昏中音と居合の一閃 2

「まさか、居所知れず、果てはひっそり魔名を返上しとるのではと噂されておったお前様が、こんな辺境の大海、のんびり船漕ぎを楽しんでおるとはの」


 空を併走しながらのタイバに、オ・バリはかいを漕ぐ手を止めず、船の前方、睨むように見据え続ける。


「タイバさん、念のためお聞きしますが、アナタは司教から、僕を消せとの命を受けてるわけではありませんよね?」


 「司教」という言葉に、老大師タイバの心中には苦々しいものが走る。


「ふむ。それは、当代附名ふめい大師が姿を隠した理由かの?」

「……はい」

「ならば安心せい。初めから、わしをもたばかる気であったとはあの若造、いくらカネを積まれようと、もうヤツのたすけなぞせんわ。どころか、今、ヤツの首にかかった縄が目の前にあったら、迷わず引くわい」

「……ならよかった」


 安堵するような言葉とは裏腹に、不精ぶしょうひげのバリの顔色はいまだ険しい。

 そこで、タイバは気付く。

 「黒い浮遊物」――「くらくあたるおと」に対し、すでに海面上の視線からも捉えられるほどに接近してしまっている。


「おい、バリよ。この先は危ういぞ。三大妖さんたいようがおる」

「知ってますよ。ぼくが教えてくれましたから」


 タイバは片眉をひそめ、櫂を漕ぎ続けるバリを見遣る。


「ならば、何故進路を変えない?」

「僕にも、『いい加減、飛んでみせろ』との天啓てんけいが来ましたので」

「……何を言っとるんじゃ」


 タイバ大師を乗せた布が、船と並走しつつも、少しずつ上昇していく。


「通告はしたぞ。あとはお前様の勝手じゃ。儂はトンズラさせてもらう」

「困ります」

「……むぅ?」


 タイバは上昇を止め、バリ大師に目を落とす。


を救うには、かの地で出会う者の援けが要るとも、ぼくは教えてくれました。識者大師、彼と僕には今、アナタの援けが必要です」

「……小僧を見知っとるのか? お前様」

「つい最前ですが、きつい諫言かんげんをもらえましたよ。僕の決意が遅いばかりに、彼をみすみす、危地におとしめてしまった……」


 ふぅと呆れるようなため息を吐いて、タイバは前方、くらくあたるおとを指差す。


「見よ、あの不穏なアヤカムを。角猪つのししとは訳が違う。およそヒトの歴史のなか、天災等しく、遭えばただ逃げることしかできなかった『三大妖』の一角じゃぞ」

「逃げることしかんじゃない。それしかんです」

「むぅ……」

「風の噂ですが、近ごろ、『うろ蜥蜴とかげ』を討伐した者があったそうです。あらゆる物を弾く鱗を持ち、あらゆる物を凍てつかせる息吹を吐く、出遭えば絶息に至る三大妖のひとつ……。棲息の地には寄り付かないよう、戒めだけが伝えられ、人々がただ逃げるだけだった洞蜥蜴。それがついに、ヒトの手に落ちた」


 オ・バリは櫂を離し、舳先へさきへと移る。

 風は順風。阻む海流もなし。あとは風に任せれば、船はひとりでにアヤカムへと導かれる。

 舳先の大師は自らの得物を抜き、眼前迫りつつあるくらくあたるおとに刃を向けた。


「居坂は今、新しい時代になりつつあるようです。僕たちがこれから救い出すのは、新しい居坂の担い手です」


 帆よりやや上の高度を保ったまま、タイバも舳先へと進みゆく。


「……すでに儂の助力を勘定に入れとるようじゃが、綺麗言ばかりでは儂は動かんぞ?」


 タイバを見上げると、不精髭の口元が不敵に笑う。


「司教ゼダンを倒し得るすべと引き換えはいかがです?」


 タイバの眉がピクリと動く。


「……なんじゃと?」

「タイバさんは、ぎょうの隔たりを無視した、彼の魔名術を見ましたか?」

「……見た」

「僕は身を隠す前、とある附名ふめい術の研究開発に勤しんでました。僕が司教に追われた最大の理由は、です」

「……して、その術は……」


 バリは笑みを深め、「もちろん完成しております」と答えた。

 それを認めたタイバは、嬉々として「よかろう」と頷いた。


業腹ごうはら収める快感ほど、長生きの秘訣はない。小僧の救出、試してくれよう」

「……僕はてっきり、カネ儲けが生き甲斐なのかと」

「無論、それもじゃよ」


 識者大師を乗せた布が下降してきて、附名大師に並ぶ。

 少年を食っている三大妖、くらくあたるおとは、最早もはやふたりの眼前近い。

 バリが駆る船の帆柱ほばしら先を覆うほどに高く、横にも幅があり、つやとぬめるような黒い光沢はふたりに不快な気を抱かせる。

 バリは腰の鞘に、カチリと鳴らして刀を納めた。


「言うておくが、もとより、命あってこその長生きじゃ。危ないとなれば、儂は逃げるぞ」

「……逃げることに関しては、僕の方に分がありますよ」

「言い得ておる。小僧にとっては、何とも頼りがいのないたすけ手どもじゃろうて」


 陽光降り注ぐ海原。

 ここに、当代識者しきしゃの大師と附名ふめい大師のふたり、三大妖がひとつ、くらくあたるおと相対あいたいする。

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