軒酒屋の給仕と時間外の来店者
その
細々としたつまみと一杯の酒だけで長居していた客。ちびりちびりと呑む様がどこか哀れな、ひとり者の男であった。
今晩の客はそれを含め、たったの三組。まさに開店休業の
ここ数日は、「ほろ酔い通り」の軒酒屋はどこも同じような有り様であった。
それというのも、居坂に降って沸いた
魔名教会当代教主フクシロが
先代の魔名教会教主は、その地位に在っては珍しく、積極的に公の場に姿を現し、数々の名著を残し、
そんな
教主という地位は世襲ではない。教主職が空位となった際、在位の司教と
つまり、名君の実子は齢が十にも満たないうちに、実績豊かな魔名教の重役たちから「才覚あり」とみなされたわけである。
福城の住民は、当然に期待していた。先代を踏襲し、施政へ参画し、民意を汲み取る教会運営、主都運営をしてくれるだろうと心寄せていた。
今はまだ、若年だから準備の期間であろう。司教ゼダンの執政も堅実実直で申し分ないが、きっとすぐに「名君」も加わり、先代以上の繁栄をもたらしてくれる――。
そう期待していた。
それが、この騒ぎである。
期待を寄せていた反動、福城の町は沼底に沈んだように静かになってしまった。自主的に閉める店は多く、町からヒトはいなくなり、
主都の喧騒は失われてしまった。
四日前には後追いで、魔名教司教の名のもと、戒厳自粛の令が
こんな状況であるから、必然、軒酒屋など賑わうはずもなかった。
「
それでも、この店は子の刻まできっちり営業し、この女給仕は淡々と仕事をこなしていた。
与えられた役割を果たすことこそが、この女の唯一絶対の命題であった。
「動くな」
給仕が据え台を拭き上げていたところ、背後からふいに声がかけられた。と同時に、首筋にはひやりとした感触――。
「動くと、脈道が傷つくものと思え」
「その声は……、お得意さまの……」
女はゆっくりと顔を向け、横目で相手をみる。
女の背後に立ち、小刀を突きつけていたのは黒髪の少年。そのすぐ後ろには銀髪に赤い筋の入った、年頃は少年と同じと思われる少女。
どちらも、なぜかしら髪を濡れそぼらせ、苦みきった顔であった。
「今日も……、『ンノミコ』さんでは予約はありませんよ?」
「知っている。今日は、地下には用はない」
この軒酒屋は、「魔名解放党」の集会の場のひとつであった。
門番と党員(を装った
「では、お食事ですか? 申し訳ありませんが、もう閉める刻でして……」
「食事でもない。俺たちが用があるのはお前だ」
「……私ですか?」
明良は小さく頷く。
「お前は、司教側だな?」
「……」
「党の者が捕らわれているのに、通りが
「……話が見えませんが」
「……この推察は、外れていても構わん。司教側でなかったとしても、お前がこの町に住む者であることには変わりない。捕囚の者たちがどこに囲われているか、教えろ。これだけの騒ぎだ。福城の住民の噂に上らないわけがない」
女はひとつの身じろぎもせず、ゆっくりと正面に向き直った。
「なら、このように物騒な真似、なさらなくてもよいでしょうに」
明良は、「やはりこの女は司教側だ」と確信する。
真っ当な一般人であれば、このように刃を突きつけられ、かくも冷静沈着ではいられまい。この者はどこかずれている。
ずれている女給仕は「神殿区です」と続けた。
「お客様とのやりとりか、仕事仲間との話か失念しましたが、カ行
「……すまんが、福城には不案内だ。神殿区のどのあたりかも教えてもらおう」
「……神殿区の中央にあるひときわ高い丘が『主神の丘』です。『カ行の神殿』がある丘は、その北側、三つの神殿を備える丘です」
「……三つのうち、どの神殿だ?」
「……そこまでは……」
「そうか」と言うと、女給仕の首元にあった冷たい感触は離れていった。
小刀を除け、明良は女を解放したのだ。
女はゆっくりと振り向く。
少年と少女の苦み走った顔は、より深まっていた。
「無法をすまなかったな。どうしても、情報が欲しかった」
「……いえ」
「……言えた義理ではないが、できれば、司教や守衛手に俺たちが来たこと、報せるのはよしてくれると助かる」
「……お客様が来店され、世間話をしただけです。それなのに、なにを告げることがありますか?」
「……
もう一度、「すまなかった」と言って、少年は頭を下げる。それに従うかのよう、少女も頭を下げて、ふたりは店を出ていった。
「告げることなど……、ありません」
女は自らの仕事を再開し、呟く。
「……もとより、『罪人』が現れたら『カ行の神殿』に誘いだすよう、ゼダン様より言い含められていただけですから……」
女給仕は淡々と呟き、淡々と卓を拭き上げる。
与えられた役割を果たすことこそが、この女の唯一絶対の命題であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます