20歳の夏の日、すべてははじまった
20歳になる夏。
太陽がジリジリと地上を焦がすなか、ロングスカートをさばきながら大股に歩くクロード。この至福の時間は代え難い。
その日、彼は幸せだった。
読んでいた本に夢中なあまり、自宅前の巨木に頭から突っ込みはしたが。
「木よ、
「よお、クロード、今日も本かよ」
巨木に向かって謝っているところに声がかかった。
聞きなれた声は幼馴染のカールのものだ。巨木の枝に腰を下ろして、彼に手を振っていた。
カールは貧乏貴族の五男。
いつもボサボサ髪の、だらしない格好でも
実家は同じような貧乏貴族で、だから食いはぐれて、執政官の騎士になったと聞いた。なぜここでクダを巻いているのだろう。
「カールか」
「そんな紙切れのかたまりと遊んで、なにが楽しい」
「これは紙切れじゃない、文字と呼ぶのだ。ここには無限の知恵がある。おまえのような筋肉ばかりの奴には、わからんだろうが」
「わからんな」
「おまえこそ、執政官の城を首になったのか」
「アホか、俺がそんなヘマするか」
「する」
「あはは……」
彼は歯を見せて馬鹿笑いした。もっさりした奴だが、どこか憎めない男だ。
「ま、いろいろあらぁ。お前、もう20歳だろう、いつまでも男のような態度をするな。嫁のもらい手がないぞ」
「それこそが、大きなお世話だ」
「俺がもらってやろうか」
今度は、クロードが笑う番だった。男と知ったら、さぞ
「ち、笑ってろ」
「ああ、笑ってやるさ」
カールが木の枝から飛び降りて、正面に立った。
「空が青い」
空気は乾燥して、清々しい風が吹いている。
いつもと同じ平和な日。そのはずだった。
自宅の窓がバンと開いて、母が大声で叫んでいる。
「クロード! クロード!」
母の顔は興奮で赤くなっている。
実は、クロードには、もう一つ秘密がある。
その美しく大きな黒目がちの瞳だ。そのままなら普通といえる。
しかし、実際は鳥類の目のように、片方の目だけで人間が両目で見るものを捉えることができる。ときに、左右に瞳を分けて300度近くを視野に収める。
それは人間がすることではない。
目が大きく美しいだけに、左右に瞳を広げると余計に目立ち、人に恐れを抱かせるには充分だ。
幼いころ、彼はうっかり左右に瞳を広げたことがある。その奇妙な動きに、遊んでいた子どもたちは
『うっわ、魔女だ! 魔女だ!』と噂になり、当時も両親にこっぴどく叱られた。
それ以来、両目で必ず同じ方向を見るように訓練した。
今では、人前で失敗することはめったにない。ただ、カールには甘えがあり、うっかり左の瞳だけ移動して母を見てしまった。
「クロード、お前、なんだ。それ」と、カールの顔が引きつった。
すっと瞳を右に寄せて、両目で見ると、カールは怯えた表情を浮かべ、すぐに隠した。
「じゃあな、カール。俺は行くよ」と、言った声に寂しさは隠せなかった。
カールは返事をしなかった。
玄関から入ると、母が口から泡を吹き出しそうな勢いで彼の腕をつかんだ。滑稽なくらい、慌てた母。
「さあ、いそいで着替えるのよ」
「いそいでるさ」
「あなたも、もう20歳よ!」
「あと5日で」
「なんでもいいわ。20歳よ」
なんでもよくないと、言おうとして止めた。
母はクロードの髪をかきあげて、顔をまじまじと検分している。
「本当に誰よりも美しく育って。だからこそ、あなたにふさわしい」
「どう、ふさわしいって言うんだ」
「とってもいいお話が来てるのよ」
ついにきたのか、結婚話が。
相手は誰だろう?
金持ちの婆ちゃんか、後添えとか……。まさか、男か?
彼の孤独は深い。女として育てられ、女のドレスを来て、周囲の人々に「美しい」と褒め称えられてきた。
この運命に意味がある。そう思うことで耐えた。
問題は、その運命が一向に現れないことだ。もう後がない。運命の登場は
「さあさあ、忙しくなったわよ。それにしても、何をしていたの、この汚れは」
チッと舌打ちして、母は下着姿のクロードを家の裏にある井戸まで引っ張った。
「下着も脱ぎなさい」
「ここでか?」
「そうよ、いそいで。まったく先駆けったら、要領が悪いっていうか。すぐに城からの使いが来るってことよ。さあ、時間がない。脱ぎなさい」
クロードは周囲を見渡した。
誰も見ていないのを確認して服を脱ぐと、そこに男性にしては細く骨ばった身体があらわになった。母親は井戸の冷たい水を頭から一気にかぶせた。
「ああ、もう、なんてこと。こんなときに、なんで、こんなに汚しちまってるの」
「転んだ」
「子どもじゃないんだから」
「誰が来るんだ」
井戸水の冷たさに震えながら聞くと、思わぬ答えが返ってきた。
「リーラ城からの使者よ。ヘルモーズ大公殿下からの使者が来られるの。いいこと、上品な態度で接するのよ」
ヘルモーズ大公とはラドガ辺境国の執政官。国の最高責任者であり、壮麗なことで有名なリーラ城の支配者だ。
クロードから見れば、父親ほどの年齢で、すでに結婚していた。
たしか、妻であるカーラ・ド・ヘルモーズ夫人は北の大陸にあるフレーヴァング王国で起きた厄災で亡くなったと聞いている。
いわゆる『炎の巫女の厄災』だ。12年も前の話だ。
彼の従者になるということか?
いや、違う。
たとえ従者だろうと、貧乏貴族の家から女の格好をした、ひ弱な男を雇うはずがない。あるいは、彼は男に興味があるのか。
ぼやぼや考えているうちに、タオルできつく髪を拭かれ、新しいドレスに包まれた。クロードが持っている最上級ドレスで、式典用に
「あなたは、侍女として城に呼ばれたのよ」
「侍女? ヘルモーズ大公の?」
「さあ、どなたの侍女だか。おやおや、髪を洗って、こうして顔を整えると。ほら、とても美しいわ」
「それは、笑っていいのか。母上」
「笑い事じゃないわ」
「俺は男だ」
「ええ、そう。でも、もうそれは諦めなさい」
諦める問題か、という言葉をのみ込んだ。
どうせ、母は聞かない。
クロードには知らされていなかったが、書状が届いたとき、〈城に呼んだ以上、娘には二度と会えない〉と書かれてあった。
それは、いかにも怪しげな申し出であり、父は危ぶんだが、母は一笑にふした。訪れた男は、「支度金は用意されておる。娘と引き換えに渡そう」と告げた。
届いた書状から1週間が過ぎ、ついに迎えがやってきた。
母親によって、ドレスの着替えが終わった頃、迎えが到着した。
「お迎えにあがりました」
「クロード。父が不甲斐ないから」
父は涙を押さえた。
「それでは、クロード様」と、使者は冷たい顔で告げると、クロードを馬車に乗せた。
そうして、急き立てるように竜車は出発していた。
──どうせ俺の人生なんて、自分じゃ決められない。やるだけやるさ。
クロードは小さくなっていく生家で、手を振る母に向かい、舌をだして笑うしかなかった。
(つづく)
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