第82話
耐えろ俺の理性。
マスターとベッドの上でくっつきながら、これでもかと言わないばかりに心臓の音を鳴らす。
……これ、既に浮気ということになるんじゃないだろうか。
いや、どうなんだ。正々堂々と嘘偽りなく「マスターとこんなことをしていました」などと言えないような状況ではあるが、わざとこういう状況にしたというわけでもない。
だが、我慢していようととマスターに恋愛感情を抱きつつあるのも事実だ。
これは浮気になってしまうのか、否か……。そう考えようとしていたが、すりすりと引っ付かれたことで意識を持っていかれる。
ダメだ。他のことを考えて気分を紛らわせることすら出来ない。ベッドから退くべきか? ……いや、この状態でベッドから出たら起こしてしまう可能性がないだろうか。
俺がマスターから離れるためにベッドから退くとマスターを起こしてしまうかもしれない。そうすると真面目なマスターは少し怒るかもしれないし、何よりも「何故わざわざ離れたのか?」と尋ねられる可能性がある。
まさか「マスターを好きにならないようにです」などと答えられるはずもないが、俺は嘘が非常に下手くそだ。
状況を確認する動きは悪手。その場から離れたら不意にマスターを起こして問い詰められてしまうかもしれない。待つしかない。
このギリギリ状態で、耐える他に手はない。
下手に動いて起こすわけにはいかない。
自分に対してとても優しくして信頼してくれる可愛い女の子を好きにならないはずはない。
起こしてまっても寝ぼけていたという言い訳で誤魔化せる……いや、そもそも何があろうと黙っていたらバレないわけだし……。
いいんじゃないだろうか。このまま一緒に寝て恋愛感情を覚えてしまうよりかは遥かにマシなのではないだろうか。
ちょっと寝返りを打ってマスターの方に目を向けるだけなら……そう考えそうになり、口の中を噛む。
ダメだ……見てはダメだ。絶対に可愛い。好きになる。
マスターを可愛い女の子と思うから欲望に釣られるのだ。マスターはアレである甘やかせてくれる聖母、女神的な存在なので恋愛的な視線を向ける相手ではないのだ。
そう納得しようとしていると、マスターの寝言が聞こえる。
「んぅっ……ランドロスぅ……」
た、タイミングが悪い。そういうちょっと甘えた感じの声を出したらダメだろ。普通の可愛い女の子に感じてしまうだろう。
落ち着け俺。いつかはマスターも起きるんだ。それまで耐えればいいだけだ。
そう、もうすぐ起きるかもしれない。……目を覚ます前にちょっとぐらい寝顔を拝見するぐらい……。
自分の顔面を殴る。ダメだ、俺はもうダメだ。頼むから目を覚ましてくれ。
俺の願いが届いたのか、あるいは俺が自分の顔面を殴りつけた衝撃のせいか、背後でマスターがもぞりと動き、ベッドの上に座る。
「ん……ああ、そっか、夜遅くなったから宿に泊まったんだったね。……ん……ランドロスはまだ寝てるのか。ふふ、疲れていたのかな」
マスターの手が俺の頭を撫でた。
それで起き上がるべきだったのかもしれないが、起き上がるとまずい状況になっていたので寝たフリを続ける。
まぁ、しばらくしたらマスターも着替えるだろうし、そうしている間に目が覚めてひっつきすぎてしまっていたことにも気がつくだろう。
……終わったのだ。俺の長い戦いはこれで終わった。
しばらく時間を置いてからベッドから起きると、マスターは髪を手櫛で梳いていた。
まだ着替えてはいないが、普段以上に距離が近くなっていたことに流石に気がついていないなんてことはないだろう。
俺もアレだけのことを我慢出来ていて、今更マスターと普通におしゃべりをする程度で好きになったりはしないだろう。いや、どうだろうか。なんかもう、可愛いから好きになってしまいそうだ。
手元にコップを出して、水を注ぎながらマスターにも尋ねる。
「マスターもいるか?」
「あ、うん。もらおうかな。昨夜はちょっと暑かったから喉が乾いてて、ありがとう」
マスターに手渡すと、彼女は美味しそうに水を飲み干してふぅっと息を吐く。
「ん……お腹空いたけど、一回外に出て、部屋に入り直してボードゲームで遊ぶのはダメかな」
「まぁ、朝に外に出たらすぐ掃除されるかもしれないからな。食べ物ならいくらでも持ってるぞ」
「じゃあ、ちょっとお行儀悪いけど、床に座って、食べてから遊ぼうか」
「じゃあ、そうするか」
朝食にちょうどよく、手で持って食べられるものを取り出してマスターに手渡す。
はむはむと食べるマスターに癒されながら俺も食べようとして……マスターの唇にソースがついていることに気がつく。
薄桃色の唇に白いソースが付いて、マスターは俺の視線に気がついたのか、少し気恥ずかしそうにそれを拭う。
床にそのまま横座りしているマスターを見て、食べようとしていた手が止まる。
「どうかしたの?」
「……いや、なんでもないです」
「どうして敬語なの」
クスクスと笑ったあと、マスターは食べ終わって洗面所の方に向かう。パタパタと歩いていくのを後ろから見て、揺れるシャツの裾を必死で目で追ってしまう。
帰ったらシャルに謝ろう。
「ランドロスも顔を洗って歯を磨きなよ?」
「……ああ」
すぐに食べ終わり、洗面所をマスターと入れ替わりに使用する。
可愛いし好きになってしまいそうだ。
……とりあえず、バシャバシャと水で顔を洗って身体の火照りを冷ましていく。
思わぬ延長戦があったが、俺の長い戦いもこれまでだ。ダマラスよりもうちのギルドマスターの方がよほど凶悪だったような気がする。
なんだかんだ、あまり寝れてないし、帰ったら一人でゆっくりと寝よう。
そう思いながら、部屋に戻るとマスターがベッドの上にボードゲームを用意して待っていた。
マスターはまだ着替えていないらしく俺のシャツだけを着ているという状況だ。
「……着替えろよ」
「え、だって、着替えたら帰ることになるでしょ? 勝ち逃げは許さないからね」
マスターはダボダボの袖を振りながら俺に言う。
「どうしたの? ほらほら、昨日のは何かの間違いだよ。コテンパンにやっつけてあげるからね」
「……あ、はい」
「なんで敬語なの? ん……私もかなり強いはずなんだけど、昨日は勝てなかったから。……もしかして、ランドロスって勉強したことがないだけで地頭がいい?」
「さあ、そんなことはないと思うが……」
好きになってしまわないよう、マスターの方に目を向けないようにしながらボードゲームをするが、気にならないはずがない。マスターが悩んで顔の表情を変えるたびに、理性で必死に抵抗しようとしている視線がそちらの方に向いてしまう。
そのせいで一切ボードゲームに集中することが出来ず、微妙な拮抗が生まれる。
けれど、少しずつ押していき……勝つことが出来た。
勝負が決した瞬間、マスターは勢いよく後ろに倒れる。
「あー、もうちょっとだったのにー!」
マスターはよほど悔しかったのか、シャツしか着ていないという格好だというのに、俺の方に脚を伸ばしながらパタパタ手足をバタつかせる。
珍しい子供っぽい行動に、新たな一面を見てしまった感じで余計に心が惹かれてしまう。
マスターは悔しそうに唸りながら、ダボダボの袖から指を立てる。
「も、もう一戦!」
……思った以上に負けず嫌いだな。そういうのもなんか可愛いというか……。
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