第165話 ワタシのセンセイ(男女。片想い。女子中学生と男性)


「え、これってつまり、どういうこと?」

「つまり、読み違えてんだよ」

 私の塾は、となりまちにある、さびれた駅ビルのフードコート。

 先生は、おじさん。親せきじゃない、ただのおじさん。

 名前は、知らない。

 年は知ってる。三十歳。

「俺はまだ三十歳だよ。おっさんじゃねぇ」

 って、前に言ってたから。

 いつもちょっとだらしない感じでスーツを着ている。

 けれど、それがほんの少し様になる。

 サラリーマンの人が着ているスーツと、なにかが違うからかも知れない。

 何だろう。ネクタイを締めてなくて、濃い色のシャツを着ているから?

「うぅ、何でこんなことに……」

「勝手に想像力の翼をはためかせんな。今、目の前にある文章だけ見てろ」

「けど、想像力があるのはいいことだよ」

「『いいこと』に使えりゃぁな。使いどころを間違えると、途端に毒になる」

 今のお前みたいに、と先生は笑った。私はむくれて見せた。

「ちょっと間違えただけじゃん」

「世の炎上事件も、そういうちょっとした間違いから来てんだよ」

 ちら、と隣の隣に座る男性を、先生が横目で見た。

 男性……おじいさんが持っているのは、スポーツ新聞で、確かにその一面には、デカデカと炎上の文字。

 ついこのあいだ、Twitterで叩かれていた芸能人のことだろう。

「想像力の翼をはためかせた憶測が憶測を呼べば、ああなる」

「ふぅん……」

「最低限の読み違えを防ぐためには、ある程度の国語力……読解力は、必須なんだよ。特に現代では」

 なるほど、と私はうなずいた。

 先生が教えてくれると、いつも『世界』と『学校』が地続きになる。勉強する意味が少しだけ、見えて来る。ちょびっとだけ、目の前が明るくなる。

 もっとも、そんなことを言ったところで、先生からは「そういうのは、高校受かってから言え」と笑われてしまいそうだけれど。

 口の片っぽだけを上げる独特の笑い方。

 出会ったばっかりのころは、ムッとしたものだけど、今は。

「どうした、春坊」

「んーん。べっつにー?」

「そうか。なら、サクサク次の問題も解いてけ。時間無いぞ」

「はいはい」

 私は問題を解くふりをして、向かいの先生を目だけでちらと見た。

 先生は、今は数学の問題集に視線を落としている。

 机に頬杖をついて。気怠そうに。反対の手に持ったアイスコーヒーのストローを噛みながら。

 こんなにやる気が無さそうなのに、「これ教えて」って言ったら、すらすらとよどみなく言葉が出て来る。

 異世界の魔術書にしか思えなかった問題たちが、いきなり現代のわかる日本語に変わっていく。

 それどころか、ちょっと楽しくさえ、なってくる。

 あ、これってそんな意味があるんだ。この方程式が生まれたのは、そのためだったんだ。この作者さんの言いたいことはこんなにも切ないものだったんだ。

 まるで、魔法だ。

「わかった!」

 そう言って私が先生を見ると、先生はいつも目元を柔らかくほころばせて、とんでもなく優しい目になって「そうか」と笑う。

 魔法みたいな瞬間。優しい目。深い声。

 そんなのを何度も見せられたら、こっちだって変わってしまう。

 勉強嫌いのただの女子中学生から、好奇心たっぷりの恋する一人の女の子に。

 最初は、「変なおじさん」しか、思わなかったのにね。


 私がここで勉強し始めたのは、この春、中学三年生になってから。

 家にお金が無くて、塾には行けない。図書館は遠い上に、自習スペースが少ない。

 けど、家だと内職の手伝いを頼まれたりして、まったく勉強自体出来ない。それならばと、こうしてフードコートのすみっこで勉強させて貰っている。

 ここは柱があって、どの店からも死角になるため、注意されづらいのだ。

 だからこそ、絡まれたりしても助けを求められないんだけど。

 夏頃。

 ガラの悪い高校生(大学生かも)に絡まれた。

 そこを助けてくれたのが、通りすがりのおじさん、先生だった。

「その子、俺の生徒。今からここで勉強すんだわ」

 おじさんは、フードコートにあるファーストフード店のトレイを、どんと机に置くと、そいつらをじろりと睨んだ。

 おじさんは目付きが悪い。そして、気だるげな、どう見てもサラリーマンには見えないスーツ姿……ぶっちゃけて言えば、ホストとかそっちの道の人とかそんな感じの……をしている。

 イキッていても所詮は学生さん。ぴゅーっとどこかへ行ってしまった。

 それが、出逢い。

 おじさんは、私の問題集や教科書や、バツだらけのノートを見てから、

「俺が勉強見てやろうか」

 と言った。

 おじさんは、元塾講師で、勤めていた塾が倒産してからは、知り合いの飲食店を手伝っているという(たぶん、その飲食店は夜の世界と関係があるのではないかと勝手に踏んでいる)。

「世話になった人だからな。その人が倒れた、助けてくれってなったら、まあ手伝わざるを得ないだろ。暇だし。けど、その人が復帰したら、やっぱり教育の方に戻りてぇんだよ」

 だから、腕がなまらないように協力してくれということだった。

 私としては願ったり叶ったりだったので、お願いした。

 もちろん、最初はものすごく警戒した。ちゃんと。

 お金をいきなり脅し取られるんじゃないかとか。変なお店に売り飛ばされちゃうんじゃないかとか。

 けれどそんな気配は一切なく、私たちはこのフードコート以外では会わなかったし、連絡先も交換しなかった。

 ここで会って、そのとき必要な勉強をして、時間になったら解散。それぞれ家に帰るなり、店に行くなりする。

 駅ビルを出て、おじさんは右へ。私は左、駐輪場の方へ。

 それだけ。

 それが安心だった夏の終わり。

 それがほんの少し寂しくなった秋の終わり。


「何かこのノート、クリスマスみたいだね」

 先生が私のノートに書き込むときは、赤と緑のペンを使う。

 それで、現在完了の時間の流れだったり、時差の求め方だったりを説明する。

 だから、赤と緑の線が踊って、まるでクリスマスモールみたいにノートを飾る。

「なーに呑気なこと言ってんだ。受験生にそんなもんはねぇよ」

 しかめ面でそんなこと言ってたくせに。

 クリスマス当日。

 先生は、私にアップルパイを奢ってくれた。

 フードコートにあるファーストフード店のもの。

 けれどそれは出来たてで、熱々ほかほかで。

 甘酸っぱくて、とろとろで、とても美味しかった。

 今まで食べたどのアップルパイよりも。

「倖せそうに食うなあ」

 先生が笑った。いつもの、あの柔らかで優しい微笑。

 アップルパイを食べ終わると、先生は自分の飲んでいた珈琲を分けてくれた。

 ブラックにシュガースティック一本しか入っていないそれは、とても苦かった。苦くて酸味があって、思わず顔中にぎゅっと力が入った。

 ドキドキもした。

 色んな味覚を、一気に味わった一日。

 イベントごとなんて受験生は忘れろ、と言われたけれど、バレンタインにはチョコレートを用意した。

 と言っても、お金も時間も無いから、チロルチョコだけど。

 ずっと大事にしていた漫画を売った、そのお金で買ったから、そこに誠意はある。

 ……大事にしていたものが、小銭程度にしか売れなかったのは、とんでもなく哀しかったけれど。

 古本屋の店先でちょびっと泣いたのは、流石に秘密だ。

 先生は、それでもバカにせず「ありがとな」と言って、食べてくれた。

「何か、お返ししなきゃなぁ」

「え、いいよ」

「こういうのは気持ちだから。ホワイトデーにお返しやるよ。何がいい?」

 チロルチョコなのに、と遠慮する気持ちと、お返しという甘い言葉にときめく気持ちと。

「それじゃあ」

 私は、ニカッと明るく笑って、

「遊園地連れてってよ! こんな若い子と遊園地デート、悪くなくない?」

 わざと冗談めかして言った。

 断りやすいように。断られても、冗談にして傷付かないように。

 先生は目を丸く見開いたあと、

「……高校、合格してたらな」

 と言って、笑った。

 あの優しい眼差しで。

 私の胸いっぱいに、ぎゅうっと熱くてキラキラしたものが広がっていく。

「……がんばる」

 全然冗談っぽく言えなかった。

 本気も本気でしか、言えなかった。

 先生は「おう」と言った。あの笑顔のまま。


 そして、ホワイトデーから数日経った合格発表。

 あれだけ、人生で目の前がぶわーっと明るくなった日って今までなかったんじゃないかと思う。

 自分の番号が見えた瞬間。

 本当にそこだけが輝いて見えた。

 さぁっと明るい光が広がっていくみたいだった。

 単に雲間から光が射しただけだって多分みんなは言う。

 けれど、私にはどうしてもそれだけとは思えなかった。

 胸がドキドキ弾んだ。

 高校に行けるというのもあるけど、先生と遊園地に行ける、という方が大きかったかも知れない。

 その日、学校が終わってすぐに先生に会いに行った。

 先生は、いつもの場所で気だるげに珈琲を飲んでいた。

 けれど、私の顔を見ると、ふわっと笑みを浮かべた。

「……おめでとさん」

 私が何か言うより先に、先生が言った。

「よくわかったね」

「顔に書いてある」

 そう言って、先生は私を見た。

 真っ直ぐに。柔らかで力強い視線。

 私は照れて俯きそうになるのを堪えて、その視線を受け止めた。

 ぶわっと湯気が出そうなくらい、身体中が熱かった。

「受かったよ」

 私は、つとめて何でもない風をよそおって言ったのだけれど、どうしたって声がはしゃいでいた。

「ありがとうね、先生」

「がんばったな」

 先生はそう言って、それから。

「……どうする。いっそ、今から行くか?」

「え?」

「ホワイトデーの遊園地」

 先生の目は、本気だった。私は一瞬迷った。

 これから。

 夜のイルミネーションの中、先生と歩く自分。

 ぴかぴか光る遊園地は、きっと眩しくて、楽しい。

 けれど。

「……んー。今日は、止めとく」

 止めてしまった。

 門限もあるけれど何よりも、

「あ、朝から、遊びたいしっ」

 自分の欲を、優先して。

「……そうか」

 先生は、優しく引き下がった。

「だからね、今日は作戦を立てたいなって思って!」

「まあ、効率よく回りたいしな」

「そうそう!」

 その日が、いっちばん楽しかった。

 鏡を見なくてもわかる。

 私はきっとほっぺたを赤くして、キラキラ笑っていたと思う。

 先生も、楽しそうだった。

 あれに乗ろう。これが気になる。そういえば、今のパレードってどんなのだろう?

 私たちは、うきうきする数日後を思い描いてはしゃいでいた。

 夢みたいな時間を夢見ていた。

 その時間こそが、夢のようだった。

「それじゃあね、さとしくん!」

「先生から、いきなり『くん』かよ」

 別れ際。私は初めて先生の名前を聞いた。

 小野田おのだ 智というのが、先生の名前だった。

 さとしくん。なんて、可愛い響きだろう。

「また、月曜日に」

「ああ、またな」

 そう言って、いつもと同じように左右に分かれた。

 今日は、何度も振り返ってぶんぶん手を振った。

 意外なことに、彼も律儀に振り返っては、軽く手を振り返してくれた。


 ……名前を聞いておいて良かったと、思った。

 本当に良かったかは、また別として。

『──昨日未明、遺体で発見……』

 月曜日の朝。

 起き抜けに見たニュースで彼の名前を聞いた。

『小野田智さん、三十歳と判明。死因は刃物による……』


 嘘だと思いたくて、いつも通りフードコートで待っていた。

 けれどもいつまで経っても彼は来なくて。


 ああ。本当なんだと、真っ暗になっていく窓の外を見て実感した。

 もう二度と、私の前の席に、あの人は座らない。

 あの眼差しが、真っ直ぐに私を見ることは二度と無い。

 二度と、無いのだ。

「……ぅ」

 ぎゅっとスカートを握り締めた。

 そこに落ちてきた水滴なんか見たくなくて、ギュッと目を閉じた。

 目を開けたら、呆れ顔で彼が前に座っていそうなのに。

 ざわめきはいつもと同じなのに。おかしい。彼が居ない。

「……ぅぅぅっ」

 行けば良かった。

 行けば良かった。

 読み違えたんだ、欲で。

 本当はあの日、何が何でも行くべきだったんだ。

 彼と二人、数日遅れのホワイトデーの遊園地。

 どれだけ居られるだとか、門限だとか、ぜんぶ気にしないで。

 手をつないで。ぴかぴかのイルミネーションを楽しんで。

 そうしておけば、良かった。

『これ、これ乗ってみたいんだよね』

『どれだけ並ぶんだろうなぁ』

『並んでたって、楽しいよ』

『そうかぁ?』

 近いうちに叶えられるはずだった予定が、眩しくくるくる頭の中を回る。

 綺麗なメリーゴーランドみたいに。

 近いうちに叶うというわくわくだけが、その感触だけが、残ってしまった。

 それはもう、二度と叶わないんだよと教えても、心は全然納得しない。

 吃驚している。

 どうして? って。

 だってあんなに楽しくって、具体的に話を決めて、もうそこに行っているくらいに確実な夢だったのに。

 あのくらくらするほど楽しい気持ちが、今の私をじわじわ責める。

「……なんで」

 頬が熱い。このあいだと違う熱さ。唇が震えている。

 強烈に、今、彼に会いたかった。

 あの眼差しを見たかった。

 もういっそ、遊園地に行けなくてもいいから。

 一度だけでも、あの大きな手に触れたかった。

 私は、いつまでもいつまでも、ずっと目を瞑って俯いていた。

 目の前に彼が現れてくれるまで。

 ずっとずっと、こうして待っていたいと、ただそれだけを願った。


 END.

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