誘う鋏
第44話 ①
おかしいな……ここは職場ではないはず。寝ぼけながら辺りを見回すと鏡台の上の鋏が目に止まった。思わず目を見開いた。鋏が独りでに動いている。鏡台からふわりと鋏が宙に浮かび上がった瞬間、脳天目掛けて鋏が飛んできた。
「……っ!」
薄く目を開けると鋏は鏡台の上に置いてあるままだ。どうやら、寝ぼけたらしい。朱里は不気味に思いながらも再び目を閉じて眠りについた。
今日は早番なので、朱里は九時に店舗に到着した。宝生駅前の商店街を抜けた橋の先にある美容院『グリーン』が朱里の職場だ。店内は植物園をイメージしており、店内の装飾はグリーンや多肉植物に囲まれている。その植物の世話も下っ端の朱里の仕事だ。美容の専門学校を卒業したものの、別の会社に就職、そこを退職してから美容師として再就職した。店についたら掃除、グリーンの世話、来客対応と電話対応だ。そんな朱里もいよいよカットデビューの日が近付いていた。デビューの日は一番最初のお客様に長年の親友に来てもらう予定で、その日が来るのが嬉しいような緊張で逃げ出したいような不思議な気持ちだった。
今日は月曜日の為、一日を通じて客足はゆっくりなので業務の合間に店長とカットのデモを行ったりしながら一日が終った。終業間際、店長に声をかけられた。
「川口さんのカットデビューの日なんだけど来週はどうかしら?」
朱里は息を呑んだ。
「は……はい! よろしくお願いします。」
「確か、最初はお友達に頼むって言ってたわよね? 木曜日の営業時間後にお友達に来られるか聞いてみてくれない?」
「わかりました! ありがとうございます!」
このお店では、デビュー前日に最初のお客様カットをして翌日からデビューとなる。
「じゃあ、お疲れ様」
朱里は十九時に店を出た。
* * * * *
昨晩、遅番だった朱里は、くたくたになりながら仕事を終えて駅に向かっているときに、ふと着物を着た若い男性を見かけた。後ろからこっそり見ていると男性は酒屋と喫茶店の間を曲がり、石畳の道に入っていった。前にテイクアウトの珈琲店が入っていたのでその店に行ったのかと思って覗いたが店は変わっていた。男性がシャッターを開けて中の電気を付けるとそこは一瞬にして暖かな光に包まれたアンティークショップが現れた。朱里は石畳の道から、魔法に掛けられたかのように店に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ」
先程の男性だ。褐色の着物を着ている。
「開いてますか?」
「ちょうどオープンしたところです。どうぞ」
朱里は店に入るなり、棚の一点に目が釘付けになった。棚の上から二段目の真ん中、朱里の目線の高さにその鋏はあった。アンティーク調の金の鋏で持ち手の先に薔薇の模様が施されている。普通の鋏とは違い持ち手の部分に出っ張りがあり見てすぐにカットシザーだとわかった。カットシザーは普通の鋏とは違い、左右の刃の長さや太さが異なり美容師はそれを使いこなしてカットする。
「すみません! この鋏……散髪用ですよね?」
「只今、伺います」
店主が立ち上がり朱里の隣に来ると、白い手袋を嵌めて鋏を取り出してくれた。
「はい。こちらは、散髪用のステンレスの鋏です」
「新品ですか?」
「はい。ただ、個人様の所有のものでしたので……未使用品という扱いになります」
「こんな……素敵な鋏初めて見ました!」
「こちらは、鋏のコレクターの方が所有していたものです。普通の鋏もこちらに」
普通の鋏は、持ち手の先に兎が施された鋏だった。刃先が耳になっていて可愛いが普通の鋏は必要ない。手袋をはめて散髪用の鋏で紙を切らせてもらうと、切れ味良くジャキンと音を立てて紙は切れた。
「この散髪用の鋏はいくらですか?」
「こちらは、三千円です」
朱里は迷うことなく購入した。素手で鋏を持った瞬間、異様なまでに手にフィットし、すぐにでもカットをしたい気持ちに駆られた。
「ケースも付属しますのでお包みしますね」
朱里はハッとして店主に鋏を渡した。
* * * * *
帰り道、今日もアンティークショップの前を通ってはみたが石畳の先は真っ暗で店はシャッターが閉まっていた。なんだか、残念に感じたが仕方がない。朱里は帰宅すると、すぐに親友の
『おめでとう!』
程なく響子から返信がきた。
『それで、急なんだけど木曜日に最初のお客様になってくれないかな?』
『仕事帰りで良ければ行けるよ』
『ありがとう! 何時に来られるかな?』
『21時には行けるよ。大丈夫?』
『お待ちしてます』
響子は、幼稚園からの同級生で、今ではピアノの先生をしている。もともとはプロを目指して音大まで行ったもののそれは叶わずピアノの先生になった。細くて綺麗で美的センスまである響子のことを朱里は羨望の眼差しで見てきた。
深夜、朱里は自宅で鋏を持ってイメージトレーニングをしていた。新しく購入した鋏は使わないつもりだったが、何故か頭から鋏のことが離れない。鏡台の上に置いた鋏は異様なまでに朱里の心を掴んで離さなかった。見た目の美しさだけではない。一度持ったときに気付いたのは手にピッタリとフィットして朱里専用に作られた鋏のようだということ。頭の中で響子の頭をイメージして鋏を開いては閉じ、開いては閉じ、部屋には鋏の音が響いた。
響子の髪は黒髪のロングヘアー。一見ストレートヘアーなのだが、前髪に癖がありうねりやすく、後ろ髪も短くしすぎるとうねってしまうので短くはせず、軽くして毛先を切りそろえ軽く見せる。朱里は切りながら、響子の顔を思い出した。色白で黒目がちの瞳。鼻は小さく、口元は、ふっくらとしている。
羨望の眼差しで響子を想った。生まれつき美しい顔、スタイルが良いことも自分には無いもの。
実際は響子がずっとダイエットをしていることも、白くて綺麗な肌は今では化粧でできていることも知っているが、全てが妬ましかった。
響子がピアノでプロになれなかったのは、大学在学中にコンクールに入賞できなかったのは男と遊んでいたからだ。
逆に響子は、朱里の過去を知っている。朱里は昔、太っていた。小学生の頃は男子からデブとか罵られたり女子からも太っているだけで陰口を叩かれて無視されたが響子は違った。同じグループに入れてくれたり、バスは隣に座ってくれた。
でも、響子の本音は私がデブでブスなのに、親切に出来ることを自慢したかったように見えたし、会話ではマウントを取るのを楽しんでいた。
朱里は高校生になってからダイエットや化粧に目覚め、成人式では当時の友達全員を見返すことが出来たが響子は相変わらず朱里を見下しマウントを取り続けているように思えた。過去に、朱里の彼氏を寝取られたことがあった。彼と喧嘩した日の翌日、家に行くと響子と彼は裸で寝ていた。彼は、『朱里とは別れた』と響子に言っていた。
朱里は鋏の刃を思い切り振り回した。それから、響子の白い肌を薄く切り裂き、唇を切りつけた。響子は微動だにせず切り刻まれている。朱里の中で強い殺意が芽生えていた。思い切り鋏を喉に突きつけ引き抜くと血が吹き出した。
「……いかがでしょうか……」
朱里は鏡で後頭部を映した。響子の髪はボサボサになり、ざく切りだった。
「わぁ。すてき。さすが朱里!」
響子はそう言った。言ったと思うが、そこには血まみれになって口も鋏で切られた女が座っていた。
朱里が鋏を落とした瞬間、椅子は誰も座っておらず鏡台にはひどい顔をした自分が映っていた。
「な……なんてこと……なんてこと考えてたの……!」
朱里は半泣きになり、鋏を棚の中にしまった。
「い……今のは妄想よ。響子は私の親友だもの」
朱里は冷汗を拭い、シャワーへと向かった。
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