第77話 《鮮血の記憶》




 そこは、地獄だった。


 足元には粘性の血が広がり、はその中心にいる。手にはナイフが握られており、その先から血がぽたりと落ちては血の海に波紋を作っていた。


 血の海から、知らない顔が現れた。目を見開き、「悪魔の子だ」と告げる。今度は血の海から無数の手が伸びてきた。の腕を引っ張り、頭を押さえつけ、血の海へ引きずり込もうとしてくる。抵抗していると、二人の手が伸びてきて沈みかけていたの体を引き上げてくれた。

 

 その二人の顔は、黒く塗りつぶされていた。だがは、二人を見て胸を撫で下ろし、自然と笑みを浮かべていた。


 ――パパ、ママ。


 との口がひとりでに動いた。だが、声がでない。静かな空間に、文字だけが浮かび上がる。


 ――わたしは、生まれてこなければ、良かったの?


 とが聞いた。二人は首を横に振る。しかし、突然周囲に現れた、首から上が無い人たちが、指を差して口々にこう言った。

 

「魔女狩りだ」


 口がないのに、彼らがどうやって言ったのかはわからない。二人――パパとママだけは、を抱きしめ周囲の視線から守ろうとしてくれていた。

 

 ――わたしが、パパとママを守るから。


 と自分が言った。二人は、慌ててを止めようとしている。

 すると、周囲で指を差していた首のない人々が、一斉に弾け飛んだ。血しぶきが舞い、血の波が押し寄せてくる。

 

 そして、自分は飲み込まれた。血の海を、どんどん沈んでいく。深く、より深く、独りになれる場所へ……。


 だが、そこで終わらなかった。


 景色が変わる。見たことのない景色。どこかの崖の上だ。遠くには夕焼け、目下には町並み。

 隣には、黒髪の大人の女性がいた。こちらも、顔が黒く塗りつぶされている。

 その女性が、静かな口調で告げる。


「悪いのは、この世界です。私と一緒に、この世界を壊しましょうよ――」


 聞いたことのある口調だ。そう、さっきまで話していたかのような……。

 

 が頷くと、時間が放流し始めた。時間の流れに捕まる。元の時間へ、元の世界へと引き戻される――。



 ――空気に匂いがある。風を感じる。


 そこで、イブキは記憶の旅から戻った。頭を抱え、目を見開き、呆然と地面を眺めている。


「な、に……今の……」


 はっと顔を上げると、そこは先程までいた城の庭だった。塔の上では、ドロシーが赤と青の瞳でイブキを見下ろしていた。

 

 そしてドロシーは、記憶にいた黒髪の女性と同じ、静かな口調で告げるのだった。


「……ねえ、コノア。ボクとの約束、思い出しましたか?」


 ドロシーの言葉に、イブキは口をあんぐりと開けたまま、


「そんな……どうして……」

 

 と意味の持たない言葉を吐き出すだけで精一杯だった。


 あの黒髪の大人の女性は、ドロシーだ。記憶が、そう告げている。だが、容姿も声も、まったく似つかない。似ているのは、あの口調と静かな雰囲気だけだ。


 もう頭の中がぐちゃぐちゃで、単純な思考もままならない。もはやイブキは戦意を喪失し、戦える状態ではなかった。


「ボクとあなたは、同じなんですよ」


 とドロシー。ドロシーは、わざと自分の胸元を指差して見せた。


「《災禍の魔女》がなんなのか……知りたければ、その記憶を辿りなさい。そして、また会いましょうよ。今度は、本当の《災禍の魔女》として、ね」


 イブキは頭痛のせいで顔をしかめながら、


「もう、戦わないの?」


「記憶の鍵は開けましたから。ボクの目的は、これで達成です」


「ふざけないで! なんで、わたしがこんなこと……」


「それはこっちのセリフですよ」

 

 とドロシーが冷たく言い放つ。続けて、


「同じ声、同じ顔の偽物の癖に」


 とだけ残して、転移魔法によってその場を去ってしまった。


 イブキは、そのまま膝から崩れ落ちた。転がる死体たちを眺め、呆然と空を見上げる。


(助かっ、た……?)


 最初に湧いてきた感情は、それだった。


 と、城を囲んでいた魔力のバリアが消え、住民たちがなだれ込んできた。その中には、ここにいるはずのない、あの男の姿もある。


 白い髪、褐色の肌、真紅の瞳。


 竜人族の王、ハーレッド=ブレイズだった。

 そこで、イブキは地面へと倒れ込んだ。そのまま、意識が遠のいていく。声が遠く、遠く――。暗闇の中へと、真っ逆さまに――。


 

 


 

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