歌劇と客人 1
「トキおばあちゃん。寒くない?」
「大丈夫だぁ、美名ちゃん。着込んでるし、掛け布もある。しばらくぶりのリン様のお姿、見逃すわけにもいかねぇよぉ」
「あはは。そうだよね」
多少の
観客が注目する下方とは――夜どきの今、暗い海に浮かぶような教区館建物。
美名とクミ、そして、ヤヨイとトキ
「まさか、教区館の屋上そのものが歌劇の舞台とはねぇ」
「これなら、たくさんのヒトが一緒に観られるね」
「もともと、セレノアスールの町には坂が多く、段々の造りになっていたことに目をつけ、リン様が考案なされた方式です。従来の演劇では教会堂が披露場となりますが、どうしても人数に限りが出てきて、奥で観覧する者には見づらいですから」
「でも」と少女の肩のうえ、ネコが首を傾げる。
「ここらあたりだと遠すぎて、よく見えないんじゃない? それに真っ暗だし……」
「それも、リン様は対応を取り入れてあります。照明役、
「はぁ……。やっぱし、ラ行は便利だわ……」
「創意工夫のヒトなんですね。リン様は」
少女がしみじみと言ったところ、薄灰の瞳を
「リン様は誇りや気概を高く持ちながらも、古式に囚われないヒトなのです! 私もそんなリン様に憧れて、魔名術の指導では
「あ、え、あはは……」
ヤヨイの押し迫るような勢いに、さすがの美名もたじろいで身を引いてしまう。
「今夜の演目、『
「はぁ……」
「セレノアスールを発つ前に、ぜひとも楽しんでください!」
「そうします」と美名が控え目に頷くと、ヤヨイ少年も小刻みに頷いて返す。
見つめてくるのが長かったが、やがて、ヤヨイは満足気な様子になると、視線を教区館の舞台上へと戻した。
嵐のようだった勢いに瞬きを繰り返したあと、少女は肩うえのネコに顔を寄せる。
「ヤヨイさんって、本当にリン様のことが大好きなんだね」
「あ、あぁ~……。そうね。そうよねぇ……」
「ふふ」と微笑んで耳打ちしてくる美名に、ネコは少し呆れてしまう。
(
『ご観覧なさる
ネコがひとつ、呆れる吐息を漏らしたところへ、「ラ行・拡声」による案内が響き渡る。少女らの周囲でざわついていた観客らも、申し合わせたように静まり返った。
『これより、教区長復調の記念、セレノアスール歌劇、「散華の前に」を開演いたします』
宣言の直後、教区館のうえに光が落ちる。
扇型の舞台上には誰もいない。かすかに見て取れるのは、照らし上げられた舞台の背後、海に面する暗がりのなかに、十数人のヒトが立ち並んでいる様子。
間もなくして、ヤヨイの説明にあったとおり、セレノアスールの夜空には、舞台を映すいくつもの「ラ行・曲光」の像が浮かび上がった。
ああ 空を見て 思うのは 我が
ああ 雲を見て 思うのは 吹かれ流れる我が身の あまりの軽さを
奥手の暗がりのなかの十数人であろうか、
「そっか。セレノアスールの歌劇って、役者さんが歌うんじゃなくて、別に歌うヒトがいる形式なのねぇ」
「しっ! クミ、静かにお願い……」
「……ごめん」
舞台上では、物哀し気な曲調に誘われるかのよう、脇から歩み進んでくる者があった。
舞台の中央まで来ると、彼女は空を仰ぎ見た。
『
豆粒より小さく見えるほど、舞台のうえの大師と少女らとは距離を隔てている。だというのに、ラ行波導による「
『神々にヒトの世を成す
台詞が止むと、大師が演じる女は
ひとり語りの
ある種、悲壮な感の漂う音楽は、各楽器が競り合うようにして曲調の激しさを増していく。聴く者にはすべて、腹奥から何か、
狂おしさが頂点に達する瞬間、音楽はふいに、張り糸をぷつりと切るように止み、同時に舞台も暗転する。
少女もネコも、息することも忘れ、目が離せなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます