幕間 自由を求めた少女・一






 考えてみれば初めから、私の人生は自由のない檻の中で始まっていた。






 人攫い、というものに私は遭った。

 当時の自分の年齢がいくつだったのか、戸籍を持たない私ではわからない。

 出自不明とはいっても、私は一応、人間であるからして母親と呼べる存在がいたらしいのだが、あっさりと殺されてしまったようだ。

 本当に悲しいことに母が自分を庇ってくれたことなど一切覚えていないのだが、母を殺した男が顔に傷を受けたと何度も何度もしつこく毒づいていたので、その悪態だけは一言一句覚えている。

 まぁ、紆余曲折はあったものの人攫いに捕まった私がどこかに売り飛ばされるのは必然だ。

 一〇年間。

 それだけの時間、空というものを見ることができなくなる私が見た最後の景色は、ぶくぶくと肥え太った貴族様にお似合いの、立派な豚小屋おやしきであった。

 とはいえ豚は豚でも偉そうな豚がいるらしく、私はその豚以下の存在に堕とされる。

 私がこれ以降、ご主人様として尽くすことになったそれは、『子供趣味の変態領主』と呼ばれるくらいには物好きな性格だった。

 まだ成長期すら来ていない子供を裸で連れ回す「朝の散歩」を日課にしたりしている時点で、そう呼ばれるにふさわしい振る舞いだと言えるだろう。

 普通、いくら奴隷とはいえボロキレくらいは纏わせてもらえるものらしいが、私は生まれたままの姿で生活することが当たり前になってしまったので、羞恥心というものを覚える年頃になっても、どうすることもできなかった。

 ああ、言い忘れていたが、私にも名前はあった。

 売り飛ばされた当時も、さすがに自分の名前くらいはわかっていたし、今もその名前を使っているが、豚以下だった私に与えられた名前は二二番。

 二二番目の家畜だった。

 もっとも既に、一番から二〇番は死んでいた。わざわざ丁寧に生前の写真まで残していたようで、ずらりと並べられ見せつけられたのだが、年齢もバラバラで、顔立ちにすら共通項がない彼女らは、どこか無邪気な笑顔で——子供らしく、笑っていて。

 つまり、実年齢など関係なく、幼児体型を求めていたわけでもなかった。

『子供らしく』。それが、豚貴族の求める本質だったのだ。

 実際に、唯一まだ生きていた二一番とは言葉を交わす機会がいくらかあったが、一八の歳は軽く回った見た目だった。しかしいくら家畜のように(偽りなく)育てられたとはいえ、癇癪を起こしやすい奴の一挙一動に怯え、頬を引っ叩かれただけで泣くような、『子供らしい』一面は——正直言って、気持ち悪かった。

 そう、私は違う。私は豚以下の存在であったとしても、甲斐甲斐しく媚びへつらい主人のご機嫌を取るような真似はしなかった。

 そうだ。どれだけ力づくの辱めを受けたとしても、屈しなかった。



 ころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころす、

 ———————殺す。



 ただ、心の中にあったのはそれだけ。

 殺意の波動だけが満ち満ちていた。

 わずかな安息は眠りに落ちた時のみ。

 自身がとある小国の姫となった夢を見ることもあった。

 夢の中ではおよそ姫らしくないことを繰り返すだけであったが、今よりは幾分と自由があった。

 私はずっと、自由を夢見ていた。

 が、目が覚めた頃には全てが朧げで。

 結局はただの現実逃避。

 改めて言うが、一〇年間。

 暗くジメジメした地下牢の奥深くで、嬲る、としか言いようがない辱めを受けつつ、殺意と気力だけを持って生き続けた。

 しかし。

 一四歳になって。成長した女などいらない、と言われる。

 解放してやると。

 勝った、と思った。

 ついにやってやった。私の勝ちだ。

 押さえつけられない爛々とした私の憎悪に、豚主人は耐えきれなかった。

 このクソ忌々しい地下牢からもおさらば。

 ここを出て、私は、ここを出て——、

 いったい、何がしたいんだろう。

 初めにそう思った。

 わからない。何をすればいいかわからない。

 それでもやりたいことを…………見つけた。

 復讐だ。復讐ならやりたいかもしれない。でも、復讐は一回しかできない。

 その後のことは、やっぱりわからない。

 でも、とりあえずやろう。

 ——私はそう決めた。

 地上への階段が開く。

「お前は自由だ」

 と、背後から聞こえる。

 すぐにその醜い身体に包まれた心臓を抉り取ってやりたかったが、我慢した。武器がない。痩せ細った身体では、奴の首に込める力はなかった。

 私がふらふらと歩いて地上にもうすぐ出ようかという時、暗がりから男が飛び出してくる。その手には刃物が光っていた。

 が、すぐさまその男自身の勢いを受け流して、地面に叩きつける。深く考えていたわけではない。ただ、どうやら私には『殺し』の才能があったようだ。

 手に取った初めての武器は、驚くほど手に馴染んだ。

 太い頸動脈を掻き切るのに、造作も躊躇いもなかった。

 本当は手芸とか料理とか女の子らしい才能があればよかったと今は思うが、神様は残酷だ。

 神様はいなくて、死神だけがいた。

 ちらと豚主人を見やると、醜い悲鳴をあげていて。奴ももちろん殺そうとしたが、護衛が集まってくるのを感じたので仕方なく逃げ出した。


 領地から抜け出して、どれほど歩いただろうか。

 太陽の光の懐かしさにも一瞬で慣れて、とにかく空腹だけが頭を支配していた。地下にいた頃、飢えを凌ぐために雑多な虫類を食べることなど珍しくなかったが、その「食料」を取る元気もなかった。

 ——ああ、死ぬな。

 直感でそう感じていた。

 力尽き土の感触を存分に味わっていると……足音が聞こえた。

 薄らいだ視界と意識で、対象を無理やり認識する。

 足音の主は、軍人風の男だった。

「とりあえず、これやるよ」

 素朴なパンを差し出した、青年とも壮年とも取れる風貌の男は、本能だけで一週間ぶりの食事にがっつく私を見て、笑いながら言った。

「お前、迷子か?」

 その光景はどこか——一〇年前のあの日に似ていて。


「アンタが……次のご主人様?」


 一言目に出た言葉が、結局それだった。

 私の精神は既に、奴隷根性で染まりきっていたのだ。

 私の中の『ご主人様』が、その男に更新された。


 むせ返るような男の臭いに耐えきれなくなって、私は渋々と目を開けた。

 視線の先には薄板を貼った天井。ただしあまりにも近い距離。違う。これはなんだ? 

 記憶が混濁している。たしか私は自由を手に入れて……、そうだ。私は腹が減っていたのだ。ベタつく食べ物を口にしたところまで、思い出して。それから自分の新しいご主人様のことを思い出した。

 体を起こすが、狭っ苦しい空間ではごつんと頭をぶつけてしまう。

 仕方ないので明るい方向へ這っていく。さっきから下品で大きい笑い声ばかりが耳に届いていた。

 顔をひょっこりと出せば、全ての視線が私に集中するのがわかった。

「おっ、美少女。目ぇ覚めたか」

 いの一番に、ご主人様が声をかけてくる。

「……た」

 何か言おうとしたが、喉が絡まって声が出ない。

「おいおい、女の子ビビってんぞ、リーダー」

「下心バレたかー?」 

「うるせぇ! テメェらの悪人顔よかマシだよ」

 周りのヤジに怒鳴り散らしてから、私より・少し・歳上にしか見えない男は、姿勢を下げて目線を合わせてきた。

「なぁ。お前、腹減ってない?」

「減ってる」

「だよなぁ! あんなクッソまずいパン、ガッツガッツ食ってたもんな! おい、バルガ! 食糧庫からなんか掻っ払ってこい! できれば肉!」

「無茶言わないでください。下手すりゃあ、撃ち殺されちゃいますよ」

 バルガと呼ばれた小柄な男が、俺ぇ?とばかりに自身を指差している。

「あんなウスノロ兵士に見つかるタマじゃねえだろ、お前。あー、わかった。地元帰ったら村の女紹介してやるから。潮風で育った女はいいぞー?」

「あんたそれ言えばみんなが言うこと聞くと思ってるでしょ。まあ、行きますけど」

 行くのかよ!という周囲の笑いを受けつつ、小柄な男は薄茶色の布を蹴散らして外へと出ていく。ここはどうやら、巨大な天幕の中のようだ。

「ちょっと待ってろ。うめぇもんいっぱい食わせてやるから」

 と、その小柄な男よりも小柄かもしれないご主人様は、ニッと笑う。

「あ……どうして、」

「『おおっ⁉︎』」

 私が初めて言葉らしい言葉を喋ったからか、一気に注目が集まる。

 ……大勢の人間に囲まれるということ自体経験ないことだったから、言葉に詰まる。それを察してくれたのか、威圧を解くように手を払ってくれた彼に対して。

「……ご主人様は、どうして私を助けてくれたの?」

 私が真剣に思った一つの疑問に、空間が一瞬だけ固まる。

 そして、その直後、一気に爆発する。

「ぶっははははははは‼︎ ご、ご主人様⁉︎ リーダー、すでに手篭めかよ!」

「どんな鬼畜プレイしたんだ。このロリコン変態ドS野郎!」

「うわー、いきなり連れ帰ってきた時から怪しかったけど、正直引くわー」

 皆、一様に私の台詞に対して反応している。

 なぜだろう。主人と奴隷の存在が、ありえないみたいな言い方じゃないか。

 周囲の男の一人が『可哀想に……』などと頭を撫でてくる。ウザい。

「違う違う! ガウル、その気持ち悪い演技はやめろ! 何もしてないって、本当に! ていうか何言ってんだお前⁉︎」

 そして、一番動揺していたのは、当のご主人様だった。

 余計にわからない。

「何って、……施しをしてくれたじゃない。…………あ、いえ、施しを下さりましたので。御恩をお返しできるよう、精一杯、奉仕させていただきます」

 もしかして敬語じゃなかったのがいけなかったのか。それなら納得がいく。元ご主人様に対しては反抗的な態度ばかりだったので、ついその癖が出てしまったのだ。

「うおぉ……なんか、プレイってよりガチな感じするぞ」

「リーダー……あんた、妻子がありながらこんな若い娘に本気で……」

「だーかーらー、知らねぇっての! おい、美少女! あんま適当なことばっかり言うな! オレの名前はご主人様じゃにい!」

 親指で自信満々に胸を張るご主人様は、どうしてか顔がみるみる赤くなっていく。

「あ、噛んだ」

「動揺してる」

「いっつも大事なところで噛む」

 それでも結局彼は、冷やかしらしき声を無視して、


「オレは、カイトだ」


 私の目を見て、まっすぐ。

「はい、カイト様」

「違う。カイトだ」

「カイト」

「そう、そうだ。様なんてつけるな」

「かしこまりました、カイト」

「……なんか違うけど、とりあえずいいや」カイトはこめかみを指で掻いた後、「それで、お前の名前は?」

「…………」

 名前。……名前。

 もちろん意味はわかる。個人の識別するための呼び名だ。けど、私が知っている私の呼び名は、『名前』ではなく、おそらく『記号』。

「二二番です」

「二二番?」

 意味不明という反応をされる。やはり間違っているらしい。

「いえ、なんでもありません。私の名前は……」

 ない、と言った方が話が早いのだろうけれど。

 二二番という『記号』を捨てた今、どうにも疼くものがあった。

『——』

 顔も忘れてしまった、けど、暖かな笑顔。

『——』

 名前というものを呼んで。

『ニア』

 血みどろの体を抱いて、

『愛してる』と、彼女は。

「——ニア、です」

 忘れていたそれを、思い出す。

 彼女が何者なのか、母親なのか、知る術はない。

 彼女はもうきっと、この世界にはいない。

 だけど、もらった永遠(なまえ)は受け取っておこう。

「ニアか。スッキリしてて、いい名前だ」

 カイトは、にかっと笑って私の頭に手を置いた。

 線の細い体のくせに、その手はかなり大きく感じた。


「よろしくな、ニア」

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