地の底と関係の破綻 2

「そ、その顔……、はじめ、私たちに見せたのは……」


 去来きょらい術であろう、彼の顔の傷は偽装されたもの。

 怒りと驚きと、その面相へのおぼろげな既視感とに立ちすくむ少女を余所よそに、キョライは立ち上がる。


「『前に立つ者はあなたをみちく者。横に立つ者はあなたと共に歩む者。後ろに立つ者はあなたが道曳く者』……」

「なんで……、なんで今、ヤ行の神言かみごとを……」


 「失礼」と、男は口角を吊り上げる。

 ぐにゃりと歪んだ頬の傷が、ニクラにはひどく不気味に見えた。


「ニクラさんは神を信じてなかったのでしたね」


 キョライは大仰に腕を拡げてみせる。


「昨夜は語り合った仲ではないですか。一時いっときだけではありますが、私も、未来ある者たちに並び立てた気分になれたものです。その手を下ろしませんか? 、私も本意ではない」

「……『ふだがこい』のくせに、私に勝てる気?」


 男の拡げていた左の腕が揺れる。


「……この手が、この顔と同じだとは考えないのですか?」


(まさか……、左手も『何処いずこか』に隠してた?)


 その考えに至って、ニクラには合点がいく。

 キョライは

 自らの身を消したままの移動など、ハ行の高段者でなければ為し得ない。魔名術座学の優秀者であるニクラも知識としては知っていたが、この異常な事態のなか、失念していたことであった。

 キョライのハ行は「段」級が確実。

 加えて、かの者には「魔名を奪う」、「ワ行劫奪こうだつ」がある。

 「風韻ふういん」をたのみにしても、「感覚喪失の音」は去来で消されてしまい、相手の耳に届くことはないであろう。ましてや、ニクラの「雷電らいでん」は妹に遥かに劣る。

 「勝ち目がない」のは自分の方だ、とニクラは自覚した。


「くっ……」

「おおかた、司教に対抗するため、私の『魔名を奪う』すべを利用したい、といったところでしょうか。しかし、このについては、な他の皆さんはご存知ないようだ。『私たち』と仰いましたが、この件はニクラさんの独断。あるいは、あなたは彼女らをも出し抜くつもりで……」


(読まれてる……。けど……)


 ニクラにはもう、「出し抜く」つもりなどなかった。

 「最下層」には辿り着けたが、「大鏡」がまだ見つからない。このままであれば「変理」を為せない。

 ニクラは気がはやっていた。

 司教に対抗するため、「次の矢」――「魔名を奪う」術を確実に手中にしておきたかった。そのためには、キョライの協力が絶対に必要である。術者としては美名という存在があるが、術自体の情報を得る相手はキョライ以外にない。

 彼に「盗聴」していたことを明かし、協力を求める必要がある。

 だが、もしも反発された場合を考えると――今、まさにそうなってしまったが――、その時は自分ひとりだけのほうがよい。

 即座の反撃に遭い、万が一、勝ち目が薄ければ、害を被るのは自分ひとりだけ。「何処か」に囚われるか、「魔名を奪われる」のは自分だけである。

 しかし、それまでのあいだ、一瞬でもあれば離れた仲間に合図を送ることができる。音よりも速く、「光」で妹に伝えることができる。ひと足早く、少女らを逃がしてやることができる。

 このことを前もって少女らに伝えるわけにもいかなかった。キョライが言う通り、な彼女らは、きっと、ができない。

 ゆえにニクラは、ふいに訪れた機会、ひとりでキョライに対したわけである。

 しかし、事態は想定した最悪に至った――。


(ニクリ、逃げて……)


 合図を送るため、ニクラが平手を光らせようとした時である。


「見過しませんか?」


 思わぬ言葉に、少女は魔名術を中断した。


「見過す……? 何を……?」

「ニクラさんは私に。私は、このまま、遺物を探すため、離れたことにする。それでこのいびつな関係を終わりにしましょう」

「……」

「これが譲歩できる限界です。これ以上踏み込んでくるようでしたら、外道げどうなりの考えがある」


 自ら外道を称する者の言葉を信用できるはずもない。

 緊張を解かず、顔を険しくさせるばかりの少女に、「代わりといってはなんですが」と言葉が続けられる。


「絶大な力に対抗するすべをひとつお教えしましょう」

「……『魔名を奪う術』を?」

「いえ。それはお教えできません。今や、『奪名だつめい』は私の命綱にもなりうる秘術。お教えするのは、あくまでも、司教に……いえ、これから立ちはだかる、ありとあらゆる敵に勝てるかもしれない、気休め程度のものです」


 キョライは健在の右手を胸に当て、「襟手きんしゅ」の姿勢を取った。


「心をくじくのです」

「心……?」

「相手の正中せいちゅうと言いかえてもいい。ちからで敵わない者に残された手段。心でもって、相手の正中を砕くのです」

「そんな精神論……」

「いいえ。精神論も馬鹿には出来ませんよ。実のところ、私にも経験があります。遥かに格下だと思っていた相手に『覚悟』でおくれをとり、散々に打ちのめされた経験が……」


 キョライはニヤリとしてから布を引き上げ、顔を隠す。


「しかし、彼は私の正中、『遡逆そぎゃくの希望』を挫くまでには至らなかった。ゆえに、私はまだ、こうして旅路を歩んでいる」

「ッ?!」


 ニクラの目の前、男の姿が足元から消え始める。


「それでは、また。いずれどこかで」

「キョライ!」

「教主様がたにもよろしくお伝えください」


 別れの残響を残し、男の姿は地の底の闇から完全に消えてなくなった。


「……クソッ!」


 舌打ちを鳴らし、ひとつだけ地団駄を踏むと、ニクラはクミらがいるであろう広場の逆側に向け、取って返していった。

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