第9章 もうひとつの視点 〜 3(5)
3(5)
「ホントにさ、結婚しないとかそんなんじゃないんだ。たださ、彼女と昔ね、約束はしてたなあって、さっきいきなり思い出したんだよ」
そんな約束に、若い頃は縛られていたかもしれないと、そう思ったら急におかしくなったと言って。彼は再び、正面を向いたまま頭を下げた。
それは昔、直美が彼に呟いたのだ。
「サンタクロースとしか、結婚しちゃダメだって言うんだ。だから、しないよって約束した。それだけなんだけどね、まあ、これだけじゃ、まるで意味わかんないよな……?」
「サンタクロースって男性じゃないの? サンタクロースと結婚って、したくたってできなくない? それっていったい、どういうことなの?」
「そうか、言われてみればそうだよな、それじゃまた、男色家ってことになっちゃうか、いかんいかん」
戸惑い気味の由子の問いに、幸一はそう言って再び愉快そうに笑った。たそれからの幸一は、由子がいくら尋ねても、昔のことだし、もう忘れてしまったと言って、この話題に一切触れようとはしなかった。
しかし少なくとも、結婚に踏み切らなかった理由の一つに、直美の存在が関わっていたことだけは確かだろう。もちろん忘れたというのもきっと嘘だ。さっき言い掛けた直美との話は、忘れてしまえるものではないように思えた。
人は誰でも、忘れられない過去を一つや二つは持ち合わせている。
小学校を卒業して二十六年。どうしてあんなことをしてしまったか? なぜこうしなかったのかと、様々な後悔を胸に秘めながら、懐かしい面々との時間はこれからさらに増えていくに違いない。
変更の利かない過去だからこそ、お互いあからさまにすることができる。それらがもっと遠い過去になっていけば、新たな真実だって語られるようになるだろう。
由子は幸一が帰った後に、店でそんなことばかりを考え続けた。
自分にも、いつかそんな日が来るのだろうか?
果たしてサラッと、誰かに言えてしまうのか?
――きっと、無理に決まってる。
家路に向かうタクシーの中、由子は久し振りにわんわん泣いた。離婚した時にさえ出なかったのに、涙がどうしようもなく溢れ出る。
――明日になったらぜんぶ忘れて、元のわたしに戻るんだ!
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