第3話:教育と雇用のあり方 ①
私がこの提案をした理由に“公立校と
私立校の教育格差“と”教育内容の格差“が顕著になっていること、子供自身が教育機会の選択が十分に出来ないことでタイミングがずれてしまい、目標を実現できないことなど将来設計などをするときに子供たちの選択を狭めることはあってはいけないし、家庭の事情や経済的な理由でその夢を諦めることがあってはいけないと思うからだ。特に、教育環境や発育環境などが将来の人生形成や各段階で決める目標などに対して大きな影響を持っていることは言うまでもない。ただ、子供たちに対して”投資“することも平等に出来るようにならないとその子が仮に才能があったとしてもその才能を潰してしまう可能性があるのだ。
そして、両親もその気持ちが強くなるが、自分たちの所得の限界や所得の不安定などさまざまな起因が子供たちの向上心や興味・関心とのバランスを考えると難しい面を持っている場合も多い。
そして、子供たちはその空気を感じてしまうと自分でやりたいことを自分で抑制してしまうのだ。その結果、自分でやりたいと思ったことを出来なくても我慢してしまい、他の子たちが出来ていると「自分もやりたい」という本人が心に秘めていた感情が爆発してしまうことやそういう気持ちであっても周囲からからかわれるなど社会の不平等に遭遇することも十分に想定されるのだ。
もちろん、これらの問題に本人も正面から向き合う必要はあるが、これらの問題に対して悲観するような向き合い方ではなく、周囲がその子を後押しするようなサポートと全面フォローしてお互いに前向きに進めるように誘導することも大事な事だろう。
そして、日本ではどちらかというと有望性や将来性など社会に対して寄与できると確信した子供や人しか表立って育てようとはしないし、良い人材になるとお金を積んでまで引き留めようとするが、そうではない人たちは簡単に解雇などをされてしまうのだ。この差は一体何かというと1番可能性として高いのは“社会的価値”と“社会的評価”だろう。これらを列挙した理由として今の日本の個人評価基準として“実績”・“ブランドバリュー”・“帰属性”などが高くないといけない。そのため、企業などでも“実績のある社員”と“そうではない社員”の風当たりが違っている“、”上司から評価が良い“など会社に利益をもたらしてくれると期待できる社員は自社で抱え込む傾向があるように感じる。そして、そうではない人材は躊躇なく手放していく事で会社の”不採算人材“にならないように社員整理を定期的に行っている印象が強い。
私自身、こういう現場に何度か遭遇したことがあり、情報も多方面から入ってくる事が多かった。そして、私が得た情報を基に分析していくといくつかの共通点があった。まず、“会社への帰属性が低い社員ほど扱いにくい”ということだ。これは、今の社員はどちらかというとプライベートと仕事を切り離して考える人が多い。そして、残業をあまり好まず、定時で帰ることが当たり前のような感覚を持っている人も多い。こうなると、企業にとっては“会社のために働いてもらえない”という印象を持つことになり、不当解雇などに繋がってしまうことも少なくない。
次に“ブランド・マウンティング”だ。これは、その人が卒業した学校で待遇を変える、その人の卒業した学校を全面に出して営業活動をするなどその人の利点を全面に出して“自分の会社を成長させたい”、“イメージを良くしたい“と思う気持ちの裏返しなのだ。確かに、この行為は日本社会において生き残っていくためには必要な行為ではあるが、やりすぎることで”イメージ操作している“や”良い社員を全面に出して社員を潰そうとしているのではないか?“など取引先や社会全体から不信感が出てしまう可能性がある。
だからといって、良い人材だけを確保しても人材というのは適切に育てていかないとその人の中にあるポテンシャルを潰してしまうだけでなく、その人がせっかく持っている素敵な能力を伸ばすことなく朽ちさせてしまう可能性があるのだ。
私が市場マーケティングをしてみると分かってきたのは“自益性”や“個別価値の高さ”が主となって、そこから“利益性”や“連鎖性”など個人が社会全体にもたらす“影響力”を持っているかという点だ。
このように思った背景がいくつかある。まず、“個人の力”と“個人もしくは所属企業や事務所の業界内におけるパワーバランスとの整合性”だ。
これはいろいろな記事などでよく読むのだが、個人の能力に対してその会社が業界内でどの位置にいるのかをきちんと理解し、今いる人材に対して適切なアプローチが出来ているのか?という“会社における人材育成の在り方”が問われる部分である。
私は人材育成が出来ない会社や事務所ほど既存の考え方に依存してしまい、成長が見られないことや学歴差別や経歴差別などの要素を含んだ偏向的な視点から物事を判断しやすくなるなど個人よりも会社や事務所などが優位に立たせてしまうことで個人を守るのではなく、会社を守ってしまう。これでは会社が仮に成長したとしても成長に対する相対評価をすることが難しくなり、気が付いたときには深刻な人材不足に陥るということも十分考えられる。
しかしながら、日本というのは良い人材にはフォーカスするが、自分で育てようという意識はあまり見られない傾向にある。そして、人材によって契約時に提示される相対賃金も変わってしまうなどまるで“人間版オークション”状態になっているのが現状だろう。
これが以前から永続的に行われてきた結果、その業界や企業などの社会的イメージがダウンすることで自らの手で“人手不足”や“人材不足“を招いてしまうのだ。
そして、何とかして人を集めようとするが、その時にはもう手遅れに近い状態までイメージなどが悪化していることも少なくない。
ではなぜ、このような状態になるまで気が付かないのか?
私がさまざまなケースを分析して感じたのは“大手企業だから”・“社会的認知が高いから”・“地域に根付いているから”など“自分たちは周囲に対して幅広く認知されているから大丈夫だろう”という楽観的な考えをもっているケースや“安く雇って会社の利益に繋がればいい”などの過剰な帰属意識による利益至上主義や自分自身の人事評価などの個人評価を上げるために会社が求めている事を忠実に行い、邪魔になる人を排除するというスタンスが定常化してしまうなど“自分の行動・判断は正しい”という事を大々的に誇示した結果だろう。
これは教育的観点からも同じ事が言えると思う。なぜなら、現在は経済力がある家庭ほど子供に対するお金を惜しみなく使い、子供たちが育つ環境がかなり潤沢化していく傾向にある。つまり、家庭の経済状況が子供の未来の幅を広げていることに繋がるのだ。そして、その環境が当たり前の日常と化すことで同じような環境ではない人に対して偏見や差別を平気でできてしまうのだ。これがいわゆる“社会的優越性”という社会におけるパワーバランスの縮図のようなものだ。
一方で、経済的に厳しく、子供へお金が使えない状況にある家庭にとっては子供の才能があったとしても、その才能を活かせるだけの余裕がないため、子供が育つ環境が限定化しやすくなってしまう。その結果、中学卒業後に働き始めるなどして家庭を助けようとする心理が働くが、中学校卒業では定職に就くことはまず難しい。なぜなら、日本の場合は一定教育を受けられないと通常水準の生活を送ることは出来ないからだ。そして、企業などの場合は高卒や大卒といった採用基準の学歴が存在するため、該当しない人は応募すら受け付けてくれないこともある。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます