第肆拾肆話:龍、成る

 比叡山延暦寺、現在の滋賀県大津市にある、比叡山全域を境内とする天台宗の総本山である。歴史は古く、平安時代初期に開かれた際、平安京の北東、陰陽道で鬼門とされる方角を守る存在、都の守護者として魔を封じる役目を帯びていた。

 あらゆるジャンルの教えを実践し、厳しい修行を課された僧侶たちは崇高な存在として支持を集め、大きな力を持つことになる。

 かつては気高く崇高な存在であった。

 しかし、少しずつそれは歪んでいく。二人の優秀な僧が対立し、内部抗争が勃発。悪意ではなく信じる道がズレたことで、武装して争う。時同じくして延暦寺が持つ膨大な荘園を守るための戦力が必要となり、自衛のため武装し始める。

 朝廷から尊重される権威に加え、武力も兼ね備えてしまった延暦寺は次第に増長し始める。同様に力をつけた南の興福寺とも衝突を重ね、朝廷に対しても武力を背景に強硬な姿勢で訴え、要求を重ね始める(これを強訴と言う)。

 力は人を呼び、人は富を運び、富は力となる。帝すら意のままにならぬ巨大勢力と化した延暦寺は我が世の春を謳歌する。周辺に多数の関所を設け、琵琶湖の水運を握り、金貸し業にも精を出し始める。

 元々は、寺院には祠堂銭と呼ばれた寺の修繕や身寄りのない者の埋葬などに使うため信徒から集めた銭があったのだが、使い切れぬようになり民に還元する目的で超低金利(月2%ほど)の金貸し業を始めた。何処の寺院もやっていたことであったし、これ自体は民に大変喜ばれたという。しかし、次第にいくつかの寺院は気づく。

 これは金になる、と。

 祠堂銭という余剰金を用いて民の救済をするための行いであったが、徐々に金利が上がり、救済ではなく金稼ぎのための金貸しが横行する。

 比叡山系列の寺院は特にひどく、年利50%を超える金利で貸し付けていた。

 権威も、武力も、土地も、財力も、全てを備えた延暦寺。

 これはいかんと危機感を覚えた武士政権も黙ってはおらず、室町幕府六代将軍足利義教などかなり強硬で、死者を殺すは寺院を焼くは全力で潰しにかかる。それと言うのもこの六代将軍、元々延暦寺でトップを務めていた存在で、内部の腐り果てた実情をよく知っていたからこそ、このような蛮行に及んだのだろう。

 しかし、六代将軍が急死し、延暦寺を阻む者はまたしても消える。応仁の乱を引き起こし、どさくさに紛れて寺院を焼いた細川政元なる男もいたのだが、それでもなお延暦寺の権勢が揺らぐことはなかった。

 そして現在に至るまで、その絶大な力は揺らぐ気配すら見せていない。つい先日も小生意気な法華宗を捻り潰したばかりである。力技で。

 ボロボロの御所を見下ろすは比叡山延暦寺。帝が、朝廷が、困窮しようと彼らには関係が無い。力こそ正義、誰も阻む者の存在しない絶対的権力を持つ彼らこそが、ある意味天下を統べる存在、と言えるかもしれない。

 そこに道理は必要ない。

「……大層なものだな」

 長尾虎千代は山門をくぐり、比叡山に入っていた。荒廃した京の都を見下ろす比叡山は、多くの人でごった返していた。ただし、駿府などの賑わいとは少し異なる。明るい顔つきの者もいるが、かなりの人数が俯き、生気のない顔をしていたのだ。

 その理由は単純明快、

「お願いします! どうか、どうか今しばらくお待ちくだされ!」

「ならぬ!」

 広く金を貸している延暦寺、となれば当然返済しに来るものも少なくない。強面の僧兵たちが睨みを利かせ、脅すような視線で彼らを見つめていた。返さずに逃げようとすれば彼らが追ってくる。逃げ出す気も起きぬ力を、彼らはただそこにいることで債務者に示すのだ。逃げるな、殺すぞ、と。

 顔つきも暗くなるだろう。しかも信じ難いほど高い年利、返済どころか利息を払うので精一杯。そしてそれが金貸しにとっては一番都合がいいのだ。

 生かさず殺さず、延々と毟り取り続ける。

 それが金貸しの、高利貸しのやり口。

「そして、愚者を見て哂う、か」

 明るい顔つきの者は金を返しに来たわけではなさそうで、僧侶とも気さくに話していた。彼らは富める信徒であり、延暦寺に寄進して彼らの力を一部でも借り受けようとしているのかもしれない。それだけ延暦寺の名には価値がある。

 富める者はさらに富み、貧する者はさらに貧する。

 この世の縮図がここに在った。

「六郎殿、こちらへ」

「ああ。忙しいところ申し訳ない」

「なんのなんの。こちらは寄進頂く身、お待たせしたことを詫びることがあっても、お待ち頂いて謝罪される謂れはありますまい」

「あはは、道理ですな」

「ははは」

 ゆえに虎千代は彼らと同じような顔を作る。自らが勝ち組であると誇示し、それ以外を見下す貌を、演ずる。


     ○


 それなりの銭を包み、僧侶手ずからの案内を受ける虎千代。

 その道中、

「あの建屋はなんですか?」

 寺の建築物とは毛色の違う建物が目に入る。寺社に不釣り合いな匂いが、虎千代の鼻腔をくすぐる。どこかで嗅いだような、違和感。

 その問いに対し僧侶は笑みを深め、

「ご安心を、六郎殿。日が暮れたなら、自ずとわかりますので」

「……承知致した」

 格子の奥より、ちらりと見えた何か。虎千代は息を呑む。ここは比叡山延暦寺、本願寺の、一向宗の寺院にあらず。

 この地にいるはずがない。増してや建物を与えられることなど。

「…………」

 覚明は言った。延暦寺は女人禁制ゆえ必ず、男の姿で向かうように、と。彼は虎千代に明らかに路銀を超過した、何らかの方法により京で用立てた金額を渡し、集合場所だけ伝え姿をくらました。その貌の険しさたるや――

 その理由の一端が、垣間見えた気がした。

 そして、寺の案内を終えた虎千代は一室で待つように言われていた。そこには裕福そうな身なりの者たちがひしめき合い、談笑に花を咲かせる。

 堺の商人、明との貿易などで財を築いた西の豪商たち、いずれも話の内容自体は興味深いものであった。ただ、どうにも違和感が付きまとうのだ。

 何か、下卑た空気が、伝わってくる。

 それに、匂いも少し、おかしい。

「お待たせいたした! さあ、我らが延暦寺に多くの寄進を頂きました皆様に、我々からささやかなるお返しをさせて頂きたいと思います!」

 現れたのは法衣から察するに高僧であろう。待たされていた客たちも彼の登場で待ってました、とばかりに盛り上がる。虎千代だけが今ひとつ状況を飲み込めず、大人しく座して待ち構えていた。鬼が出るか、蛇が出るか、と。

 そして、出てきたのは――

「……は?」

 つい、虎千代は言葉を漏らしてしまう。まあ、それらが現れた瞬間、全員が大盛り上がりの嬌声をあげたため、聞き咎めた者など皆無であったが。

 しかし、そうなるのも仕方がないこと。ここ比叡山は女人禁制であるのだ。それ自体は鎌倉以前に生まれた宗派であれば決して不思議なことではない。女性では潜れない山門はこの時代いくらでもある。ここ比叡山もその一つ。

 その一つなのに――

「待ってました!」

 何故かそこには女がいた。それも列を成して、給仕をしている。虎千代は自らの眼を疑った。ここが本願寺の寺であれば虎千代は別に何も思わない。彼女たちがいても不思議ではなく、飲めや騒げや、存分に満喫すればいい。

 ただ、比叡山は違うだろう、と。天台宗の僧は厳しい修行をしており、戒律も厳守しているはずなのだ。そこは人間、たまに過ちを犯すことはある。林泉寺でもこっそり肉を食べてこっぴどく叱られた僧もいた。それはまあ、仕方ない。

 だけど、この光景は明らかにおかしい。

「お注ぎ致しますわ」

「はは、溢れさせんでくれよ」

「どうぞ」

「ほほう、これはまた上玉。後で頼むよ」

「はい」

 女人禁制の霊山に女人が大勢いて、それを誰も咎めずに当たり前のような顔をしている。目の前には僧侶もいるのだ。

 しかも並べられた膳には海山の幸、つまりは肉が堂々と並んでいる。女たちは酒を注ぎ、男たちはそれを呷る。嬉々として、下卑た貌を見せる。

「どうぞ、六郎様」

 吐息交じりの声が耳朶を打つ。虎千代は思わず身震いしてしまう。

「あ、ああ。ありがとう」

「まあ、とても美しいお顔ですわね」

 武田信虎に勧められて以来、ちょくちょく虎千代も酒を飲んでおり、自分が酒に弱くはないことを彼は知っている。塩気のある梅干しなどと一緒に飲むのが最近のお気に入り、酒自体は嫌いではない。嫌いではないのだが。

 この酒を、口に含みたいと思えない。

「あとで、御指名頂けますかァ?」

 蛇のようにまとわりつく声。虎千代は必死に笑顔を作り無難な対応に終始する。吐き気がする。頭が痛い。何だこの空間は。

 ここは比叡山、由緒ある霊山であろうに。

 肉を喰らい、酒を浴び、女を抱く。

 気づけば周りでは食事もほどほどに、女を抱き始める者たちが現れ始めた。甲高い声が部屋に響く。野太い吐息と共に。

 虎千代はようやく気付く。この部屋に満ちる匂いは、おそらく色欲を増進するもの。気持ち悪くもなろう。そこに拒絶反応を抱く者にとっては毒も同然。

「六郎様」

「六郎様ぁ」

「おやぁ、羨ましいですなぁ。やはり顔が良いと得ですな、何事も。ただ、独占はいけません。一人お借りしますぞ」

「もう、強引ですわ」

 駿府でも肉を食い、酒を飲み、女を侍らせた。まあ、致してはいないが、特に嫌悪感は無かった。何故ならそこに、間違いはなかったから。

 一向宗はそれを禁じていなかったから――

 景色が歪む。理屈が、捻じ曲がる。道理が、音を立て砕けていく。

 食い物が散乱する部屋、充満する背徳の香り、景色。欲に溺れる者たちを見て、虎千代の脳裏には信仰を頼りに生き、死んだ者たちが浮かぶ。

 正しければ良い。道理に沿えば、この景色とて笑って受け止めよう。何事も経験、自分より顔の良い相手が希望だが、まあそんな者一人しかいなかったので、そこは妥協してもいい。男たる者、そういう想いはある。

 だけどこれは――違うだろう。

「おや、六郎殿。どちらへ?」

「厠へ。折角の宴だ。我慢は体に毒だからな」

「ふはは、そんなものその辺に撒き散らせばよかろうに。まあ、そういうことであれば六郎殿の分は某が受け持とうぞ」

「ははは、お願い致す」

 虎千代は自分が笑みを作れているか、自信がなかった。

 ふらふらと欲に塗れた部屋を出て、歩き出す。

 そして――知る。

「……なんぞ、これは」

 境内では僧兵たちによる酒池肉林の宴が繰り広げられていた。中には堂々と僧侶も混じっている。客を招いた彼女たちとは違って、明らかに攫ってきたのであろう少女を輪姦する者たち。悲鳴が山門の中で響き渡る。

 それは彼らの興奮を煽る役割しか果たさない。

「…………」

 助けることは出来ない。いつものように我を通せるほど、延暦寺が持つ武力は甘くない。何も考えつかない。そもそもそんな手があるわけない。

 困窮する帝を、御所を、見下ろしながら盛大に遊興に耽る者たち相手に、ただ一人元服前の小僧が何を言おうと小動もしない。

 自分がもし、長尾家を継いでいたとしても、この場では無力だっただろう。ここは畿内、長尾家の力など遠く及ばぬ、『聖域』である。

「……ああ、そういうことか」

 先ほど気になっていた建物。女が出入りするそこは女郎小屋であった。山門を潜り、清く正しく在らねばならぬはずの場所に存在する、女郎小屋。

 笑えて来る。あまりにも堂々と在るそれに、笑いしか出てこない。

 もう、悪びれる気すら、建前をかざす気すらないのだ。

「僧侶も人間だ。わかっていたことだろうに」

 わかっていた。寺の中で育ったのだ。そんなことわかり切っている。彼らは人間で、修行に励んだところでそこが変わるわけではない。

 だけど、

「帰りたいのぉ」

 芯があった。例え道を違えても、光育の説教一つで反省し、もう一度正しき道に戻ることが出来る。それぐらいの、揺らぎ。

 可愛いものであろう。眼前に広がる度し難い光景に比べれば。

 虎千代は景色から、匂いから逃げるように歩いた。とにかく吐き気が収まらない。気持ちが悪いのだ。匂いのせいか、景色のせいか、京の都を守護するはずの霊山が、薄汚れた欲望のるつぼに変わっていることへの、この気持ちは――

 自分は何故吐き気を覚えている。

 自分は何故、似たような光景であっても一向宗の方は笑えて、ここの光景は気持ち悪いと思うのか。耐え難い景色だと、眼をそらそうとするのか。

 確かにスケールは違う。巨大なる比叡山全体が腐り果てている景色は、想像を絶する醜悪さであった。旅の道中、生臭坊主め、と思うことは多々あった。笑い飛ばしていたこともあったし、内心不快に感じたこともあった。

 今思えば――

「……ああ、そういう、ことか」

 ようやく虎千代は自分の性質に至る。破天荒で型破り、誰よりも自由気ままなのだと、自分でもそう思っていた。しかし、違ったのだ。

 自分はあべこべだった。

「そ、僧兵様ですか?」

 逃げた先、茂みの奥に少女がいた。年端もいかぬ少女である。顔立ちは整っており、そういう価値はあるのだろう。

「……いや、山門に迷い込んだ、武士だ」

「お、お侍様でしたか」

 少しだけホッとした様子の少女。

「其の方は?」

「琵琶湖のほとりにある村で、百姓の娘として生まれました」

「そうか。僧兵に攫われてきたのか?」

「……いえ、その、借銭の形に」

「……それは、災難であったな」

 ならばもう、どうしようもない。逃げようにも帰る家が無いのだ。こうして茂みの奥に隠れるのも、いずれ看破されあの中に放り込まれるだろう。

 それを防ぐ術などない。そもそも、虎千代が彼女を守る道理が無い。

「そこにおるのは誰ぞ⁉」

 物音を聞きつけ、酒に酔い、顔を赤らめた僧兵が近づいてくる。少女は「ひっ」と小さく悲鳴を上げた。

「まさか逃げ出そうなどと――」

 僧兵が顔をしかめた瞬間、

「この娘は俺の遊び相手だ。この大熊六郎がどれだけの銭を寄進したと思っていやがる。たかが雇われの野盗崩れが、何様のつもりだ?」

 虎千代は眼を覗き込むように睨みつける。その圧力にたじろぎ「そ、そういうことでしたら、ごゆっくり」と僧兵は足早に去っていった。

「あ、ありがとうございます、お侍様」

「……今日はしのげる。だが――」

「わかって、おります」

 少女は虎千代に向かって手を合わせ、頭を深く下げた。

「あたしのような下賤の身に過ぎた厚意です。感謝いたします、お侍様」

 そして、寄りかかってくる。

「あたしにあげられるものは……これだけです」

 やわらかいものが虎千代の身に触れる。その瞬間、虎千代は少女を振り払った。無意識に、顔を歪めて。それを見て少女は、虚ろな目を――

「ちが、これは、そういう、つもりで、俺は――」

「そうでした。あたしはもう、商売女でしたね」

「違う。そうではない!」

「お気遣い感謝いたします。あたし、もう行きますね」

 虎千代はそうではない、と首を振る。そして手を伸ばすも、少女はもう一度手を合わせ、頭を下げ、感謝を示し、虎千代から背を向ける。

 走れば間に合う。抑え込み、そうではないのだと、見返りを求めた厚意ではなかった、ただ、自分がそうしたかっただけで――

 まあ、何を考えたところで、虎千代の足は一歩も動かず、少女の背は視界から消え、あの饗宴の渦の中に消えて行ったのだが。

 傷つける気はなかった。汚いものなどと、思ってもいない。

 いや、違うか。彼女に対して思わずとも、行為に対しては思うところがあった。虎千代は嗤う。大いに嗤う。自らの矛盾、子どもらしく反発して回るだけの、愚かな小僧でしかなかった己を、嗤う。

 醜いのは自分だ。あの真っ白な世界で、守られていることに気付かずに世界を知った気になって、偉そうにしていた自分こそが、最も醜悪な存在。

 春日山だけを見て、書物だけを見て、全てを理解したつもりだった。

 正しいことが好きだった。道理に沿う景色が好きだった。反発していたのは光育が正しく怒ってくれたから。そうして正しさを確認する日々が好きだった。

 自分を襲ってきた野盗を、殺さずに追い払うことも出来たが殺した。罪を犯した。正しくないことである。だから、少しだけ期待した。

 自分に神罰が、仏罰が、下るのではないか、と。駿府では自分の考えの甘さで、自分を信奉する者を殺してしまった。今度こそ、罰せられる、そう思った。

 だけど、誰も自分を罰してくれない。それどころか、自分よりも薄汚い連中がのうのうとのさばっている。道理にかなわぬ連中が、跋扈している。

 誰も罰しない。誰も正さない。

 そして知る。この世に神などいない、と。地獄まで待たねば仏も手は出さない。嗤えるほど悠長な話である。今、正しくないものが蔓延っているのだ。

 今、除けよ。そう思う。

 出来もしない無力なモノならば、要らない。そう、確信した。

「……はっ」

 虎千代はおもむろに、自らの喉に手を突っ込む。そして、盛大に吐いた。吐しゃ物には先ほど喰らった肉や酒が混ざっており、醜悪な匂いを発している。

 全部、全部、執拗なほどに、力ずくで、全てをかき出す。

「は、くは、はは、くひ、ひ、ひひひ」

 嗤いながら、口を拭う。

「ひはははははははははははッ!」

 嗤う。嗤う。嗤う。

 今までの全てを、嘲笑う。


     ○


 覚明はずっと疑問に思っていた。何故この世はこれほどに苦しみに満ちているのだろう、と。若くして妻に先立たれ、仏門に入った。愛していた。家格が低く、父や家人に猛反対されても押し通した結婚である。若過ぎた。そして思慮が足りなかった。家格の差、そこに生まれる歪みに苦しむ彼女の心労を、理解できていなかった。ただ有頂天に舞い上がり、幸せな明日だけを見つめていた。

 失ったことへの苦しみから逃れるため仏門に入り、修行に没頭した。元々頭がよく口も回ったため色々重宝されたが、やることがあって苦しみから少しでも距離を取れるなら、と全て引き受けた。碁の指導も、その内の一つ。

 逃げて逃げて逃げて、傷痕が乾き、それほど痛まぬようになっていることに気付き、己を嫌悪した。ただ、苦しみは戻ってこない。時が癒してしまった。どれだけ認められずとも。そして、苦しみが薄れ、周りが良く見えるようになり、次第に色々と目に入るようになる。高潔でなければならぬはずの自分たちが、汚れ、澱み、腐り始めている事実に。天文法華の乱は最後の一押しでしかない。

 あの炎を見る前から、己の眼には度し難い景色がいくつも見えてしまっていた。消える銭、進まぬ再建、自分の所属する寺院だけではない。もっとひどい所はいくらでもある。全部とは言わない。言わないが、多くが皆腐っていた。

 周りを見渡し、かつての自分のように大勢が苦しみ、仏教を求めていることを知った。信仰があって、善行を積み、来世の幸せを願う。

 そう、彼らの多くは今を諦めていたのだ。

 それは仕方がないことであろう。荒れた時代である。どうしたって不幸な者は出て来る。割を食う者は安寧の時代よりも遥かに多くなる。

 だからこそ、仏教は刺さる。生まれが弾圧に対するカウンターカルチャー、それゆえに荒れた時代にこそ、仏教の精神は皆の心に届くのだ。

 だからこそ、銭となる。

 欲深き者の食い物として、寺院はもはやまともに機能していない。特に畿内はもう、どうしようもないだろう。延暦寺に限らず、大なり小なり多くの寺院は戒律に反したことを成し、生き永らえようと必死である。

 まあ、それもわかる。結局、寺院も営利でしかない。明日食うものが必要で、そのために何らかの手段を講じる必要はある。

 それはわかる。わかるけれど――

「どうだった、虎千代」

 雪がちらつき、覚明の笠には真っ白な雪が積もる。だけど、それは量が少なくて、全てを覆い隠すには程遠くて――

「……素晴らしい見世物だった。俺の人生において、ぶは、一二を争う景色であったぞ。人間行き着けば、ああ成るのだなァ」

「そうか。ならば、何よりだ」

 覚明の眼に映るは、たった一日で数年分老いたか、と思うほど大人びた長尾虎千代の姿であった。その眼は鋭く、全てを貫くような眼光を秘め、

「で、ぬしは俺に何を望む?」

 長い黒髪は風に揺れ、妖か何かのように周囲を圧する。

 雪が彼に寄りつかない。近づく前に融けて、消える。

「正して欲しい。全てを救えとは言わない。ただ、正しきことが塗り潰されぬ世界を望む。私には何も出来ない。力無き私には、自分の所属する寺院すら、変えることが出来なかった。この世は、弱き者に対し、あまりにも冷たい。せめて彼らに正しさを、彼らが迷いなく生きられる世を、望む!」

「俺は壊すことしか出来んぞ」

「構わん! 腐った木が、蘇ることはない。切り倒し、大地に帰してやる。さすれば新たな芽の糧となろう。それが正しき循環だ!」

「苦しみを撒き散らすことになるぞ」

「承知の上だ! 冷夏が続く今、全てを救うことなど出来ない。正しき世にするために、間引くことも時には必要だろう。出来もしない理想論よりも、僅かであっても可能性のある道を望む。今の世に必要なのは、善良なる統治者にあらず!」

「そうか、ならば――」

 長尾虎千代は、嗤う。

「心得た」

 その瞬間、成った。

「……感謝、する」

「要らん。ただ俺は、俺がしたいようにするだけだ」

 雲の切れ間から月光が降り注ぐ、まるで何かを祝福するような、神々しい気配。元来、大和政権が古事記によって編纂する前の神とは、人の意にかかわらず絶大な力を撒き散らす氾濫する河川、龍のようなものが多かった。

 自然の力、制御叶わぬ絶大な力を神と見立てていたのだ。

 そして今、人の形をした天災が生まれ出でる。

「その後は、好きにしろ」

 龍が――産声を上げた。

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