【第2章】第10話 “ 想い ” のゆくさき
💎前回までのあらすじ💎
【恋愛経験もほとんど無いまま見合結婚した
【 本 文 】
「あいつを、好きなのか!?」
“ あいつ ” とは憲介の部下で、瑠色の片想いの相手だ。
3年半想い続けた、11歳年下の
憲介はよく、この
「辞めさせてやる」
と何度も口にしたものだ。
その度に瑠色は、さも同意するかのようにうなづいたり、合いの手を入れたりして聞いていた。
お前も当然俺の意見と同じだろうな、という圧力を痛いくらいに感じたし、また、夫以外の男を想っている自分の気持ちが後ろめたく、いっそ、憲介が吐く悪口に同意しているうちに、本当に加納を嫌いになれたら楽なのにと、切実に願ったからだ。
しかし、それは無理な話だった。
瑠色は、あまりに「恋」に無知だった。
人を恋する気持ちを内に秘めることはできても、消すことはできない。
このとき瑠色は、憲介の加納に対する
瑠色は、その場はなんとか誤魔化せたと思ったのだが、間もなくして、憲介は加納にクビを言い渡した。
あれから半年が経った。
先週、加納は「独立」という形で、瑠色の元から去っていった。
外では、紅葉した葉が、音もなく落ち始めていた。
🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹🔹
何を言っても、やっても目の
裁判所からの受けも
3年目の弁護士としては、客観的に見ても良くやっている方ではないかと思う。
しかし、大河所長は、自分の何が気に食わないのか、入所して半年経った頃から、まるで過干渉の母親のように細々と注意してきたり、声を荒げて叱責してくるようになった。
仕事の間違いや、やり方のまずさを指摘されるならまだ解る。しかし、生き方や性格まで直せと言わんばかりに、よく嫌味を交えながら長々と説教されるのには閉口した。
ある時、
「事務所の売上げが悪いのは、お前のせいだ!」と、事務所員全員の前で、オフィス中に響き渡る大声で怒鳴り付けられたことがあった。
入所して2年目を迎えた頃のことで、自分が皆の足を引っ張っているのだろうかと、かなり落ち込んだ。
ところが、後でこっそり、瑠色が慰めてくれた。
「ごめんなさいね。売上げがどうのなんて、加納先生1人のせいなわけないわ。
ベテランや先輩の弁護士がいるのだから。
先生は、まだ2年目。それにしては、とても良くやってくれているわよ。
大河はイライラしているの。加納先生に当たってしまって、ごめんなさい」
加納は心底、救われる思いがした。
所長からこんなに嫌われるなんて、自分にはよほど駄目なところがあるのだと、日に日に自信を失っていたが、所長の奥さんからはこんな風に言ってもらえるのだと、なんとか自信が
以来、所長が留守の時や、事務所の懇親会で瑠色の隣に座れた時などに、互いに遠慮がちではあるものの、彼女と会話できるのは愉しかった。
30歳を過ぎたばかりの加納から見ても、瑠色は若々しかった。
小柄で、肌は白く綺麗で、ほどよく肉付いているが、腰や足首は締まり、服のセンスも
クマかゴリラのような憲介とはギャップが大きく、一見して夫婦とは思えない。
それに、他の女性事務員と違って、変に色目を使ってこないのも
彼女は、たまに夜まで仕事が延びると、いったん小学生の息子を学童保育へ迎えに行き、事務所のデスクに座らせて宿題をみてやりながら仕事をしている姿は
瑠色は、大らかで、のんびり屋な性質だ。夫の大河とは正反対だ。彼女が現れると、とたんに場が明るくなる。
(瑠色さんが一番、所長にしょっちゅうキツく当たり散らされているのに、よくあの明るさを保てるよな)
と、加納は日頃から感心していた。
まあ、確かにオッチョコチョイなところがあって、加納も、瑠色に頼んだ仕事を何度か凡ミスされている。
(でも、なぜか憎めない。許せてしまうというか、許したくなるというか……)
加納は、かなり年下のくせに、見守ってあげたくなるような気持ちを彼女に抱いていた。
それに、自分を見上げて一生懸命話している時の瑠色は、とても嬉しそうに顔を輝かせるのだ。
(可愛いんだよな、瑠色さん)
加納は、胸がくすぐったくなるのを感じた。
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憲介から事実上「クビ」を言い渡されたというのに、加納がなぜかホッとしたのは、このままではいつか、自ら「辞めてやる!」と叫んでしまいそうだったからだ。
憲介から毎日浴びせられる口汚い言葉や不愉快な態度は、注意や指導というより嫌味や皮肉であり、仕事の枠を超えて私生活までけなしてくるのには、人間性を否定されているように感じて苦痛だった。
しかし、憲介は弁護士会の会長経験者であり、弁護士会内の委員会の委員長を歴任するなど、実力者だ。
ひよっ子の自分が、ただでさえ執念深い彼に今から目を付けられては、弁護士会にさえいづらくなりかねない。
加納は、そんな3年分の緊張感が肩から一気に抜けていくように感じた。
憲介が独立までの準備や段取り、仕事の引き継ぎ等について早口で説明するのを、右から左へ聞き流しながら、
(ああ、やっと解放されるんだ)
と思うと、思わず微笑みたくなるのを
(いずれ独立するつもりだったんだ。それが少し早まっただけのことだ。けっこう貯金もできたし、なんとかやっていけるだろう。
それにしても……瑠色さんは、これからもこの人と一緒なんだなあ……なんだか、可哀想だ)
「これで、大体の話は終わりだ。細かい事務手続きは瑠色がやるから、判らないことは彼女に
終業時間をとうに過ぎて、事務所内には誰もおらず、応接室の外はシンとしている。
憲介が立ち上がって重いドアを開けた。加納も部屋を出ようと、憲介の背後に続いた。しかし、憲介が立ち止まって振り向いたので、加納は危うくぶつかりそうになった。
「それから……」
と憲介が口をゆっくりと動かした。
「はい?」
「俺の女房に変な色目を使いやがったら、お前、ここの弁護士会にいられなくしてやるからな」
低い声でそう言うと、憲介は部屋を出ていった。
半開きになった重いドアが、支えを失って自動的にパタリと閉まった。
加納はしばらく、ドアの前から動けなかった。
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(あれ以来、私は憲介さんに恋心を気付かれまいと、ますます、加納先生に対する悪口に相づちを打って、同意を示すようになったのだわ。加納先生への想いを、なんとか諦めようと頑張った。憲介さんの言うとおり、彼は悪い男なのだと思い込もうとした。嫌いになろうとしたのよ!)
憲介に、加納を好きなのかと詰め寄られて以来、瑠色は加納とろくに口もきけなくなっていた。加納も、明らかに態度が硬化した。
憲介は、彼に送別会すらやってやらなかった。定期的な事務所懇親会はあったから、それが送別会のようなものになった。
このとき瑠色は、また加納先生の隣に座れたら、少しは言葉を交わせると期待した。
懇親会では、憲介がいつも、いの一番に奥の席に座り、瑠色は、皆の席が決まったところで、最後に空いている席に座るのだが、加納も最後まで様子を伺って、なかなか席に着かないものだから、2人はよく隣同士になった。
そして案の定この時も、皆が席に着き、加納と瑠色が残った。そして、空いているのはちょうど並びの席3つだった。3つ目には、瑠色が連れてきた息子の幸介が座れば良い。
加納は席に着くと、瑠色を見て、どうぞと自分の隣の席を手のひらで指した。
心なしか、加納の顔が嬉しそうに、パッと明るくなった気がした。久し振りに笑顔を向けてくれた!瑠色は内心
(ああ、最後に加納先生とお話しができる!)
憲介の手前、2人で会話を交わすのには、かなり気を遣わねばならないが、それでも、この半年間、加納は目も合わせてくれなくなっていたから、隣同士で言葉を交わせるなんて、夢みたいだと瑠色は思った。
「お前は、幸介とあっちの席へ座れ」
と、憲介が追い払うように手の甲をひらひらさせるのが、目に入った。
「え?あっち……?」
瑠色は耳を疑った。
「あっちだよ、あっち」
憲介は、隅にある2人掛けのテーブルを指差して言った。
皆が一瞬、キョトンとするのが分かった。
憲介達が陣取っている8人掛けのテーブルは左端にある。そこから、4人掛けテーブルを1つ挟んだ右端の席では、広くない店内とは言え会話には入れないだろう。
「幸介がいると邪魔だろ。大人が喋りたいことも喋れない。お前と幸介は、そっちで夕飯済ませろ。2人なのに4人掛けテーブルを使うのは悪いだろ、
(私は、幸介とお夕飯を食べに来ただけだと言うの?)
他の弁護士や事務員は黙りこくって、気の毒そうにチラとこちらを見たが、何事もなかったかのようにメニューを見始めた。
瑠色は悔しさに震えた。
(どうして!?私も皆と、加納先生と食事を愉しみたい!)
そう思うが、長テーブルの奥からこちらを
「幸介、こっちへ座って、お母さんと食べよ」
「うん」
瑠色は、皆の愉しげな会話に時々混じる、加納の声を耳にしながら、食事を進めた。
幸介と2人で黙々と食べていると、あっという間に夕食は終わった。和食屋へ入って1時間も掛からなかった。
「それでは、お先に失礼します」
瑠色は幸介を立たせると、皆がいるテーブルに向かって声を掛けた。
「お疲れ様でしたぁ」
「お疲れさまぁ」
酒が入り始めた軽やかな声が飛んできた。
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瑠色はこの夜、結局、加納と一言も会話を交えることなく、店を出た。
4ヶ月前のことだ。
そしてちょうどこの頃だ、
憲介の思惑通り、瑠色の加納への想いは、これ以上強まることはなさそうだ。このまま会う機会がなければ、自然と弱まっていくだろう。
(あの人は、私から加納先生を奪った。私のささやかな愉しみを、希望を奪った。
加納先生にクビを言い渡しただけでは足りず、その後もずっと、まあ根気よく私に彼への悪口や批判を聞かせ続け、暗黙に同意を強いている。彼が去ったというのに、いまだに!
その効果は認めるわ。
私は加納先生への恋を、
行き場を失った恋の
全く思いがけず、降って湧いたように目の前に現れた男に。
今、2つの焔は合わさり、激しく燃え盛り始めた。
すでに、鎮火するのは不可能だ。
(もし憲介さんが、私に一緒になって加納先生の悪口を言うように暗に強いたり、私から彼を強引に遠ざけたりしなければ、私は、彼と同じ職場で仕事がてきるだけで、満足していたのよ。毎日嬉しくて、幸せだった。
実際、彼をクビにすると聞くまでは、私はそれほど切羽詰まっていなかったのだから)
瑠色は、
「皮肉なものね」
と
(つづく)
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