第肆拾漆話:兄弟水入らず
兄弟水入らず、誰も立ち入らぬ場所で二人は多くを語り合った。話の内容は主に虎千代の旅の話、特に盛り上がったのは――
「北条の三代目と話した⁉」
「おう。やはり北条は凄かったぞ。鶴岡八幡宮の再建で鎌倉を抱き込み、古河公方を用いて第二の関東管領を名乗り、関東での立場を盤石なものとした。民草にも慕われておるし、関東諸侯の多くは陰口を宣うので精一杯、だ」
「初代が切り開き、二代目が領土を広げ、さらに固めた、か。優れた人物なのだろうな、二代目新九郎殿は。お会いして見たかったものだ」
「丁度、氏康めとの対局中に容体が急変したらしく、俺もお会いすることは叶わなかった。ただまあ、あの時点の二代目に会ったところで、全盛期の面影があったかまではわからんがなぁ。人間、どうしても老いには勝てぬようだ」
「何かあったのか?」
「二代目は最後の最後で勝ち過ぎた。勝たされた、のかもしれぬが本意ではない状況を呼び込んだのは間違いない。扇谷上杉を追い詰め過ぎた」
「今の彼らであれば北条にかなうまい。すでに敵対関係である扇谷と揉めたところで問題ないと思うのだが……」
「絶対に勝てぬ状況にまで追い詰められたなら、誇り高き者でも恥は捨てられる。となれば、仇敵に頭を下げることぐらい、するかもしれん」
「……扇谷の仇敵、まさか、あり得るのか⁉」
「さてな。そう読んでいた奴がいた、とだけ言っておこう」
「ううむ、関東も恐ろしい状況だな。して、話しは逸れたが三代目とは如何なる人物であった? やはり才人か?」
食い気味の兄を見て苦笑する虎千代。ただ、旅をしたことで北条に目を付けていた兄の慧眼を改めて知った。今の世は東西、京が地方と見ている両極で動いていると言ってもいい。新興勢力北条が旧勢力と渡り合い、東海道の雄が手綱を握る。新旧入り乱れ、しのぎを削るが東であれば、西は日明貿易などで築いた圧倒的な富を盾に君臨し続ける。虎千代が旅をしたのは主に東側だが、京で見た豪商たちの多くは西側であったし、彼らの話を聞いても最先端は西側なのだろう。
実情として中央、天下は完全に取り残されている。
ただ、権威は陰りつつも、未だ大きな力を持つことに変わりはないが。
「氏康はそうさな、実直な男であったな。折れず曲がらず、足りぬ所は五色備えとやらが補完し、隙がない。自身も能があり、それに驕らず能ある部下を使いこなす器もある。戦うとすれば難儀な相手だぞ、兄上」
「相手は関東だ。と言える時勢でもない、か」
「何が起きてもおかしくはない。これでもし、北条が山内上杉まで打破してみろ。間違いなく火の粉はその流れを汲む越後上杉、長尾にも降り注ぐ」
戦火が押し寄せて来る。それは越後として歓迎すべきことではない。口では強い言葉を使っていた虎千代であったが、本音の部分では自分と同じ静謐を望んでいた。そうであったはずなのに、何故か彼は笑みを浮かべているのだ。
またも晴景は其処に父の姿を見る。
今の父ではなく、生涯百戦以上の戦場を渡り歩いた全盛期の父に――
「こわやこわや」
「……ああ。そうだな。そうならぬことを祈ろう」
そう思えばいつもの虎千代のようにケラケラと悪戯っぽく笑う。末弟の見知った一面と見知らぬ一面、それらが入り混じり、時折わからなくなる。
自分たちは今、正しく兄弟であろうか、と。
それからさらに様々な話をした。板鼻でのこと、駿府でのこと、語るべき内容は多く、多岐に渡る。晴景は大笑いしたり、顔を曇らせたり、少し怒ったりと大忙し。その様子を見てやはり虎千代はケラケラ楽しそうに笑っていた。
「山内上杉の権勢はまだ健在か」
「長野氏、曲者だな」
「私も見てみたいものだ、武士の都鎌倉を、その象徴たる鶴岡八幡宮を」
「小田原の土? 滑りやすい……何の話だ?」
「それほどの人物か、新しい今川家当主は」
「追放された先代の甲斐武田当主と丁半で勝負しただと。何故そうなる⁉」
「……そうか、京の都はそれほどに」
「琵琶湖を悠々舟で……羨ましいのお。やたら通行料が取られる、か。青苧の件でもあそこの水運は厄介でな、銭の亡者よな、今の比叡山は」
「で、越中で子どもを拾った、と。まあ、別に構わぬ。長尾家の男児たるものいずれ世話の一つでも付けねば示しがつかぬし、人を育てるのも良い経験と成ろう」
などと、本当に旅の一部始終を兄は聞きたがった。
その中でも、
「珍しいな、虎千代が女人の話をするのは」
「む、そうか?」
「ああ。直江の娘と上手くやっていると聞き及んでいるが、虎千代自身から彼女の話を聞いたことがないからな。他に交流もあるまい」
「綾がおる。金津の女房もおろうが」
「姉と乳母ではないか……ふむ、千葉氏、か。山内上杉勢力の有力者、長野氏の縁者ともなれば悪くない相手ではあるのお」
「大した家ではないぞ。あれはもう地侍だ。下手すると百姓と変わりあるまい」
「実情はあまり関係ないからな。結婚は血と縁だ」
「……まあ、確かにの」
千葉小梅の話に関しては存外深く切り込んできた。軽くさわりだけ話すつもりが、ここまで深掘りされるとは思わずに虎千代は内心慌てる。
さすがにあの約定のことは話せんな、と押し黙っていた。
「まあ、末弟の俺に嫁ぎたい者などおるまいが」
「そうでもないぞ。虎千代の母は古志長尾家の出だ。格は高い。末弟なれど家督継承の面から考えても決して遠くはないからな。むしろ、野心ある家からは引く手あまただ。私の方で握り潰した縁談もいくつかある」
「初耳だな」
「その中では間違いなく、家格の面から言っても低いのだが……」
逆に言えば、それぐらいの相手を与えておいた方が、後々憂慮することもなくなるかもしれない。つい、晴景は当主としての一面を覗かせてしまう。
聡い虎千代はすぐに察する。そこに気付いた晴景は、
「すまぬ。少々、最近肩ひじ張ることが多くてな」
申し訳なさそうに頭を下げた。虎千代は「別に構わぬ」と兄に気にし過ぎだと言い切る。それぐらい考えられねば当主など務まるはずもない。
「ここに来るまでに、噂は耳に入った」
「どんな噂だ?」
「……越後上杉の養子の件、先代と同じように国衆を慮り、跳ね除けるはずが宿老である直江の突き上げなどで曲げるのではないか、とな」
晴景は顔を曇らせる。漏れ出るはずのない情報が漏らされている、と言うことはそれをやった者がいると言うこと。
まあ、十中八九、
「実綱にやられたか」
「……やもしれぬ」
直江実綱の所業に違いない。ただ、証拠など無く、咎めようもないのが現状。何よりも彼がどうしようと、越後守護の上杉定実次第で曲げざるを得ない。
そうなれば国衆たちは晴景を弱腰で優柔不断な当主だと見るだろう。
「俺なら上杉を斬って直江も斬る」
それをどうすべきか考えていた矢先に、若き虎千代が示すは殺戮の道。晴景が考えもしなかった、非道なる行いを彼が口にした。
「斬る、は適切ではないな。守護殿には病死して頂き、越後上杉家を断絶させる。されば立場上、我ら長尾家が国主を命じられる可能性は非常に高い。何せ、京の連中は自分たちのことで精一杯、地方のことなど構っている余裕もない。少しでも安定する道を選ぶ。そして選ばれたなら、自らの考えを否定した者どもを叛意ありとし、国衆総出で中条、直江、平子を討つ。それで綺麗さっぱり、兄上の力も示せるぞ」
弟の口から放たれるは苛烈なる筋書き。あの苛烈極まる父上でも選びそうにない修羅道なれど、この弟は平然とそれを口にする。
自分ならそうする。眼が、そう言っている。
力を示し、国主の、守護の座も得ることが出来る。もちろん、全てが上手くいけば、という前提であり、全てに勝たねば長尾家は全てを失いかねない。
勝てば、全てを得る。
「ぶはは、実綱めの薄ら笑いを消し去る好機ぞ、兄上」
冗談、ではないのだろう。この弟は献策のつもりなのだ。全てが上手く行く道を示し、力業で越後をまとめる好機なのだと、彼は言う。
「それでは後に遺恨を生む」
「根絶やしにすれば、遺恨は芽生えぬ」
「それは、直江に滅べと言っているようなものだぞ!」
「俺はそう言っているのだが?」
虎千代は妖艶な笑みを浮かべ、当然だとばかりに首肯する。
「懇意にしている直江の娘も、断つことになるのだぞ」
虎千代はほんの少しだけ哀しそうな顔をしつつも、
「まあ、仕方なかろう。運がなかった、それだけのこと」
それを運で済ませる。先ほどまで無邪気に笑い合っていた可愛い弟の姿など、そこにはない。対面に座すは、時代が、戦国が産んだ魔性。
「長尾に楯突いた直江が悪い。違うか、兄上」
晴景は自分には無い力で充ち満ちている虎千代を直視できない。目を伏せ、首を振る。正気の沙汰ではない。こんなもの、露見すれば国衆とて怖れ、敵に回る可能性もある。その言葉が喉元まで出かかり、弟を見て、
「……っ」
言葉が、引っ込んだ。平然と、強き笑みを浮かべる弟に問えば、きっとこう答えるだろう。ならば、敵に回った国衆を血祭りにあげればいい、と。
繰り返せば、敵などいなくなる、と。
かつて父がそうしたように、敵となった者全てを守護だろうが、関東管領であろうが、全てを滅ぼして、勝てば正義。
晴景が否定しようとした父が、其処にいた。
いや、父とてもう少し分別はあった。彼は苛烈であったが、家を繋ぐことも考えて動いていたのだ。だからこそ、伊達稙宗の件で転ぶことになったのだが、今の虎千代にそこへの執着は見えない。必要とあれば、家も斬り伏せる。
その在り様は武士の枠すら超えていた。
「旅で、何があった?」
晴景は問わざるを得なかった。彼の知る弟は利発だが口が悪く、適当なようで実は規範に煩く、自由なようで頑固な、可愛い弟であった。父とは違う。全然違うはずだったのに、これでは父以上の怪物であろうが。
「……話した通りだ」
何かが弟を変えた。
「俺は兄上を盛り立てるつもりだ。兄上の障害はくまなく取り除く。敵があれば越後国内、国外、分け隔てなく進撃して見せよう。策はある。俺は学んだのだ。俺の力と宗教を用いれば、ぶは、死ねと言えば死ぬ、最強の軍を作ることが出来ると。俺自身が信仰の対象となるのだ。腐り切った神仏をも利用し――」
「やめよ!」
長尾晴景は思わず大声を張り上げてしまう。それに対し、弟の目は冷ややかであった。その眼は何処か、自分の器そのものを見つめているようで――
「ぬしはまだ、元服もしていない立場だ。国の運営は当主である私の領分、立ち入るのは早い。今は光育和尚の下で勉学に、修行に励み、研鑽すべき時期だ」
「申し訳ございません御屋形様。出過ぎた口でした」
虎千代は静かに頭を下げる。
「いや、私も悪かった。許せ、虎千代。今回の件は、上手く片をつけて見せる。守護殿に動く胆力などない。すでに伊達の方には父子で決裂するよう手を尽くしている。養子問題は自然と立ち消えることだろう。伊達も今後は後継者問題で憂慮することとなる。私も阿呆ではない。安心して欲しい」
「承知いたしました」
「……慇懃無礼な。だからすまぬと言っているだろうに」
「ぶはは、お返しだ」
面を上げると、そこには旅の話をしていたいつもの虎千代が戻っていた。いや、おそらくはあれも虎千代なのだろう。快活に笑うのも、妖艶な笑みで破壊を語るのも、どちらも今の虎千代。何があったかわからないが、今のまま元服させ、春日山城へ戻すわけにはいかない。しばし、林泉寺で落ち着いてもらわねば、と晴景は考える。自分の味方である弟が戦陣に加わるのは心強いが――
それ以上にあの虎千代が、怖いのだ。
「もうこちらには父もおられぬ。金津の屋敷同様、好きに出入りして構わぬ」
「それはありがたい。兄上は太っ腹よなぁ」
「弟想いの兄であろう?」
「ぶはは、違いない!」
一時のこと。林泉寺ならば、あの人格者である天室光育の下でなら、のびのびと健やかに過ごすことも出来るだろう。また、元に戻るはず。
晴景は願う。父の力を望んだことはあったが、それが無くとも兄弟力を合わせたなら正しき道でこの時代を、難局を乗り越えられるはず。彼の暴力が必要だったのは荒れた時代であったから。これからは秩序の時代、そう信じる。
長尾晴景は決して暗愚な男ではない。優秀で、先見の明もある。
ただ、彼と言う存在は少し早過ぎたのだ。
これから今しばらく続く、争いの時代に君臨するには――
○
「母上!」
足音を聞きつけたのか、凄い勢いで駆け寄ってくるのは越中での拾い物、甘粕少年であった。可愛げ満点で近づいてくるが、虎千代の姿を視認するや否や、顔をくしゃりと歪ませる。そうじゃない、と言わんばかりに。
「ぬしはいい加減、男の俺を見慣れよ。あと母上ではなく若様か虎千代様だ」
「いつ女装されますか?」
「聞けよ」
とは言え結局縋りついてくるのだから、まあ懐いてはいるのだろう。
しばらく二人で離れに向かい歩いていると――
「若様、どうされましたか?」
甘粕が声をかけてきた。
「む、何がだ?」
「少し機嫌が悪そうに見えましたので」
「……むう」
まさか童に気取られるとは、と虎千代は反省する。
「大したことではない。如何に仲良くとも、人が人である限り他者とは相違がある。食い違うことなど、いくらでもあるのだ」
虎千代は機嫌を損ねていたわけではない。ただ、思っていた以上に状況は悪いと感じたので、手っ取り早く解決策をひねり出したのだが、何故か兄の機嫌を損ねてしまったため、困った困った、と思っていたのだ。
どうせ先々拗れるのだから、先に血を流しても同じだろう、と虎千代は思うのだが、どうにもその辺りに見解の相違があるのだろう。
まさか何も失わずに切り抜けられる道はない。あの直江実綱がそこまで甘い手を打つはずがない。ゆえに斬れと言ったのだ。
直江実綱は優秀だが、その部分を自分が担えば良いと虎千代は考えていた。兄が正道を征き、自分が邪道を征く。それで丁度いい。
どうせ人間など、日本には溢れるほどいるのだ。食糧不足も越後では深刻な問題であるし、戦で間引いてしまうのが合理的だと思う。
「私は若様と食いちがいませんよ」
「そうか、ならばしばらく男のままでいよう」
「…………」
泣き出しそうになる甘粕の頭を撫でつけ、
「冗談だ。まあ、気が向いたらの」
「はい!」
まあ、今は何を言っても力がない。晴景の対策も的を射ているのは間違いなく、伊達が争えば養子問題どころではなくなるだろう。晴景の策が実るか、実綱の策が実るか、どちらが早いか遅いか、それだけのこと。
どちらであっても、特に問題はない。必要とあらば元服し軍を率いて戦うのみ。
結局力でねじ伏せれば、それで済む話である。
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