05-01 消えた死体
だが、選択肢はもはや残されてはいなかった。
安置室に戻ったおれを待っていたのはサトウ・タナカではなく、空っぽの安置台だけだった。
冷え切った部屋はがらんとして、おれを静かに出迎えている。
力の抜けた手のひらから滑り落ちて、ペーパーナイフが床の上で高い音を立てた。
「……まさか」
とっさに窓に駆け寄る。カーテンを跳ね開ける。
窓こそ閉じていたものの、しっかりとかけたはずの電子錠が開いていた。
そっと押してみると、なんの抵抗もなく窓は開く。
見下ろした先はいつも通りの住宅街。夜が明けたばかりなのも手伝って、人影はひとつも見えなかった。
「やられた……」
つぶやきを絞り出し、額に手を当てる。
崩れ落ちてしまいそうだった。
本当に──致命的に厄介なことになった。
ここでいう〝致命的〟とはまさに文字通りだ。
部屋を見渡す。
銀色の安置台は空っぽで、脇の器具置きに青いリボンがぽつんとひとつきり。
書類だけはそのまま残されているようだが、なんの意味もない。
ざっと確認した限り、遺体の他に盗られたものはないようだが、もはや慰めにもならなかった。
リボンを取る。とろけるような手触りに、澄んだ青が鮮やかだ。
ぎゅっと握りしめ、震える息を長く吐いた。
逃げるように目を閉じる。
おれはここでじっとしていればなにもかもが終わっていて、いつもの日常が戻っていることを願った。
だがそんなことがあるはずもない。
ご遺体は盗まれました、などと言える訳がなかった。
あの依頼人たちはどう考えても、その辺の小市民ではない。
なにか厄介で、大きな存在が背後についている。
こんなことがばれたら終わりだ。
(どうする。どうすれば──)
そのとき。
すみません、とドアの向こうから声が聞こえた。
びくっ、と背が跳ねる。慌てて駆け寄る。
細く押し開けた向こうでは、〝依頼人〟のひとり──それも男──が薄く笑っていた。ぞっとした。
からからの喉から声を絞り出す。
「ど──どうされました」
いきなり刺されたり組み伏せられたりするのではないか。
せめてナイフを拾っておくべきだった。
くちびるの震えに耐えるおれをよそに、男は目を細めて──当たり前のように口を開いた。
「すみませんが、お手洗いはどちらでしょう」
「お手洗い」
間抜けにも復唱してしまった。
てっきり、もっと深刻な事態かと思ったのだ。
かすかに肩の力を抜き、ご案内します、と部屋を出ようとしたとき。
実にさりげなく、ドアの隙間に男が目をやった。ぎくりとした。
「お待たせしてしまい、申し訳ありません」
身体でさえぎり、すっとドアを閉じる。
途端、妙に冷えた目がちらりとおれを見た。
それでわざと中を覗いたのだとわかった。おそらく手洗いは口実だ。
おれは後ろ手でドアの認証に手のひらを押し当てる。
案内で離れたすきに、女二人が安置室を確認する算段かもしれない。
鍵はかけておきたかった。
笑みが引きつらないように意識して、こちらですと歩き出す。
しかし、足音が続くことはない。
振り返れば、男はおれについてきてはいなかった。
じっとドア──もっと正確に言うと、施錠を示す赤いランプを見つめている。
心音が嫌な早さで鳴った。
狼狽を、それでも表に出さぬよう笑みを作る。
「どうされましたか」
「ああ、いえ。ずいぶんこまめに施錠されるんだなと」
「そういう──決まりですので」
声が上ずりそうになる。
おれは祈る気持ちで、早くドアから離れてくれと心底思った。
男はまだ施錠ランプを見ていたが、ふっと視線を離した。ほっとする。
しかし、
「棺が開いていたように見えたのですが?」
「──っ」
喉の奥で変な声が出かかる。
肩が大げさに動きそうになるのを、おれはかろうじて制御した。
少しだけ肩をすくめ、なんとか笑う。
「予備の棺ですね」
「安置室に予備を置くんですか。倉庫などではなく」
ずいぶん突っ込んでくる。
いい加減引いてくれ、と叫ぶように思いながら、おれは頭を必死に回転させる。
ぎりぎりの精神状態で引きつった笑みを作ると、ええ、と言った。
「ご遺体の〝状態〟によっては、棺の外まで、その──液体が染み出ることがありまして」
「……ああ」
想像したのか、男は顔をしかめた。
一応、嘘ではない。
わざと直接的な物言いをしたおかげだろう。男はそれ以上聞いてこなかった。
おれは手洗いまで男を誘導する。
ちらりと振り返った安置室前の廊下はがらんとしていて、女たちがやってくる気配はなかった。
男が手洗いに消えたのを見て、大きく息をつく。
そのまま踵を返そうとして、しかし。
「──あら。そちらにいらしたんですね」
びくんと心臓が跳ね上がる。
さっきから何度目かわからない。
おれの心臓はそろそろ止まるんじゃないだろうか。
女が待合のドアを開けて、隙間から顔を覗かせていた。
穏やかな顔つきをしているが、目の奥に探るような色が見えるのは、きっと気のせいではない。
「ずいぶんかかっているようでしたので」
「お……お待たせして申し訳ありません」
頭を下げる。
女はいいえ、と言って身を引いた。入れという仕草だ。
おれは用事を作り出して安置室に戻ろうと考えた。
「いやあ、お待たせしました」
だが、背後の手洗いから男が戻ってきた。
やたらと早い。気が付けば挟まれる形になっていた。
おれはちらりと背後を振り返り、頬をひきつらせ意味もなく会釈する。
男はおれの退路を塞ぐ形で立っている。
前方では女がドアを開けて待っている。
完全に、安置室には戻れない空気だった。頭が痛くなりそうだ。
女性にドアを開けさせて、いつまでも待っているのは妙だ。
おれは仕方なくあいまいな笑みを浮かべ、待合へと入った。
もうひとり、神経質そうな眼鏡の女がおれたちを待っていた。
ソファに座った眼鏡の横に、穏やかぶった女が腰を下ろす。
しかし、男のほうはなぜか座る気配がない。
彼はそのままゆうゆうと歩き、なぜかおれとエレベーターホールへ続く扉の間に陣取った。
(逃走経路が消えた)
ますます嫌な感じだ。冷や汗が背を伝う。
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