夫婦喧嘩と隠し事

 夜の海。

 本総ほんそう大陸と大都だいと大陸の間に在る、「広西海こうせいかい」。

 波は少し荒れているようだが、そんなものは障りにもならず、ふたつの月を背景に、気ままな様相で飛び過ぎていく影。

 美名、明良あきら、タイバ大師の三人を乗せる、「遊泳ゆうえい」の識者しきしゃ術が施された絨毯じゅうたん布である。


「それじゃあ、私たちは偽計ぎけいのせいで冤罪えんざいを受けてるのね……」


 本総大陸に向かいながらの空の上、明良は、現状が判然としない様子の美名に説明をくれていた。


 「夢乃橋ゆめのばし」の終局、自分らが「何処いずこか」にとらわれたあと、タイバ老師を含む他の者たちは主塔を脱し、逃げ去ったこと。

 その直後、自分たちが罪人であると、司教が公言したらしきこと。

 「何処か」を脱け出した明良が、アヤカムにあわや食われんとする間際まぎわ、識者大師が助け出してくれたこと。

 意識を取り戻し、「十日の猶予」があると知った明良の訴えにより、ふたりで美名を探しに来たこと。


「でも、どうやって私の居所が知れたの?」

「これだ」


 明良は懐中より円形のかな装飾そうしょく――「指針釦ししんのこう」を取り出す。

 少年が蓋を開けると、内部なかには月光に輝く銀色の髪が入っていた。


「これ……、私が切った……」

昏中音くらくあたるおとに呑まれ、衣服さえ失った俺だったが、『幾旅金いくたびのかね』と、お前の誠心せいしんの証である、この髪束だけは残った」

「明良……」


 顔を上げ、少年を見る美名。

 しかし、その拍子、明良はふいと瞳をらしてしまう。

 その態度に少し不思議なものを感じたが、二色にしきがみの少女は老大師に向き直ると、「ありがとうございます」と頭を下げた。


「私も明良も助けていただいて、タイバ様には恩も返しきれません」

「礼なぞ要らんよ。小僧を救い出したのはバリにるところじゃし、お嬢ちゃんを迎えに来たのも、小僧が『行かないと自害する』とわしを脅し倒したからじゃ」

「自害……」


 美名はふたたび、少年に向き直る。

 しかし、彼を見つめる少女の瞳には、相手をとがめるような色があった。

 それを気取けどった少年は、目に見えて狼狽うろたえる。


「明良。なんで『自害』なんて口にしたの?」

「それは……、識者大師が俺を探しに来た理由が、クミが持つ、『神世かみよの稼ぎ方』と引き換えだと言うものだから、だな……」


 美名は唇をキッと結び、震えだした。

 明らかに怒っており、それをなんとか抑え込んでいる様子。

 狼狽えながらも明良は、ここでは逸らしてはいけないとばかり、少女の瞳に応えた。

 そうして、頭を下げた。


「……すまん」

「……すまん、じゃない」

「大師の力を借りるには、それしかなかった」


 頭を上げた少年は、しんとして少女を見つめる。


「……すまん」

「……もう二度と『自害』なんて口にしないで。それを聞いて、今、私の心がどれだけ沈んだか……」

「判った……。自省する」


 それでもなお向き合い、睨み合うようでもあり、見つめ合うようでもあるふたりに、老大師は「やれやれ」と嘆息たんそくを吐く。


「どこの夫婦もばかりじゃが、お前様らもその例に漏れんようじゃの……」

「……タイバ様……」

「おぉ、怖い怖い」


 美名のとがめ顔に肩をすくめてみせたタイバであったが、「じゃが」と言うと、その面差しに険を取り戻した。


「前言のとおり、の頼みには応えられんぞ、小僧?」

「……もうひとつ?」


 小首を傾げ、美名は明良に顔を向ける。


「福城だ」

「……クメン様や、メルララ様ね」


 明良が頷く。


「美名を探す途上、クミらと落ち合うはずの場所に行ったんだが、そこには『数日したら絶対に戻る』との紙切れが木に打ちつけられているだけで、姿がなかった」

「……クミたちも福城に向かったの?」


 「判らん」と答えたのはタイバ。


「じゃが、心配無用じゃろ。行き先が福城や人里でなければ、なまなかな危険なぞ危険ではない連中じゃ」

「……そうよね。モモねえ様も最強の波導はどう大師様もいらっしゃるんだものね」


 そう言った美名の隣、明良の心中には苦いものが走る。


 トバズドリにて、附名ふめい大師バリより明良が受けた宣告、「誰かが魔名を返した」。

 昏中音くらくあたるおとから助け出されてのち、逃げ延びた者らの顔ぶれをタイバから聞いた明良は、「魔名を返した」のが誰であるか、すぐに察した。

 死んだのは、モ・モモノ幻燈げんとう大師。

 タイバ大師も少年のその見解には頷いた。


 明良自身、飄々ひょうひょう妖女ようじょじみた幻燈大師とはまだ関係が浅い。

 しかし、短いあいだであっても、みなに確固とした覚悟をもたせ、「夢乃橋」を先導する手練てれん手管てくだを目の当たりにした。感心し、尊敬に値する大師だと見上げていたのである。

 その重鎮が死んだ。

 死に際の直前まで、共にいたにも関わらず、魔名を返させてしまった。

 少年の気勢は、おおいに沈んだ。

 必ずあだ討ちを為す、と心に決めた。


 だが、美名。

 モモノを「ねえ様」と呼び、彼女への信頼と親愛が深い少女。


 前もって、このことは自身の口から伝えるとタイバ大師には念押ししてある。

 しかし、いざ向き合い、事態の説明をしていると、明良は「モモノ大師が死んだ」ということを伝えられずにいた。

 まだ推察の域を出ないこともある。

 忌々しい占い大師の言など、信ずるに足らないと考える面もある。

 だが、それは言い訳にすぎない。

 明良自身も自覚してはいないが、彼は、少女が哀しむ姿を見たくなかった。

 美名が打ちひしがれる姿は、クシャのあのときだけで充分だった。

 それは、明良の「焦がれる想い」がもたらす、小さな願いだった。


 少しだけ開いた会話のに小さく首を振ると、明良は続ける。


「居所知れないクミたちのことはどうにもできない。無事でいてくれと願うしかない。だが、それ以上、目下に迫って危険な者たちがいる。クメン師やゲイルを助け出すことを、識者大師には頼んだんだ」

「……そうよ。そうよね。もし、クミたちも福城に向かってるんだったら、私たちも加勢にいかないと……」


 ふたりに視線を向けられたタイバ大師は、それでも平然とした顔で「行かんぞ」と告げた。


「お前様らこそ、ゼダンの脅威が身に染みた連中じゃろうて。なぜ、死に急ぐか」

「死にません」

「死なん」


 声を揃えるふたりに、聞こえよがしにため息を吐くタイバ。


「この空中行くうちゅうこう、先導しとるのは儂じゃぞ? この布はこのまま、クミ様らとの約束の地、『天咲あまさき』に向かうんじゃ」

「では、ここで下ろしてくださいますか」

「ここで……、海にか?」

「はい」


 横目でチラリと美名を見遣った大師は、そのまま、眼下にも目を向けた。


「……お嬢ちゃん。それは、『自害する』と言っとるのと変わらんぞ? 先刻に小僧をいさめたばかりの当人が、そんなこと口にしてよいのか?」

「構いません」

「……小僧は止めんのか?」

「俺も一緒に下りるのだから、止めるはずもない」


 タイバは、呆れたように長いため息を吐くと、「無頼が過ぎる」と呟いた。


「……小僧の形見と引き換えじゃ」

「……?」

「髪でも刀でも何でもいい。自筆の証文しょうもん付きで、じゃ。儂が、確かに一度は小僧を連れたという証、されど、勝手に下りていったことの証左とするため、何かしら置いていけ」

「……それなら、いくらでも用意しよう」

「さすれば、どうせ『天咲』までの途上みたいなものじゃ。福城の近くで下ろしてやる」


 顔を見合わせ、美名と明良は顔を晴れさせる。


「……タイバ様!」

「心配り、すまない!」

「喜ぶのはいいが、儂は下りんぞ?」


 「はい」と「承知した」。

 言葉は違えど、まったく同時に頷くふたりに、老人は呆れて首を振る。


 それから、丸一日近く、絨毯は西を目指して飛んだ。

 この空中行くうちゅうこう、自分の足を使う必要がない美名は、おおいに体を休めることができた。

 福城にほど近い森のなかに下り立った少女と少年は、憮然ぶぜんとしたまま飛び去っていく識者大師を見送り、福城へと足を向けはじめた。

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