04-02 『魂』
サトウ・タナカとは何者だ?
なぜ自殺した?
死亡手続きはどうしたのか?
おれは今、とてつもなく厄介な出来事に巻き込まれつつあるのではないか──
そこまで考えたとき。ぽつっ、とひとつの思考が浮かび上がった。
そもそも──いま向こうにいる〝依頼人〟たちは何者だ?
(もしかすると彼らは福祉支援者でもなんでもない、もっと別の役割を持った──)
──ぞっとした。
夜明け前、隠すように運び込まれた少女の遺体。
棺に付きそう彼らの目には、ひとかけらの警戒が滲んでいた。
いかにも複雑な事情の遺体だから。そう思っていたが、しかしあの雰囲気を、おれはどこかで。
その瞬間、閃きが胸の奥で光った。あっ、と思った。
通り過ぎそうになる違和感の正体をようやく捕まえて、おれは確信する。
(なぜ、気付かなかった)
おれは知っていたはずだ。同じものを、かつて何度も見た。
呼吸の間、視線の動き、記憶を探るようなまばたきの様子、言葉を口に乗せる直前のかすかな逡巡。どれもこれもそうだ。
(あれは──演技の兆候だ)
薄暗い疑念が確信に変わった。
間違いなかった。彼らは嘘をついている。
なにか良くないことが進行しているのだ。
あの〝依頼人〟たちはサトウ・タナカの支援者などではない。
ひとりの少女が不法に焼却されようとしている。
「……だが、おれは──」
そのとき。けたたましい電子音が鳴り響いた。
びくっ、と肩が跳ねる。鼓動が一気に駆け上がる。
反射的にペーパーナイフを掴む。
だが、電子音は現実で鳴ったものではなかった。
視界の隅で、アイコンが赤く点滅している。リディアからだった。
こんな時間に珍しい。しかも急用を示す赤が激しく光っている。
おれはまだやかましい心臓をなだめ、わずかに逡巡した。
彼女がアイコンを赤くするのは初めてだ。本当に緊急なのだろう。
音声通信なら遺体は見えない。
しょうがない、とデバイスをつけた手首を叩くと、耳元に手をやった。
電子音が鳴り止み、代わりに声が聞こえてくる。
『シヅキ? 朝早くにごめんなさい』
「この暗さを早朝と呼んでいいかは疑問だな。どうした」
『忘れ物をしたみたいなの。たぶんそっちだと思うんだけど……』
なんでも、仕事で使う資料、それも紙をうちに忘れたそうだ。
よりによって物理ペーパーのような社外秘を忘れるとはまったく彼女らしくない。
見つからなかった場合、始末書で済むとはとうてい思えなかった。
おれは少女の遺体にちらりと目をやる。仕方ない、と息を吐いた。
音声通信だというのに、なんとなく後ろめたくて書類を裏返す。
視線を上げ、特徴は、とつぶやいた。
『グレーのファイル。IDが書いてあるわ。言うわね』
すらすらと十桁以上のナンバーを口にするので驚く。リディアが小さく笑った。
『あなただってこれくらいできるでしょ』
「数列は専門外だ」
『台詞と一緒よ。五感を使うの。絵と歌と思って覚えればいけるわ。たしかそう──文字列のシルエットを見るんだったかしら、そうでしょ?』
「……物語がないと難しいんだ」
『ほんと、局所的な才能ね』
「トレーニー様とは違うからな」
リディアがため息をつく。
『とにかく。今はファイルよ。急ぎなの』
「そうだな」
この家でリディアがうろつくとしたらキッチン付近しかない。
おれは通話を繋げたまま、そっと安置室を出た。
念のため、ペーパーナイフは持ったままだ。
廊下を抜け、プライベートスペースへと通じる階段室を目指していると、待合に続く扉が見えた。
心臓がかすかに冷えた。
あの向こうで、〝支援者〟たちが待っている。
彼らは何者だ。
無意識に耳を澄ませたが、厚い扉の向こうだ、当然のように会話は聞こえない。
そっと息を吐くとおれは階段室に身を滑り込ませた。
階段を下り、私室を抜け、キッチンへと向かった。
ファイルはなかなか見つからなかった。
待合の〝依頼人〟を思うと焦りがこみ上げたが、現実逃避したい気持ちも手伝って、おれはひたすらファイルを探した。
キッチンの棚という棚をひっくり返し、ようやくファイルが見つかったのは、なぜか冷凍庫の底だった。
「あった。……なぜ冷凍庫に?」
『嘘。なんでかしら』
おれに聞かれても困る。わずかな沈黙ののち、思い至ったようなため息。
『……アスパラね』
どうやら買ってきた冷凍野菜と一緒に入れてしまったようだ。
彼女にしては珍しいミスだった。
ファイルを裏返し、IDを確認する。
おれは上七桁しか覚えていなかったが、リディアいわく間違いないらしい。
明日の朝に取りに来るという。
「いいのか? 重要書類だろう」
『今日は立て込んでて。場所だけでも確認できたからなんとかなるわ。そうそう、冷凍庫を開けたならわかってると思うけど』
「夕食は青トレイ」
『そう。ちゃんと食べてね。それから──』
「リディア。すまないが仕事中だ」
『ごめんなさい。このあいだの紹介ね』
ああ、とうなずく。
そのまま通話を切ろうとしたが、あの〝依頼人〟たちについてリディアに尋ねてみるべきか、迷った。なにせ彼女は紹介元だ。
『……どうしたの?』
「いや、その」
なにから聞けばいいのか、そもそも聞いてもいいのか。
彼らは何者だ、どういう知り合いなんだ、サトウ・タナカの遺体にはなにがあるんだ、なぜ死亡手続きがされていない、あの子をこのまま焼いてもいいのか。
疑問は山ほどあった。だが、尋ねることでリディアを巻き込むかもしれない。
逡巡ののち、おれは結局、最後の問いだけを口にした。
「あのご遺体。焼いても──いいのか」
『……やめてよ』
「え?」
リディアの語尾がかすかに震えた。
おれがなにかを言うより先に、リディアの声が高くなった。
『いくら〝子供の死体〟だからって。いちいち私にお伺いを立てないで。だったらなぜあのとき──』
「おい、そうじゃない。聞いてくれ」
『違わないわ。あなたはずっとそう。人の目から逃げだして、世間から隠遁して、死体と炎とばかり向き合って、私がいなければ買い物もできないのに』
「リディア」
『あなたは立派だったわ。尊敬していた。なのに私と社会を裏切った』
「リディア、今は違う話を」
『それでも、それでも私は──』
「リディア!」
そのとき。通話の向こうで電子音が鳴った。
いいのか、と問うと昔の妻はふっ、と黙り込む。
沈黙。電波越しに鳴り続ける電子音。
『……大事な映話が入ったみたい。切るわ』
「すまない」
『私こそ、……言い過ぎたわ。ごめんなさい。また明日』
ふっつりと通話は切れた。
急に辺りが静かになった。
整然としたキッチンの向こうに、散らかり放題の私室が見える。
おれは大きくため息をつくと、頭をかきむしろうとして、やめた。
リディアは正しかった。いつも。おれとは違う。
「…………戻ろう」
サトウ・タナカ──ここまでくれば、おそらくこれも偽名だろう──が、おれを待っている。
いつまでも放っておくわけにはいかない。
〝依頼人〟が何者か、おれはどうすべきなのか。
迷いはいくらでもあったが、ここにいても仕方がない。
おれは踵を返すと、キッチンの扉に手をかけた。
(そういえば)
背後で聞こえた電子音。
おれに聞こえたということはアプリケーションではなく据え置きの映話機だろうが、聞き覚えのない音だった。買い替えたのだろう。
「……そうか……」
時の流れを実感した。
なんとなく、もう戻る場所はないのかという気になった。
あの家にいたのはもう十年も前のことなのだ。
そんなことはとっくに知っていたはずなのに。
なにもかもは変わる。
それでも、変えられないものもある。
(子供の死体──)
灰色の死体袋が脳裏をよぎる。
おれは頭を振ってさまざまの思考を振り払った。
そしてペーパーナイフを握り直すと、当面の身の振り方を決めるため、キッチンをゆっくり後にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます