第196話 勿忘草色のシャツ(薔薇。菓子職人×元塾講師)


「ありがとうございました~」

 ドアベルが、かろんかろんと軽やかに鳴る。

「マドレーヌの菓子言葉、やっぱりみんな気になるんだなあ」

 さっきの子も、マドレーヌを見て呟いていた。

 それから、顔を真っ赤にして。

 けど、同じものを買って行った。

 もしかしたら、マドレーヌを誰かに貰ったのかも知れない。

 そこに菓子言葉の意図があったかはわからないけど、もしあったとしたら? と考えたのかも知れない。

 お菓子に込められた気持ちは、友愛か、恋慕か、それはわからない。でも。

「何か良い進展があるといいなあ」

 知らない人相手でも、そう願える。

 お菓子って本当にすごいんだな、とまたしみじみ思った。

 店内を見渡す。

 甘いバターの匂いと共にあるのは、爽やかな紅茶の香り。

(……紅茶にも、何か意味とかあるのかな。ブレンドによっては、おススメの時間帯とかあるけれど)

 店によっては、物語を付け加えているところもある。

 そういうのも素敵かも知れない。

(たくさん知りたいこと、調べたいことがあるなあ)

 また色々トーリーさんに教わろう。自分でも、本やネットで調べよう。

「……」

 チチ、チチチッ、ピピピピ……

 外で鳥たちが鳴いている。

 少し開けた窓(正面のショーウィンドウ上部は、開くようになっている)からは、気持ちの好い風が吹きこんでくる。

 春真っ盛り。あと少ししたら、初夏だ。

(何か、久しぶりだな……)

 こんな風に、知りたいことがたくさんあって、それを追う快感。

 僕は、これをずっと感じていたくて、塾講師になったのだったなあと今更気が付いた。

 学んで、誰かにそれを伝えて還元して……そういう動きの中に居たかったのだな、と。

 そして、それをするには塾業界は実はあまり向いていなかった……いや、出来る人もいるだろうし、それをしやすい環境の塾や予備校だってたくさんあるだろう。そのへんが甘かったのは、僕の怠慢だったかも知れない……のだろう。あくまで、僕にとって。

(トーリーさんに出逢ってから、色んなことを貰ってばかりだ)

 住環境に、職に、本当にやりたかったことに。

 あとは、照れくさいけれど、愛とか恋とか、そういうもの。

 自分が本当に欲しかったタイプの、そういうもの。

(僕も、何かお返し出来ていたらいいのだけど)

 これからの季節、植物はぐんぐんと伸びていく。

 店の前の木々だって、明るく濃い緑色をしている。

 そんな風に、僕も変わっていけたなら。

「……」

 僕は、前向きな気持ちで「よし」と小さく気合を入れた。

 もうすぐ、バイトの日向ひむかいさんが来る。

 そうしたら、僕も休憩だ。

 彼女がすぐに気持ちよく仕事が出来るように、軽く掃除をしておこうか……そう思い、台拭きを手に取った、ときだった。

 かろんかろんかろん

「いらっしゃいま──」

 ドアベルが鳴る。

 ドアの向こうから、勿忘草色のシャツが入って来た。

「へえ、本当に居た」

 薄青いその花の花言葉は、

「久しぶり」

 『私を忘れないで』。


 つづく


 マドレーヌを買った子はこの子です(https://kakuyomu.jp/works/16816452220371917465/episodes/16816927862170602003)。

 勿忘草色のシャツの彼は夢で一度出ています(https://kakuyomu.jp/works/16816452220371917465/episodes/16816927861077060400)。今週はこのへんをちょっと掘り下げ。

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