第9章   もうひとつの視点 〜 4(3)

 4(3)

 



 まさに、高校受験日の前日だった。急に状態が悪くなり、夕刻から直美は昏睡状態に陥ってしまうのだ。ここひと月ほどは、いつなん時そんな状態になってもおかしくない病状で、それでも直美は受験日までを指折り数え、日々懸命に生き抜いていた。

「お医者さんになって、わたしの病気を治してくれるんだって」

 それにはいい高校、いい大学に入らないといけない……だから何があっても、勉強にだけ集中して欲しい。

 ――だからわたし、沖縄に行ってることにしたい。

 九州くらいでは、地続きの気楽さから日帰りで訪ねてくるかもしれない。けれど沖縄なら飛行機だからと言って、直美は必死にそんなことを両親に頼んだ。

 ――病気を治すって? そんなの、間に合うわけないじゃない!! 

 ――あなたは、そんな頃まで生きていてくれるの?

 そんな思いが駆け巡り、その時順子は直美を見つめることもできないでいた。横を向きっぱなしの順子に向けて、直美はさらに明るい顔で告げるのだ。

「幸一くんのパパもお医者さんだから、幸一くんだって、きっとお医者さんになれるわ。そうなったら、わたしの心臓を直してくれる。早く……そんな日がこないかな……」

「そうだな、そんな日が早く、くるといいな」

 黙ったままの順子に代わり、稔が必死にそう声にした。

 しかしすぐに声が震えて、

 ――そのためには、直美がそれまで頑張って、待っていないといけないな。  

 心に浮かんでいたそんな台詞を、彼はどうしようもないまま心奥底へ押し込んだ。しかしそれでも、この頃直美は話すことはもちろん、笑顔を見せることだってできていた。

 ところが年明け頃から、直美の病状は下降の一途を辿っていく。

「こうちゃん、こうちゃん……」

 そんな掠れる声が聞こえる度に、

 ――直美がこんなに苦しんでるってのに!

 ――あの子は今頃、呑気に勉強なんかしてるんだ! 

 こんな思いとともに、強烈な苛立ちがどうしようもなく込み上げる。そうして順子は何度となく、幸一の家へ電話を掛けようかと思うのだ。しかしその度、直美の嬉しそうな声が思い出されて、いつもその場に立ち尽くしてしまう。

 ――お医者さんになって、わたしの病気を直してくれる。

 そんな猶予など残っていないことくらい、直美も充分感じているはずだった。それなのに、そんな現実が嘘のように明るく響き渡ったのだ。

 ――どうしてあの子は、この期に及んでいい子でいようとするのだろう? 

 以前のように悪態でも付いてくれれば、どんなにか楽だろうと順子は思う。

 良くも悪くもあの少年と出会ってから、直美はとにかく聞き分けだけはよくなった。そんな大人になってしまった直美を無視して、母親である自分が感情だけで突き進んでいいのかと、いつも最後は考えるのだ。結果、大いなるジレンマに苦しみながら、順子は受話器を手にしない。そうしてあっという間に、幸一の高校入試の前日となった。

「直美! がんばれ! 明日だ! 明日になれば、幸一くんがきてくれるぞ!」

 完全に意識を失った直美へ、稔は一晩中そんなことばかり声にした。そしてその翌朝、幸一が出掛けた時刻を見計らって、彼の自宅へ電話を入れる。電話口に出た母親へ、病院で、直美が待っているからと、伝えて欲しいとだけ告げたのだ。もちろん何事なんだと返ってくるが、彼はサラッとこう言って、受話器を下ろしてしまうのだった。

「彼が帰ってきたら、できるだけ急ぐように伝えてください。時間はもう、あまり残っていないようなので……」

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