【第2章】第11話 義務と役割

💎前回までのあらすじ💎

【恋愛経験もほとんど無いまま見合結婚した大河瑠色おおかわ るいは、20年近く、夫一筋に家庭円満のためだけに生きてきた。しかし、ある日衝動的に "出会い系サイト" に登録し、そこで出逢った大学准教授の倉松力斗くらまつりきとに抱かれる。そこで初めて女のよろこびを知るが、同時に、秘めた恋の苦しみも知り始める】



       【 本 文 】



瑠色るいさん、最近、何かいことありました?」

大河憲介おおかわけんすけが経営する法律事務所の給湯室で、女性従業員の1人、角田澄子かくたすみこは、瑠色に訊いた。

 澄子はスラリとした長身で、ショートカットが似合う、目鼻立ちのはっきりした美人だ。

 若い頃はさらに美貌が目立ったから、男たちからひっきりなしに声を掛けられた。   

 でも、同性からのやっかみが怖くて、男には極力、愛想を振りまかないようにしてきたものだから、色気が出るいとまもなく40歳を迎えてしまった。

 その甲斐あって、勤め先の同性の同僚やママ友たちには好かれるが、夫や弁護士たちからは “ 可愛げのない女 ” だと思われているのは分かっていた。

 でもいいのだ。別にこれから嫁にいく訳でもないし。澄子はそう思っていたが、ずっと以前に、自宅へ遊びに来た夫婦共通の友人に夫が、

「家に帰ってくるとさ、つのやした大女が、ぬおっと立っているんだぜ」

と、頭上に2本の人差し指をニョキっと立てて言ったのには、頭に来たのを今でも覚えている。

 酔っていたとは言え、聞き捨てならない。いや、むしろ、酔ってつい本音を口走った様子だった。

(よく言うわよ。だいたい、学生の頃にそっちから何度も『付き合ってくれ』って頼んできたから、こっちはお情けで付き合ってやったのに……)

 澄子すみこには、同じ大学サークル内に本命の男がいたが、その男は、澄子と違って可愛げのある女を選んだ。

(あんなブリっ子、ヘドが出るわ)

澄子には、男の前で「女」を全面に出して甘えるなど、できない芸当だった。

 決して顔には出さなかったが、振られて内心かなり傷付いていた澄子には、三枚目でしゃべりが面白く、気安い今の夫がなぐさめになり、その流れでなんとなく付き合い始めた。

 そして、大学を卒業し、就職すると、間もなく結婚した。

(あー、失敗したなあ……)

と今にして思う。

 自分の美しさをもってすれば、もっと見てくれもく、優秀で稼ぎの良い男と結婚できたのではないか。

 しかし、美しさが盛りの娘時代はあっという間に終わると分かっていたし、いつまでも独身のままで働いていては、美人なだけに、かえって痛い女に見られそうだった。それに、人並みに、30歳までには子供を2人産んでおきたかったのだ。

 そんなこんなで、余裕があるうちに結婚したかったから、適齢期にたまたまそばにいた今の夫と一緒になった。

 そして澄子は、計画通り、さっさと2人の子供を産んだ。

 両親も喜ばせたことだし、これでひとまず、人並みの責任を1つ果たせたような気がして、ホッと胸を撫で下ろした。

 しかし、澄子にはまだまだ、やらなければならないことがあった。

(次は、家を建てなくっちゃ)

澄子は、長女を産んだ後に都内の仕事をめたものの、間もなくして、自宅から割と近い場所にある大河おおかわ法律事務所に正職員として就職し、家事も育児も常に完璧を目指して頑張り、ノンキな夫の尻を叩きつつせっせと貯金し、ついに念願の一戸建てを持った。

 日曜の昼下がり、澄子は新築の家のリビングで珈琲を飲みながら、家族と、窓の外の小庭を交互に眺めて思った。

 自分に惚れている優しい夫がいて、一姫二太郎と、理想的な形で子供が2人いて、新しい庭付きの家がある。

 やっと、身分がガッチリ確定したような、社会に根を張れたような、世間に対して堂々と胸を張っていられるような安堵あんど感を持つことができ、少し一息つけるかな、と思っていた矢先のことだった。

 夫が長期間、浮気をしていたことが判ったのは。


  🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹


 澄子は怒り狂った。

「私はフルタイムで働いて、この家を建てるのと子供の教育費のために、美容院代も節約して貯金して、家事育児も1人で頑張ってきたのよ!

それなのに、アンタは仕事にかこ付けて出歩いて、よりによって他の女に、お金と時間を費やしてきたってわけ!?」

積もりに積もった我慢と不満とストレスのありったけを、夫にぶちまけた。

 長身の澄子が、青ざめた整った顔を歪め、腰に手を当てて仁王立ちになると、確かに鬼に見えなくもない。

「おいおい、その貯金や教育費、俺だって嫌な客の所にも足繁く通って、頭を下げて、大分稼いできたんだぜ?いや、はっきり言って、お前よりずっと稼いでいるんだ。俺の方がそれだけ多く働いてるってことだ。なのに、家でまで働かせようとしないでくれよ。それに、育児は手伝っているじゃないか」

「育児?はあ?たまに子供たちを遊びに連れて行くだけじゃない。

だいたい、その女にアンタが費やした金と時間があれば、私はもっと楽ができたのよ!」

(そして、もっと綺麗でいられたのに……)

鏡に映った、髪を振り乱し、やつれた自分の顔を見ると、悔し涙が吹き出してきた。

 こうして、連日言い争いを繰り返していたら、よりによって夫の方から、離婚しようと言ってきた。

(結婚してやったのは私の方なのよ!?なのに、あっちから離婚を口に出してくるなんて、生意気なのよ!

 今離婚したら、アイツは自由になって、その女とくっ付けて良いけれど、シングルマザーになる私には苦労しか残らないわ)

そう考えるとしゃくだったから、浮気についてこれ以上とがめないと約束し、表面上は元のさやに収まった。

 しかし内心は、妻として母として、また真面目に働く真っ当な社会人として、うちでも外でもこんなに頑張っている自分を、妊娠した頃から裏切っていた夫が許せなかったし、信頼感もほとんどくなってしまった。

 そんな気持ちが伝わるのか、夫は女とは別れたものの、澄子に対して態度は硬く、ほとんど口をきかなくなった。

 不仲でギクシャクした家庭は、澄子の理想からほど遠かった。

 澄子は、しっかり者の自分の母が理想だった。

 料理も家事も育児も家計の管理も、手抜きなく完璧だった母のように、自分も一家の主婦として家庭をしっかり運営し、夫は夫らしく、子供は子供らしく、それぞれが分をわきまえて義務と役割を果たし、つつましく健全に生活し、時々皆で仲良く外出しては楽しみ、日々お互いを支え合う、そんな家族になりたかった。

(なのに……なのに……アイツがだらしがないから……無責任だから……アイツさえ、アイツさえもう少ししっかりしていたら……)

そう思うと、キッと結んだ口に力が入るのか、最近は顎関節がくかんせつが痛む。

 夫とは表立って喧嘩をしなくなったものの、忙しく追われるように過ぎていく毎日の中で、心はますますささくれ立ち、何はなくとも苛立って、ちょっとした事で子供に当たり散らしてしまうのだった。

 しかし、職場に来ると、威張った姑と同居し、威圧的な夫に職場でも家庭でも苦しめられている、もっとずっと苦労が多そうな瑠色るいがいるので、彼女と時々、互いの旦那の愚痴をこぼし合っては、なぐさめられていた。

(弁護士で経営者の奥さんだから、さぞや良い生活をしてるのかと思いきや……分からないものね。私の方が、まだマシみたい)

事務所の同僚の女性たちの中には、すでに離婚している者もいたし、大企業に勤める有能な夫がいるものの、忙しすぎて早朝に出勤しては夜中に帰宅するものだから、顔を合わせて話をする暇もないと嘆いている者もいた。

(夫婦って、のがスタンダードなのかも。こじれていないと思っている人は、大河先生みたいに、夫や妻の本当の気持ちを知らないだけなのかもね。大河先生なんて、『ウチは居心地いいよ』なんて自慢してるもんね)

どこの家庭も大なり小なり問題を抱えていると思えば、夫に対しても少しはあきらめがついてくるのだった。

 そんな “ 苦労仲間 ” だと思っていた瑠色が、最近明らかに変わったのが、少し前から気になっていた。


  ◾◾◾◾◾◾◾◾◾◾◾◾


 イケメンの加納かのう先生が辞めてしまってから、女性スタッフたちは、服装や化粧に明らかに気を遣わなくなったのが判る。

 しかし瑠色は、上質なブランド品を嫌味なく着こなしているし、数少なく身に付けている本物のアクセサリーもさりげなく、お洒落しゃれには抜かりがない。

 しかしまあ、それはずっと以前からのことだから、ここへ来て急に服装や髪型が変わった訳ではない。

 では、何が変わったのだろう?

 何かが違う。何だろう?

 給湯室で珈琲を淹れながら、そんなことを考えているところへ、瑠色が入ってきて、棚から紅茶のティーバッグを取り出すと、包装を開け、ポットからカップに熱湯を注ぎ始めた。

 その手先を何となく目で追っていた澄子は、朱色のセーターからのぞく、瑠色の手首の白さにはっとした。

 肌の質感や指使いが、なにやらなまめかしいのだ。

「瑠色さん、最近、何か好いことありました?」

澄子は、持ち前の勘の良さから、あやしげな雰囲気を瑠色に感じ取り、追及するようにいた。

「え、どうして?」

瑠色はカップに熱湯を注ぎ入れてから、顔をゆっくりと、少しだけこちらへ傾けた。

 わざとらしい程落ち着いた反応は、そう言われるのをすでに予期していたかのようだ。彼女は、自身の変化を自覚しているのだろうか?

「だって瑠色さん、なんだか最近愉しそうだし……綺麗になりましたよ」

「え、本当?嬉しい」

瑠色は素直によろこんだが、顔は反対側へ戻してしまい、ティーバッグをいじっているから、表情を読み取れない。

「何か好いことあったんですね?良いなぁ~」

澄子は決め付けるように言ったが、しかし、瑠色に限って「男絡み」ではないだろうと踏んでいた。

 瑠色は自分と同じで、は絶対に許せないたちだし、これまで10年間、職場で一緒に仕事をしてきたが、澄子よりずっと、男性と付き合うのが苦手できたらしいことは、容易にうかがい知れた。

 そもそも、男性にあまり興味がないようで、

あの加納健かのうたけしに女性事務員達がこぞって好意を示したのに、独り無関心だった。

「最近、ヨガを始めたからかしら」

瑠色がようやく、こちらへ顔の正面を向けた。

 手には、OLの頃にルーブル美術館へ旅した際に買ったという、“星の王子さま”のイラスト入りカップを持っている。

 瑠色は、知的なのにメルヘンチックなところがある。それに、良く本を読んでいて難しい事を知っている割に、簡単な事務処理さえ苦手でオッチョコチョイで、なんだか風変わりな女だと、澄子は思っていた。

「へぇえ~、ヨガですか。やっぱり美容にも効き目あるんですね。私もやってみようかな」

つい何年か前までは、自他共に認めるスレンダー美人だったのに、30代後半に差し掛かったころから、ママチャリを毎日漕いできたせいか太ももは前面が張ってやけに太くなったし、尻は横に大きく広がって下がり、ついでにバストの位置まで下がってきている。

 ショートなのを良いことに手櫛てぐししか入れない髪はパサつき、慢性的に疲れているせいか、肌もくすんでいた。

 それに比べて、瑠色は苦労している割に、所帯やつれしていない。

 化粧っ気がないくせに肌は白く透き通っていて、髪も豊かでつやがあり、小柄なのにバランスの取れた体は、けっこうグラマーだった。

 その上、最近では、瞳がうるんで見える時があり、同性でもドキリとさせられる。

「瑠色さん、まさか、 “ 彼氏 ” ができたんじゃないですよね?」

と冗談めかして小声で訊いてみると、

「ふふ……そんなことがあったら、素敵ね」

と意外な答えが返ってきた。

 生真面目でお堅い瑠色にこんな質問をしたら、いつもならば、もっと強く否定されるところだ。

「素敵かも知れないけれど、そんなことあっちゃいけませんよ」

澄子は怒ったような口調で言った。

「そうかな?」

「そりゃそうですよ!私は夫を裏切るなんてことはできません。罪悪感で居たたまれなくなります。夫が私を裏切ったことだって、絶対許せませんもん!」

「罪悪感か……。あんな横暴な夫にも、罪悪感を持たなければいけないのかしら……」

「……」

そう言われると、澄子は言葉に詰まった。

「まあ、瑠色さんの場合は、万一他に好きなひとができてしまっても、仕方ないのかも知れませんが……普通はダメですよね。

私、もし将来、うちの娘の結婚相手が浮気をして、娘を泣かせたとしたら、そいつを殺したいほど憎むと思います」

娘はまだ小学生だと云うのに、そんなことを想像しただけで、澄子は腹が立ってくるのを感じた。

「なるほどね」

今までは、顧客の不貞ふてい事件の話が耳に入ってくる度に、不貞した人間を、澄子ら他の事務員たちと一緒になって批判し、軽蔑してきた瑠色が、今日は反応が薄くて拍子抜けする。

「瑠色さん……まさか彼氏ができたんじゃあないですよね?」

「……だったら、どうする?」

瑠色が、からかうように言った。

「えっ!?マジですか?」

「なあんてねっ。そう見えるなら、見えないより余程良いわ。まだまだ枯れたくないもの」

瑠色はそう言って笑うと、“星の王子さま”のカップを片手に、ふわりと給湯室を出ていった。

(あ~、一瞬、ドキッとしたぁ。本当に彼氏ができたのかと思った。瑠色さんに限って、まさかね。

それにしても、『まだまだ枯れたくない』か……。

40歳過ぎて、ううん、30歳過ぎた頃から、自分はもう “ 女 ” は終わった。“ お母さん ” だし “ オバサン ” だと思ってきたけれど、違うのかな……?)

瑠色は澄子より5歳年嵩としかさだが、いつも小綺麗にしているせいか、若々しい。そして最近では、かすかだが、色気さえ放っている。

 澄子は、飲み終えたカップを洗って棚にしまうと、洗面所へ行って鏡をのぞいた。

 そして、化粧ポーチの中から、久しく休眠状態だったブラシを取り出すと、髪をとかし、ついでに口紅も引き直した。

 瑠色に何が起きたのか判らないが、自分は、少なくとも子供たちが成人するまでは、これまで通り、職場でも家庭でもキチンと頑張っていくしかない。

(旦那なんか無視だわ。子供のため。そう、子供が第一よ。私は母親なのだから、しっかりしなくちゃ)

澄子は「ヨシ!」と小さく声に出して気合いを入れ直すと、きびきびとデスクへ戻った。

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