第197話 薫風、吹く(薔薇。菓子職人×元塾講師)



 トーリーさん以外に付き合った男は一人だけ。

 大学生のとき。

 一つ上の、サークルの先輩。

 ちょっとチャラいけど、面倒見が良くて、恰好良くて。

 気付いたら、好きになっていた。

 ひょんなことから先輩もゲイだと知って、そこから仲良くなって、『恋人』になった。

 ──……あれを恋人と呼ぶのか、今は迷うところだけれど。

「な、んで」

 目の前で、にこにこ笑う彼を見て、僕は思わず呟いた。

 トーリーさんが買い物中で、本当に良かったと思う。

「ヒョーゴがさあ、前にこのへん通りかかったときに、お前見たっていうからさ」

「!」

 『ヒョーゴ』さんは、彼の『遊び仲間』の一人だ。

「何か、ここの店主っぽいのと仲睦まじそうにしてるって話で、ちょっと興味湧いたワケよ」

 お客は、彼だけ。

 彼は気にせずこちらに身を乗り出して言った。

「で、デキてんの?」

「……」

 僕は、ふい、と顔を背けた。

 デキてる、デキてないで言えば、デキている。だって、恋人同士だ。

 けれど、彼の中の『恋人同士』の範囲とは異なるし……一緒にされたくないから黙っていた。

「ふぅん。ヤッてんだ」

「……」

 明るく、爽やかな香り漂う店内とは、異質の空気。

 煙草と酒と、甘ったるい香水。そんな部屋の淀んだ匂いが、鼻につく。実際、臭っているわけでもないのに。

「けど、そいつ一人だけっぽいな。何せ、このへんにいる外国人の話なんて、全然コミュニティでも聞かなかったし。そもそもお前の噂も、全然聞かねぇしさ」

「ト……あの人は、ハーフだよ。それとあの人は、そういうところに出入りしたこと無いんだよ。……あの人も僕も、モノガミーだしね」

「お前がモノガミー!」

 思わず、と言った風に彼が噴き出した。

「お前は、どう見たって違うだろ」

「だから! 別れるときも言ったけど! ……僕は、違う。一人の人と愛し合いたいって何度も言ったろ」

 彼のことが好きで。大好きで。

 『これが普通だから』と言われて、複数の人間と身体の関係を持つよう言われて、従った。何人もの人間に身体を自由にさせたこともあるけど、でも、それは。本当は。

「常識に囚われてんだろ。実際、お前の身体は大喜びだったじゃん?」

 手が伸ばされて、反射的に後ろへ跳び退ずさった。

「……逃げられたら、傷つくんだけど?」

「知らないよ。とにかく、僕はあのときも、今も、一人の人を愛したいし、一人の人に愛されたいんだ。あなたと話すことは、もう何も無い」

「けど、物足りねぇんじゃねぇの? お前の身体、超アレじゃん」

 頭にカッと血が昇る。

 目の前が赤くなるのは、怒りの所為か。羞恥のためか。

「言っとくけど! あなたみたいなのは、ポリアモリーでも何でもないと思う」

「……ああ?」

「そう自称してるけど。でも、絶対に違う! だってあなたは、誰のこともちゃんと『見て』ないじゃないか! 『知ろう』ともしないじゃないか! 人の言うことを否定して、そんなの、『愛して』なんか、無いってことだろ!」

「……へえ」

 彼の目元がピクッと引き攣った。

「人のコト、アレソレ言っちゃってくれてんの、めちゃくちゃ不愉快なんだけどー」

「ッ」

 胸倉へ伸ばされた手に、しまった言い過ぎたと思った瞬間。

「すみませーん! おっくれましたー!」

 バーンッと厨房側のドアが大きく開かれ、強い風が一陣吹いたような、そんな気がした。

「ひむかい、さん」

「あれ、颯太さん?」

 きょとんとした顔が、こちらを見た。

 僕は、頭から冷水をかけられたみたいに、ハッとなる。

「ごめん、倉庫、行ってくる」

「了解です! お待たせしてすみません!」

 倉庫は、トイレの隠語だ。

 彼が何か言う前に、僕は厨房の方へと逃げ込んだ。

 バタンッと厨房の重いドアが背後で閉まる。

 ドア窓から見えないよう、かがむようにしてドアにもたれた。

 ドアの向こうの声が、くぐもって聞こえる。

『お嬢さんさぁ……空気読めないの?』

『いらっしゃいませ。空気とは?』

『ドア開ける前に、色々聞こえなかった?』

『ああ、何か珍しく、颯太さんが怒ってはる声はしてましたね。確かに』

『そういうときは、普通入って来ないもんでしょ?』

『そう言われましても。これ以上遅刻したくありませんから』

 あっけらかんとそう言う日向さんに、僕は噴き出しそうになって慌てて堪えた。

 声に、不満も嫌味も無く、ただただ真っ直ぐさだけがそこにあった。

『……ハアア。まあいいわ。また来るってアイツに伝えといてよ。それくらい出来るでしょ、お嬢さん』

『構いませんが……』

 日向さんが、不思議そうな声で言った。

『でも、颯太さんはお客様に会いたくなさそうですよ』

『はあ?』

『さっき見たとき、思い切り後ろに下がってましたし。あんなにお客様と距離を取って颯太さんがお話されるなんて、よっぽどのことだと思うんです』

 何の意図もない声は、いっそ清々しい。

『……クソみてぇな接客だったって店長に文句言いに来るからな!』

 カラランカラランカラランッ

 乱暴に出て行ったのだろう。ドアベルが、悲鳴のような音を立てた。

『ありがとうございましたー』

 釈然としない感じの日向さんの声に、僕はフフッと声を出してしまった。

 まったく笑える状況じゃないことは、わかっているのだけど。

「日向さん」

「あ、颯太さん。間に合いました?」

「ごめん、本当は倉庫じゃないんだ。ちょっと逃げちゃった」

「それなら良かったです」

「僕が居なくなったら、すぐ帰ると思ったんだけど。誤算だった。ごめん」

「ああ、あのお客さんですか。別にかまいませんよ。不思議な人でしたね」

 さらっと言う日向さんに、僕はまた笑いそうになってしまった。

「関係者さんですか?」

「……一応、昔に、ちょっとね。でも、今は関わりないから」

「そうですか」

 もしかして、と日向さんが、小首を傾げた。

「私、あの人の言うように空気読めてませんでしたか?」

「え?」

「いえ、関係者さんなら、本当に邪魔をしてしまっていたのかなあと」

 ぽりぽりと頬をかきながら、日向さんが言った。

「本当、私やらかしちゃうんですよねぇ。こういうの」

 気を付けてはいるんですけどねぇ、と困ったように言う日向さんに、僕は言った。

「ううん。やらかしじゃないよ」

 本当に、やらかしじゃない。

「あのとき、日向さんが入って来てくれて、僕は本気で助かったって思ってる」

 一陣の春風みたいに、爽やかで良い空気が、一気にあの嫌な気配を吹き消してくれた。

「……良かった」

 にこっと日向さんが笑顔になる。

 春の陽射しみたく、温かで明るい笑顔。

「私のこういうところが、助けになって嬉しいです」

 僕も、それにつられるようにして笑顔になった。


 つづく


 昨日(https://kakuyomu.jp/works/16816452220371917465/episodes/16816927862191942651)のつづき。

 颯太さんは、別に複数愛自体を悪いとか嫌いだとかは思ってません。ただ自分はそうじゃないから押し付けないで欲しい、そもそも相手の本当の同意がない場合はポリアモリーとは言えないんじゃないかと思っているということです。その部分も入れたかったのですが、あんまり入れれなかったので補足をば。

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