歌劇と客人 1

「トキおばあちゃん。寒くない?」

「大丈夫だぁ、美名ちゃん。着込んでるし、掛け布もある。しばらくぶりのリン様のお姿、見逃すわけにもいかねぇよぉ」

「あはは。そうだよね」


 多少の湿しめりは残るものの、昼間の陽光は坂の道の積雪を充分にかしてくれていた。セレノアスールの夜闇よるやみのなか、そんな道や民家建物の屋根の上、人々はそれぞれに場所をとり、揃って下方を向いては今や遅しと歌劇開演を待っている。

 観客が注目する下方とは――夜どきの今、暗い海に浮かぶような教区館建物。

 美名とクミ、そして、ヤヨイとトキばあも、「悠夕ゆうゆう書架しょか」の前の階段坂に椅子を持ち出し、並んで座っていた。


「まさか、教区館のが歌劇の舞台とはねぇ」

「これなら、たくさんのヒトが一緒に観られるね」

「もともと、セレノアスールの町には坂が多く、段々の造りになっていたことに目をつけ、リン様が考案なされた方式です。従来の演劇では教会堂が披露場となりますが、どうしても人数に限りが出てきて、奥で観覧する者には見づらいですから」


 「でも」と少女の肩のうえ、ネコが首を傾げる。


「ここらあたりだと遠すぎて、よく見えないんじゃない? それに真っ暗だし……」

「それも、リン様は対応を取り入れてあります。照明役、かくきょう役、遠望えんぼう役というラ行波導はどうの役回りがあって、照明は舞台に光を投げ、拡響は歌や台詞を遠くまで響かせます。遠望は夜空の数か所に『ラ行・曲光きょくこう』で舞台上の様子を映し上げるのです。『てれび』みたいなものですね」

「はぁ……。やっぱし、ラ行は便利だわ……」

「創意工夫のヒトなんですね。リン様は」


 少女がしみじみと言ったところ、薄灰の瞳をらんと輝かせ、ヤヨイは「そうなんです」と声音を強めた。


「リン様は誇りや気概を高く持ちながらも、古式に囚われないヒトなのです! 私もそんなリン様に憧れて、魔名術の指導ではじき弟子を持たない方針のところ、なんとか頼み込んでようやく認められたのです! 今では、リン様の振る舞いや言葉遣い、なにもかもに影響されて、劇作げきさくも師事しています!」

「あ、え、あはは……」


 ヤヨイの押し迫るような勢いに、さすがの美名もたじろいで身を引いてしまう。


「今夜の演目、『散華さんげの前に』は、リン様が劇作されたなかでも人気の一作です! 歌も台詞もリン様が作り上げられ、主演も担われる良作です! 美名さんもきっと感激なされるはずです!」

「はぁ……」

「セレノアスールを発つ前に、ぜひとも楽しんでください!」


 「そうします」と美名が控え目に頷くと、ヤヨイ少年も小刻みに頷いて返す。

 見つめてくるのが長かったが、やがて、ヤヨイは満足気な様子になると、視線を教区館の舞台上へと戻した。

 嵐のようだった勢いに瞬きを繰り返したあと、少女は肩うえのネコに顔を寄せる。


「ヤヨイさんって、本当にリン様のことが大好きなんだね」

「あ、あぁ~……。そうね。そうよねぇ……」


 「ふふ」と微笑んで耳打ちしてくる美名に、ネコは少し呆れてしまう。


明良あきら、鈍感なのは確実だけど、美名も美名で、これは相当だわ……)


『ご観覧なさるともがらへ、大変長らくお待たせいたしました』


 ネコがひとつ、呆れる吐息を漏らしたところへ、「ラ行・拡声」による案内が響き渡る。少女らの周囲でざわついていた観客らも、申し合わせたように静まり返った。


『これより、教区長復調の記念、セレノアスール歌劇、「散華の前に」を開演いたします』


 宣言の直後、教区館のうえに光が落ちる。

 扇型の舞台上には誰もいない。かすかに見て取れるのは、照らし上げられた舞台の背後、海に面する暗がりのなかに、十数人のヒトが立ち並んでいる様子。

 間もなくして、ヤヨイの説明にあったとおり、セレノアスールの夜空には、舞台を映すいくつもの「ラ行・曲光」の像が浮かび上がった。 


ああ 空を見て 思うのは 我がみちの行く末が ひとりなることを

ああ 雲を見て 思うのは 吹かれ流れる我が身の あまりの軽さを


 奥手の暗がりのなかの十数人であろうか、女声じょせいの重なりが、弦楽が一種だけの単旋律に乗って歌い上げる。


「そっか。セレノアスールの歌劇って、役者さんが歌うんじゃなくて、別に歌うヒトがいる形式なのねぇ」

「しっ! クミ、静かにお願い……」

「……ごめん」


 舞台上では、物哀し気な曲調に誘われるかのよう、脇から歩み進んでくる者があった。煌々こうこうと照明を当てられて登場するは、曲刀きょくとういた旅装姿の女――ヨ・ハマダリンである。

 舞台の中央まで来ると、彼女は空を仰ぎ見た。


幾年いくねんを経ただろうか』


 豆粒より小さく見えるほど、舞台のうえの大師と少女らとは距離を隔てている。だというのに、ラ行波導による「拡声かくせい」を別にしても、美名には大師の肉声が聴こえた。

 台詞せりふの内容自体は呟くようである。だが、天空の端から端まで、すべてに問いかけるような声量があった。


『神々にヒトの世を成すぎょうが課されていたのならば、さて、私の業とは? 私が為すべきこととは? 探して彷徨さまようこの旅路は、果たして、いつまで続くものか?』


 台詞が止むと、大師が演じる女は諸手もろてを大きく広げる。

 ひとり語りのあいだ、弦楽がひとつだけだった演奏にはひとつ、別旋律の吹奏が加わった。続いて、弦楽器、打楽器――いくつも重なっていき、ついには多重な合奏となる。

 ある種、悲壮な感の漂う音楽は、各楽器が競り合うようにして曲調の激しさを増していく。聴く者にはすべて、腹奥から何か、し上げてくるかのような錯覚を催させる奏楽。

 狂おしさが頂点に達する瞬間、音楽はふいに、張り糸をぷつりと切るように止み、同時に舞台も暗転する。瞑目めいもくし、腕を拡げて天を仰いでいた大師の姿も、闇へと消えた。

 少女もネコも、息することも忘れ、目が離せなかった。

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