第肆拾壱話:御池庭ほとりで

 虎千代は一人、京の街を歩いていた。

 野良犬がそこら中を歩き回り、雰囲気もひりつきよろしくない。治安も東側の栄えている所と比べると雲泥の差と言えるだろう。

 これが都と思うと、哀しくなってくるではないか。

 そんな中を、あえて覚明を伴わず一人で見て回ろうと思ったのだ。正直に言えば関東を抜けた時点で必要なくなったであろう女装もばっちり決めている。

 この姿、存外気に入っていた。

 何しろ、

「こちら、もう少しまかりませんか?」

「……えーい、これでどうだ!」

「まあ、嬉しいですわ」

 美人はとにかく得なのだ。大幅に値引きさせた自称名物の雀の串焼きを片手に、とうとう虎千代は下京から二条通を跨ぎ、上京に入る。

 下京は商家などの庶民中心の街だが、上京は御所を中心に位の高い寺社や公家、武士などの館が立ち並ぶ上流階級の街である。

 雀を一気に喰らい切り、虎千代は意気揚々と権力のるつぼに足を踏み入れる。

 まず目指したのは――


     ○


 御所、内裏、禁裏、かつてはこことは別の場所にあった平安京の大内裏、栄えたる姿は今に至る前に焼失し、そのまま再建されることなく里内裏(別荘)の一つであった土御門東洞院殿、これが今の御所となる。

 御所とはつまり帝の私的区域、帝のおわす所。

 ここが日いずる国の中心である。

「……これは、想像以上よなぁ」

 その姿を見て虎千代は絶句する。全国津々浦々の中心である帝の座す御所が、まさかここまで荒廃しているとは、と思ったのだ。

 御所と外界を切り分けるはずの塀はそこかしこで崩れ、場所次第で御所の中が見えてしまうほどである。さて、どうやって中を覗き見てやろうか、などと考えるまでもない。その辺を歩いていれば容易く中の様子を窺い知ることが出来てしまう。

 これにはさすがの虎千代も言葉を失っていた。

 しかも、

「シャアッ!」

「バーカ!」

 どこにでもいる悪ガキたちが楽しそうに悪戯をしているではないか。塀の隙間から入り込み、屋根目がけて石を投げたり、木々の枝をへし折ったりなどやりたい放題。公家が持ち回りで見回りをしているのだが、彼らの士気も一様に低く、全力で追い回すのではなく力無く追い払うと言った様子。

 ゆえに付け上がる。

「「ぎゃはははは!」」

 悪戯を終え、颯爽と逃げていく子供たち。

 自分の大概悪童であったが、恐れ多くも御所に向かって石を投げる真似など考えたこともなかった。そもそも穴が開いており、自由に出入りできる状況がおかしいのだ。たかが塀の修繕、何故出来ないのか、これがわからない。

 虎千代は何とも言えぬ表情でぐるりと回る。上京、上流階級の街だと言うのに下京との違いがほとんどなく、どうしようもないほどに秩序を欠いている。普通ならばそもそも悪ガキも、自分のような者も、御所の周りをうろつくことすら難しいはず。それが容易く出来てしまう時点で、もはや守りなどあってないようなもの。

 朝廷の権威、ひいては帝の威光が薄れているのは十分知っていたつもりであった。だが、この光景はさすがに想定外であった。

 父や各国の守護、守護代らが軽んじているのも理解できる。

 こんな景色を見て重く見る方が難しい。

「……理解できぬな」

 京の荒廃はまだ理解できる。災厄のような応仁の乱以降、弱った権威に付け込まんと多くの怪物たちが踏み荒らした。弱っていることは帝の、朝廷の、幕府のせいだけとは言い切れない。不可抗力、時代の流れでしかないのかもしれないが、塀の一つも修理できない理由に関してはまるで理解できなかった。

 銭はあるのだ。無いはずがない。父、為景もそうだが、官位を得るために多くの大名が朝廷に献金を行っており、官位をばらまいている現状、全国に存在する49か所の皇室御領から得られる収入など、往時ほどの財力は無くとも、塀の修理が出来ないほど困窮しているはずがない、と言うのが正直なところ。

 とは言え実際に穴は開いているので、そこまで手が回らなかったのだろう、と飲み込むしかなかった。釈然とすることはなかったが。

 そうして歩いていると――御所より悲鳴のような声が聞こえた。

 塀の向こう側、丁度近くには穴もある。

「……ふむ」

 あくまで不審な音がしたため、最悪悪ガキどもと同じように逃げればいい。今回は捕まるリスクと好奇心の秤がぐらぐら揺れ、すぐさま好奇心に傾いた。

 今回『は』、ではなく今回『も』、か。

「御免」

 穴を潜るとそこには池があった。往時は見事な池だったのだろうが、現状はあまり手入れが行き届いておらず、どんよりとしている。

(……子ども?)

 池の近くで子どもが穴から侵入してきたのであろう野良犬と対峙していた。咬まれたのか、引っ掻かれたのか、服に少し血が滲んでいる。

 服装は明らかに公家、高貴なる者であろう。

 とは言え、犬にとっては相手が高貴であろうが下賤であろうが関係ない。対峙する以上飛び掛かり、その牙と爪をもって打ち倒すのみ。

 犬は勢いよく飛び掛かり、子どもは眼を瞑る。

「失礼」

 その間に虎千代が割って入った。脇差を軽く抜き、自らの牙を示す。

 そしてしかと、犬を見つめた。

「ぐ、がう」

 急停止し、たじろぐ犬。野性の勘が告げているのだろう。これ以上踏み込めば、突如現れた敵は容易く自分を打ち砕き、喰らい尽くされる、と。

「去りなさい」

 見つめ合い、格付けが済む。野良犬はすごすごと穴から逃げ出し、

「う、あれ?」

 少年はわけもわからぬまま、眼を開けた。

「悲鳴が聞こえましたので、ここを御所と知りつつも入り込んでしまいました。申し訳ございませぬ、高貴なる御仁」

 間髪入れずに虎千代は少年に向かって膝を突き、頭を下げた。

「そ、そなたが救ってくれたのか?」

「いえ。御所の威光が届いたまでのことかと」

「……そ、そうか。面を上げよ。恩人に頭を下げさせるほど、この近衛晴嗣、恩知らずではない。よくぞ御所を守った。大義である」

 近衛、その名を聞いて虎千代は頭を下げつつ顔を歪めた。越後の田舎者でも知っている名門中の名門、藤原氏の嫡流であり公家の中の頂点である五摂家が一門、近衛家。当代の近衛稙家は確か関白職であったはず。

 そんな家柄の人物が何故、野良犬と対峙していたのか――

「ありがたき幸せ」

「そう肩ひじを張らずとも良い。私はまだ近衛家の当主ではないのだ。ただの晴嗣、与えられた左近衛権中将の役割も果たせぬ、未熟者である」

「そのようなことは……」

 虎千代は内心、この小僧本当に近衛家か、と疑う。第一に姿勢が低過ぎる。関白や太政大臣を歴任する家柄である。骨の髄まで公家であり、自身を未熟者などと言うはずがない、という偏見が虎千代にはあったのだ。

 第二にこの男、諱を自分から名乗った。これが公式の場であればまだ意図もわからなくはないが、どこの馬の骨とも知れぬ相手に対し名乗るわけがない。これもまた偏見ではある。自身が好き放題諱を言い放っているのに、他人はそんなことしない。するはずがない、と思っているのだから。

 意外とその辺り、根はお堅いのかもしれない。

「左近衛権中将殿、お怪我が」

「む、あ、ああ。不覚を取った。情けないことだ」

「失礼をば」

 虎千代は自身の服を噛み千切り、その切れ端で晴嗣の傷を圧迫する。

「す、すまぬ。その、そなたの名は、何と呼べばいい?」

「とら、とお呼びください」

「とら、か。うむ、強そうで良い名だ。感謝するぞ、とら」

「光栄ですわ」

 簡単な治療を終え、虎千代はとりあえず晴嗣に向かって笑みを見せる。とにかく気に障らぬよう、細心の注意を払って好感度を高めていく作戦である。

 相手が本当に近衛家であれば、注意を払って払い過ぎることなどない。公家の権威に陰りが出ているとはいえ、五摂家相手では例え長尾為景らであっても、いや、彼らだからこそ借りてきた猫のように振舞わねばならない。

 彼らの考え一つで、朝敵とされる可能性もあるのだ。

「改めて、私を、ひいてはこの御所を、救ってくれたことを感謝する。今は名ばかりとなった近衛府(左近衛権中将などの職)だが、本来は禁中の警衛が主な任なのだ。独断ではあるが、私も近衛家に生まれた以上、天下静謐の一助とならねばならぬ。しかし危うく未熟がゆえ、御所を危険にさらすところであった」

 そんな家に生まれた男が、躊躇いなく見ず知らずの自分に頭を下げて来る。公家の中の公家、五摂家に生まれた男が、である。

「頭をお上げください、近衛様」

「晴嗣と呼んで欲しいのだが。良い名であろう?」

「そう言うわけには参りませぬ」

「ううむ」

 少し頬を赤らめている少年を見つめながら、虎千代は驚嘆していた。真っ直ぐな眼である。曇りなき眼である。自分の腰ほどの背丈、まだ五つか六つの子どもが本気で、『理解』した上で、天下静謐などと口にしたのだ。

 御所に野良犬が入り込むような惨状を知りながら、自身もまたそれで手負いとなりながら、それでもその使命感に些かの迷いもない。

 かすかに、少年の眼に、虎千代は神威を見る。

「とらよ。何故御所の塀、あのような惨状であると思う?」

「下々の私には皆目見当もつきませぬ」

「……私はそなたを弱きを守る、真に高貴なる者と見込み、身内の恥をさらす。出来れば、他言無用に頼むぞ」

「承知いたしました」

 近衛晴嗣。自らよりもさらに年若き少年。されど近衛家に生まれ、この年齢で元服を済ませ、曲がりなりにも一人前として扱われている。

 生まれが、立場が、この少年を引き上げている。

「今の朝廷は汚職に塗れておる。もちろん、御領よりの収入が減っていることはあるのだが、最大の問題は銭の流れが不透明なことにあるのだ。守護らから官位の代わりにどれだけ銭を募っても、何処かでそれが消える」

「……横領している者がいるのですね」

「そうだ。結果として、御所にまで銭が回ってこない。銭はあるはずなのに、恥を捨ててかき集めているはずなのに、どこかで消えるのだ」

 晴嗣は震えていた。天下静謐を、正義を志す彼にとって、それは許し難い蛮行に映るのだろう。本来正しく運用すべきはずの官位をばらまいてまで集めた銭が、御所に、帝に届く前に消えているのだ。これが朝廷の惨状。

 腐り果てた権力の末路。

「今、都が荒廃しているのは、ひとえに朝廷の威光が薄れているからだ。室町と共に正しく帝を盛り立てていくのが我らの使命であるにも拘らず、それをせずに私腹を肥やす者たちがいる。何人も、数え切れぬほど、おるのだ」

 内情を知るが故の義憤。

 それを見て虎千代は――

「晴嗣様ならば、正せますよ。必ずや」

 心にもないことを口にしてしまった。言った自分が一番驚いている。こんなことを言うべきではないのだ。こんな少年に背負わせる業ではない。

「そう言ってくれたのは、とらだけだ」

 これはきっと少年が最も欲していた言葉で、少年に絶対言ってはならぬ呪いであった。これは少年の生涯を縛るだろう。志が腐り果てぬ限り。

「のう、そなたは何処から来て、何処へ向かうのだ?」

「……ここではない、何処かです」

 晴嗣の問いに、虎千代はこう断言した。

「……私は生まれて初めて、自身の家が持つ強権を使いとうなった」

 少年は顔を赤らめながら虎千代にしがみ付く。まだ背丈が足りず、抱きしめることも出来ない。その弱さに、少年は唇を噛む。

「それは正しい行いではありません。晴嗣様の正義を濁らせます」

「そう、であろうな」

 小さな正義の味方を、この旅でもほとんど見ることのなかった、ただの一つの穢れ無き存在を、虎千代はあやすように抱いた。美しい者を見てきた。強き者を見てきた。この少年もまたその一人なのだろう。

 美しく気高き心。

 今の世に置いて非常に珍しく、壊れやすいもの。

「また会えるか?」

「……晴嗣様が、御変わりにならぬのであれば。いつかは」

「そうか。ならば――」

 長尾虎千代は痛感する。自分はきっと美しきものが好きなのだと。春日山に降り積もる雪のような、純白の穢れ無き姿を愛すのだ、と。

 希少で、壊れやすく、ゆえに――

「私は生涯を天下静謐に費やそう。約束である」

「はい。私も、忘れませぬ」

 虎千代は自らの行いを嫌悪する。自身がそう在って欲しいから、幼き彼を思い出で縛った。自分の美しさを利用して、この劇的な出会いを利用して、将来歪み、濁り、他の公家と同じように楽な道を征く、その道を潰した。

 少年はきっと今日の日を胸に、理想に殉じるだろう。道半ばで散ることもあるかもしれない。生き永らえても困難ばかりにぶつかるはず。

 正義の味方の生涯に安寧は無い。特に、この時代のような荒廃した世界で『それ』を貫くことの難しさを、虎千代は旅を通して理解していた。

 いないのだ、そんな人間は。何処を探しても。

 今、美しく在る者も、いずれは社会に飲まれるだろう。忘れもしない、あの粒子のような栗色の髪を思い出し、虎千代は顔を歪めた。

 またしても虎千代は他者の人生を捻じ曲げたから。

 今度は――故意に。

 正しいものが世界のどこかに在って欲しい。ただ、それだけのために。

 この半刻にも満たぬ短い出会いで――

 近衛晴嗣、後に近衛前久と名乗る男はその生涯を正義に捧げることとなる。流浪の貴公子として、多くの国を渡り歩き、天下静謐の一助となるために。

 もう一度彼らの運命が重なるかは、まだ誰も知らない。

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