第49話 逃亡の果て

 このホルラトの村は、もともと半魚人たちが陸にあがるときの一時的な退避場所であったらしい。

 自分たちの領域が侵されたことに彼らは当然のごとく激怒した。

 水中宮殿を主な生活拠点としている彼らにとって、陸での生活は海で手に入らない物資を調達する場所でもあるが、憩いの時間でもあった。

 魔物である彼らにも感情があり、娯楽がある。

 もっともその娯楽は、人間にとっては残酷なものであることが多いのだが。


「助けてくれ! こんなところで死ぬのは嫌だ!」


 ベルンは格子戸の外に見える見知った村人の叫び声を聞いてそっと視線を落とした。

(逃げられなかったか)

 これで脱走を試みる村人は何人目だろうか。

 強制労働で一日中働かされ、その合間にも戯れのように拷問される生活が嫌になり、逃亡を試みる人間が出始めたのは数週間ほど前。

 半魚人(インスマウス)の数が、海へ帰還するために激減したことがきっかけだった。

 もともと半魚人(インスマウス)は海底の神殿に住まう主人のために、必要な物資や捧げ者を調達するために地上にあがるにすぎない。

 だからホルラトの村に生活の痕跡がほとんどなかったのは当然なのだ。

 とはいえ、彼らの意識のなかでホルラトの地が自分たちの縄張りであったことは間違いない。

 そのためホルラトの村人に対する彼らの怒りは容易には治まらなかった。

 もっとも、だからこそベルンは今も生きのびている。

 ――――そう、彼らは娯楽として人間を飼うことを思いついてしまったのだ。

 

「げふっ! げふっ! うるるるるるるる」


 祈りもむなしくベルンの願いは叶わなかったようだ。

 男の皮膚が少しづつ浅黒く変色し、かっと見開かれた目はまるで魚のように丸々とした濁った瞳に変わっていく。

 そして腕の肌に鱗が生え始めると、男は何かに歓喜したように大声で哭きはじめ、全身の痙攣が収まることにはすでにかつての男とは別人に変貌していた。

 すなわち、半魚人(インスマウス)の眷属へと変身したのである。

 これから繰り広げられるであろう惨劇からベルンは視線を逸らして頭から粗末な布を被った。


「いやだいやだいやだいやだあああああああああ!」


 ゲッゲッゲッと楽しそうな笑い声。

 泣き叫ぶ男の身体に、何か怪しい液体が注入される。

 ――――数瞬の間をおいて、耳をつんざく断末魔の絶叫が響き渡った。

 両手両足を縛られたまま、ほとんど垂直に男の身体が飛び上がったかと思うと、びくびくと全身を痙攣させる。

 そのまま死んでくれ、とベルンは信じてもいない神に祈った。

 あの液体を注入されると、十中八までは拒絶反応を起こしてその人間は死ぬ。

 だが――――

 不幸にして男は異形のものへと変身を遂げたのである。

 その姿は正しく彼を捕らえた半魚人(インスマウス)そのものとなり果てた。なり果ててしまった。

 もはや彼は以前の人間としての彼ではない。

 その証拠を突きつけられることになることをベルンは経験的に知っていた。


「あなた! あなた! 目を覚ましてええ!」


 変貌してしまった男の前に、彼の妻が身をよじってすがるように手を伸ばした。

 だがその願いがむなしいことをベルンは知っている。おそらくは今愛する夫にすがろうとしている妻も。


「グゲッ」


 心から楽しそうに男の喉が鳴る。

 そして次の瞬間、無造作に男は新たに生えた牙で妻の喉笛を嚙み切っていた。


「あ、なた――――」


 妻の涙を一顧だにせず、男は肩を揺らして喜びに震えている。

 新たな生命の解放と、新たに得た主への忠誠と愛に目覚めた男は、両手を広げ万歳をするように歓呼の叫びをあげた。

 それが新たに彼らの仲間になった者が必ず通過しなければならない儀式であった。

 また一人、いや、二人同じ村の仲間が失われた。

 ベルンは頭を抱えて絶望を新たにした。


「助けてくれ、兄ちゃん――――」


 どこで自分が間違ってしまったのか。

 ラングドッグの村に未来を見いだせなかったことが悪いのか。はたまたソルレイスの村で仲間同士派閥争いを起こしてしまったことが悪いのか。

 やりなおせるものならやりなおしたい。そしてこの生き地獄から救い出してほしかった。


「――――うん?」


 何やらいつもと違う騒々しさがあることにベルンは気づいた。

 村人たちの悲劇を餌に喜んでいるのかと思ったが、いつもの感覚とは違う。ベルンが感じ取ったのは喜びではなく怒り――――


「グギャ! グギャギャ!」

「ゴウワゴワ!」


「これってまさか――――」


 ベルンは慌てて窓から村の様子を覗いた。

 半魚人(インスマウス)のリーダーが配下の男? たちを蹴飛ばしているのが見える。何か不測の事態が発生したのは確からしい。


「ゲッゲッ!」


 つい先ほどまで村の仲間だった男――が何かに気づいたように立ち上がって叫んだ。

 激しく村の奥を指さしているところから察するに、どうやら彼以外にも脱走者がいたのではないだろうか。

 あるいは彼自身が最初から囮の役割を担っていたのかも。

 人としての理性を失った今、彼は人間だった記憶を敵として使おうとしていた。

 駆け出した彼のあとを追うようにして、わらわらと半魚人(インスマウス)たちがついていく。

(せめて助かってくれ……叶うならこの状況をソルレイスの村に…………!)

 ソルレイスの村にはあのトルケルがいる。

 ベルンはトルケルの正体がレダイグ王太子デルフィンであるとは知らないが、彼の力のほどは知っていた。

 このウロボロスラントでこのホルラトの村を救うことができるものがいるとすれば、それはトルケルをおいて他にはいないはずであった。



「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」

 モルドーは険しい山道を必死に走っていた。

 木の枝や鋭い岩に引っかかったせいか、体のあちこちから出血しているがそんなことを気にしている余裕はない。

 あの忌まわしい半魚人(インスマウス)どもに捕まれば、死か人間としての終わりが待つのみである。

 先ほど捕まった男――カリストとモルドーは最初から別方向に逃げることを打ち合わせていた。

 そして体力で勝るカリストが、あえて囮として放火をして騒ぎを起こすことを買って出たのである。

 カリストの献身に応えるためにも、絶対に捕まるわけにはいかなかった。

 誰かがこのホルラトの村の危機を伝えなければ、村はあの魔物たちに嬲られて数年のうちに全滅するだろう。

 どんなに可能性が低くとも、座して死を待つほどモルドーは諦めがよくはない。


「グギャッ! ギャッ!」

「ちっ! 気づきやがった!」


 まだ距離はあるが、後方で奴等の耳障りな叫びが聞こえる。

 ということは、おそらくカリストは――――


「くそっ! 捕まってたまるか!」


 半魚人(インスマウス)は両生ではあるが、地上での身体能力も並の魔物より高い。

 しかも知能や魔力にも長けており、集団での戦術を使い、獲物を追い詰める術を心得ていた。

 見つかってしまった時点でモルドーが逃げきる確率は相当に低くなっていた。


「ギャッ! ギャッ!」


 モルドーの背中を確認したらしい一人の半魚人が大きく右腕を振る。

 もしその姿をモルドーが確認したならば、さらなる絶望が彼を襲っただろう。

 先頭を切ってモルダーを追う半魚人(インスマウス)は紛れもなく共に村を脱走しようとしたカリストの変わり果てた姿であったからだ。

 

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」


 モルドーの息が上がる。すでに三時間ほどは走り続けているだろうか。

 すでにモルドーの体力は限界に達しつつあった。


「ちくしょう! ここまで来て……いったいどこまで追ってきやがるんだ!」


 半魚人(インスマウス)たちはそれほど内陸まで追ってはこないのではないか?

 そんなモルドーの予測は完全に裏切られていた。

 必要に迫られれば、半魚人は体力と補給の続く限りどこまででも追うことが可能なのである。


「あっ! 」


 運の悪いことにモルドーは湾曲した木の根に足を取られ、もんどりうって転がった。

 その際に足首を捻ったらしく、火傷したような熱い痛みが全身を駆け巡る。

 慌てて立ち上がろうとするも、もはや歩くことさえおぼつかないことにモルドーは天を仰いで絶望した。


「――――ここまで、か」


「ギョギョギョギョッ!」


 ついに半魚人(インスマウス)たちに追いつかれた。

 どうせ捕まるのなら、せめてあの儀式を受けずに済むよう戦って死のう。

 そう覚悟を決めたモルドーは腰からナイフを引き抜いて構える。

 そのときである。


「――――なんだか厄介なバケモンがいるじゃないか」


 モルドーが久しぶりに聞く村の人間以外の声であった。

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