横行するこの世界で、女の細腕如き、何の意味があろうか。弓を射る気にもなれない。

 そもそも自分の弓で彼らが止まる気もしない。

 武士が首を断つ理由がようやくわかった。戦場での彼らは、首を断たねば止まらないのだ。四肢を落とした程度では、致命傷を負った程度では、彼らは止まらない。血を撒き散らしながら、臓腑を溢しながら、嬉々として彼らは戦う。

「……オェ」

 こみ上げる吐き気をこらえながら、綾は守られ続ける。

 その姿は、笑えるほど自分が卑下していた姫そのものであった。

「……!」

「ようやく修羅場を抜けたか。姫様、これで一安心ですぞ」

「……はい。ありがとう、ございます」

「斎藤殿、このまま上田荘ですかな?」

「……」

「なるほど承知しました。さあ各々方我らはまだまだ負けておりませぬぞ。姫様を送り届け必ずやこの地へ、逆襲のため戻って参りましょうぞ!」

「おう!」

 もう、綾は夢を見ることはないだろう。突き付けられた現実、戦いの中にいる彼らを見て、どうして夢が見れようか。

 この日、長尾綾の未練は、未練ではなくなった。

 現実を押し込まれ、飲み込まざるを得なかったのだ。


     ○


 晴景の厚意を受け、金津義旧は晴景らが去ったことで落ち着き始めた春日山を歩いていた。落ち着きを見せ始めたとはいえ、今の春日山はもはや敵地である。幾度も回り道を重ね、隠れ潜みながらもやっと、彼は自分の館まで至る。

 彼が望むのはただ一つ。

 この館に誰もいないこと、それだけであった。

 館は荒らされていた。金目のもの、先祖伝来の宝、そんなものはどうでも良い。彼は長尾為景を知り、家格と言う虚勢の無意味さを知った。結局人間一人、何かあればその者の器で戦わねばならぬのだ。後生大事に守るほどのものではない。

 大事なのは、人。

「……よかった。誰もおらぬな」

 義旧はほっと息を吐く。跡取り息子が立派に巣立ってくれた今、彼にとって大事なのは彼女なのだ。客将と言う立場で苦労をしたこともあっただろう。男と女、立場の違いで思うところもあったかもしれない。

 それらを汲んであげられたかはわからない。

 この件が落ち着けば隠居しよう。男の世界で散々好き勝手させてもらったのだ。今度は女の世界を手伝いながら、ゆっくり過ごそう。

 そう思って、彼は奥まった部屋のふすまを、開ける。

 そこはよく彼女が虎千代たちと遊んでいた場所であった。琵琶を爪弾き、小唄に興じ、絵巻を読み、笑顔が咲いていた場所。

「……あ、ああ」

 そこに、彼女がいた。後生大事に抱き、守ろうとしていたのは家系図であろうか。争った跡がある。割れた茶器なども、ある。家系図も含め、ことあるごとに義旧が金津家にとって大事なものだと言ってきたモノばかり。

 金目のものは奪われたのだろう。

 残っているのは残骸ばかり。

「何を、しておる? そんなもの、全部捨てればよかっただろうに。ただのモノだ。後生大事に守るほどのものでは、ないのだぞ」

 だが、彼はそれを伝えなかった。気恥ずかしかった面もある。武士の世界、体面が重要なのも事実。大事ではある。大事ではあるのだが、

「……私の、せいか」

 金津義旧は彼女に己の優先順位を伝えたことがなかったことを、悔いる。ただの一言でも、それを伝えていれば、現実は変わっただろうか。

 黒ずんだ跡が残る床。

「私が、伝えなかった、から」

 幾度も斬られ、見るも無残に殺された妻を抱き、金津義旧は心の底から悔いる。

 もう、取り返しがつかない。

 この館で、笑顔の花が咲くことはもう、二度と、無い。


     ○


 金津義旧はふらふらと屋敷の外に出る。彼の足取りに力はない。全てを失った。武士の世界に身を置き、先祖にも胸を張れる程度には勤め上げたつもりであった。だが、最後の最後で、全てを失ってしまった。

(……御屋形様が、先代のままであれば、このようなことには)

 考えてはならぬことを浮かべてしまう。晴景の理想、彼もまた大いに賛同していた。理想を掲げる当主と、それを支える力を継いだ弟。この道筋で間違いない。正しく、先のある選択だと、推進していたのは、己。

 しかし、思う。

 もし、今が為景の治世であれば、こんなこと起こりえただろうか。

 力で圧倒し、蹂躙し、抑えつけた暴君。

 彼が今、ここにいれば黒田如きが跋扈することなどありえなかった。

 傀儡でしかない上杉定実が夢を見ることもなかっただろう。

(考えるな、新兵衛。御屋形様は何も間違えていない。上杉に足元をすくわれたが、そもそもその種をまいたのは先代で、それとて伊達が小賢しい真似をしなければ、すべて上手くいくはずだった。時勢が、運が悪かっただけ)

 悪いのは自分。彼は己の傷に無理矢理擦り込む。

 間違えるな、自分が彼女に伝えていれば、本当の想いを臆面もなく告げていれば、身を一番に想え、と伝えてさえいれば済んだ話なのだ。

 これは己の失態。己の言葉足らずが招いた悲劇。

 だから、何も思うまい。

 ただ、己を責めよ、そう思い続ける。

 しかし、

「……あっ」

 今日の金津義旧はとことん悪い目が出る日であった。ある意味運が良いとも言えるが、それでも『あれ』を目にすることがなければ――

「あ、ああ、あ、ああ」

 どこの誰ともわからぬ、武士かもわからぬ者の槍、その穂先に掲げられた息子の首、それを目にすることがなければ、心が折れることはなかった。

 ギリギリ保っていた何かが、崩れる。

「あっ」

 最後の一線、男の、武士の意地が、折れる。

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